2012年 08月 22日
現在、競技としての組手のあり方の変容は、著しい。
去年まで通用した戦い方が、効果が薄くなることが枚挙に暇がないと言える。 そんな中で選手そして私たち指導者は、頭を巡らさなければならない。 いつも感じていることだが、試合に出てくる選手たちの力量に大きな隔たりはそうあるモノではないと感じている。 例えば、流石に試合に出てくる大部分の選手たちの基礎体力(スタミナ・筋力)に大きな隔たりは見当たらない。誰も片手で100㎏を挙げられるわけではない。息一つ切らさず、殆ど心拍数が変わること無く、7分を戦いきる事は、不可能に近い。無論、それに近づくことが選手たるものの理想ではあるが…。ともかく、それほどまでに体力の差が(日本人同士の場合に限るが…)あるとは思えない。 だからこそ、相手よりも「特異・特化した事」をやることに選手達は腐心することとなる。 相手の考えている事の範疇を越えることをやっていかなければ、相手の隙をつくことは難しいとも言える。しかしだからと言って、小手先の技では通用しないのが、私たちの世界でもある。 そして、ある者は、一つの技に磨きをかけ「唯一無二」の「自信」を作り上げ場に臨もうとする。 例えば、下段蹴りに特化し、それに磨きをかけ成果を上げる。 しかし、それとて何れ攻略されたり、効果がなかったりする。 その時、その先その選手は、どうしていくか。 より以上に蹴りの威力を上げるのか。 それとも、相手に悟られぬ蹴りを磨いていくか。 そのどれもが、確かに正解と言える。 このことは、何も私共特有(もしくは秘匿)のものではない。 どんな競技、特に格技に関して言えば、普通に古来より言われているものである。 つまり、「作り」であり「崩し」といわれる「技」の一つ。 それを私たちの競技の上で明確に編み込む事を私は、提唱したい。 ただの「殴り合い・蹴り合い」だけの体力勝負では、その勝率はそう上がるものではない。 ならば、その勝率を上げられるよう、つまり自分の「パターン」を構築する事が、これからは必須となることだろう。どんな局面にあっても、「自身の形」を発露出来るようにすることが、新しい組手の一つの形になるのではないかと思う。 事実、そのような戦い方をしている選手達をある程度、観る事もあるが、まだまだ明文化されているとは言い難い。 私は、今一度、稽古の中でそれらを思考することを推奨していこうと思っている。 確かに言う程容易な事では、決してない。 しかし、それを可能にしてこそ次世代のカラテが、再構築されると確信もしている。 …このことに関して今日稽古終わりにケント指導員と話しをした。 難しい事だとは思うが、その必要性を彼も感じていたようだ。 自分の形にハマれば、それこそ体重差をもろともせずに押し切れる組手を敢行出来る彼だが、相手のリズムにハマってしまうとたちまち弱さを露呈してしまう軽量級の性は、否めない。 ならばこそ、余計にそのことに時間を割いてもらいたいと願う。 そして、それが出来た時、彼は必ず「常勝」出来る器があると確信している。 要は、戦いとは、頭を使う事である。 乱暴に言えば、頭のいいヤツが、強いと言う事である。 ただ力があればいいとか、体重(筋力)があればいいという次元ではない。 今ある体力と技量をどう最大限にその刹那に発揮出来るか否かである。 そのために「意」そして「胆力」を持ち合わせる試合が、出来なければならない。 折角有り余る体力と技量があろうと、的確に出せなければ「負け」である。 それを試す場、それこそが「試合」であると言われる所以である。 「ふだんの稽古通りにやれれば…」という悔恨の言葉は、誰も口にしたくない。 ならば、それを払拭出来る組手をその場で敢行すべく心して今の稽古に専念するしか道はない。 #
by katsumi-okuda
| 2012-08-22 02:00
| 稽古日誌
2012年 08月 18日
残暑…という言葉が、こんなに似合う時節もありません。
というくらい日差しが、厳しい。特に夕方の日差しは、堪え難いものがありますね。 皆さん、あと少しですので体調崩さぬよう勤めましょう。 さて、そんな中、夏期講習中です。 私たちの講習の基本は「自主学習」です。 私たちの受験生(と言っても、その大部分が道場生)は、皆黙々と問題集に取り組んでいます。 極力、講義・説明は、必要最低限にして、練習量を多くしていく。 それによって「練度」を上げていく。 得意なものならいざ知らず、不得意なものを「それなり」にしていこうというのです。 練習あるのみなのですが、大切な心得があります。 「今日、やった分は覚えたつもりでいく。明日例え忘れても気にしない。まず、覚えようと心する」 出題頻度の高い問題は、何度でも繰り返し、その形に慣れ理解していくこと。 それが進んでこそ次の「応用」の糧となる。 得意なものは、それ以上に高見を目指す。 不得意なものは、まず「基本点」を確保出来るように努める。 大体、このことを厳守出来る者なら容易に成績の向上・成果はあるものなのです。 そして、その結果として「勉強の量や時間が増える」ということなのです。 数や時間を競うのが、勉強そして稽古ではありません。 努々(ゆめゆめ)そのことだけは、稽古・勉強する者として忘れてはならぬことです。 何事も、どんなに簡単な事でも意識して行わなければ無駄になるのが、世の常。 「慣れ」に流されぬよう「質と密度」の高い稽古そして勉学に励まねばなりませぬ。 限りある時間、何の為にその稽古をしているのか熟考しながら臨む事が肝要。 そして、その結果「時間」そして「量」が多くなるだけの事を思う。 #
by katsumi-okuda
| 2012-08-18 00:53
| 教育
2012年 08月 15日
先日、愛知の長谷川師範より書籍が、届けられた。「極真の理と技」主にセミナーで行われた組手の指導法について書かれたものです。中には、わざわざ私宛に署名まで頂いて…恐縮しきりです。
その詳しい内容に関しては、皆さんに是非読んでもらいたいと思いますが、その大体が膝を打つものばかり。ふだん私たちが、感じている点や教えていることに見事に合致しています。 数多くの有力選手を輩出したばかりではなく、ご自身自らが名選手であった。ごく普通の体型で並みいる大型選手を手玉に取ったその考えられた動きは、限りない発想と研究心と日々の稽古の成せる技。 今の私たち指導者も、見習わなければならないことばかりです。 そして、カラテにおいてもまた勉強にしても、指導とはどんなことか、どうすべきなのか改めて考えさせられてしまう。 指導者とは、全てにおいて完璧でなければならないのか。 確かに理想は、そうである。 特に技においても弟子に後れを取るようでは如何ばかりか…と考えもするが、さてそこでふと立ち止まる。技量において体力において弟子を凌駕している時分は良い。 しかし、時の流れはそれを許すはずもない。 私たち指導に携わる者は、絶えずそれに抗いながら思考し行動しなければならない。 指導とは一応のものでは、量れない。 体力・性別そして教える本人の気質、環境等さまざまな相違が、当然ある。 それらを全て含めるようなやり方というものは、ないと感じている。 否、あるとすれば、教える事への熱情それだけであると実感している。 例えば、年端も行かぬ子供達、妙齢の方々、そして試合・大会を目指している者達。 数多くの目標が、そこにはある。 そして、それら一つ一つに沿うように指導者は、心をそして身体を砕かねばならない。 教える者も、千差万別なら、教わる側もまた然り。 その全てに必要条件として指導者の熱意と創意工夫が、なければならない。 いくら優れた指導書や方法論が、あろうと、それを活かすも殺すもそれを使う者の胸一つ。 ただ漫然といつものように教えていては、育つモノも育ちはしない。 単に道場生にいて欲しい(経営的に)からといって、媚を売るような愚行と見せかけの技の「安売り」は断じてしてはならない。確固たる指導者自身の理念のもと今に通用する「道」を道場生と共に、ふだんの稽古の中でそれこそ明るく元気に、そして何より分かり易く説かねばならない。 折角、その時、道場まで足を運んでくれたのです。 「いいことを教えてもらった」「楽しかった」と思い、道場を後にしてもらいたい。 私は、いつもそう思っている。 そこに難しい理はいらないと思っている。 何より「道場生のため」を考え、そしてその為に「自身のふだんを鍛える」ことと思っている。 小さな子供に大金を渡すのではなく、小銭にしてその使い方と大切さを伝える…教え始めた頃、何かで読んだ一節が、いつも頭の中にあります。 高尚な理を子供でも理解出来るよう伝えられる事。 そして、伝えた事が実証可能であることが何より大事。 受験で言えば何を言っても合格させなければ嘘になる。 試合に臨む者に指導して勝たせてやらなければ、それも又机上の理に終わる。 その難しさを私たち指導者は、責務とし希求しなければならないと思っている。 成果をだしてこその指導という一面を私たちは絶えず内包していることを忘れてはならない。 しかし、いくら可能な限り良質な指導と環境を得ていようと試合で成果を上げる事は難解である。 だがそれでも、否だからこそ私たちは選手そして道場生以上に熟考し実践しなければならない。 その為に絶えず柔軟な心と頭を磨かねばならない。 美しい一本をとる事を理想とする日本柔道。 それはそれで素晴らしいことではある。 しかし、大舞台で勝てねば何ものにもならない。 選手は精一杯の精進をしているはずだ。 ならば指導する者は、どうすれば現況の試合に勝てるか合理性を見いださなければならないはず。 そして、これは他山の石であり、私たち直接打撃制をとる者は、自分事として熟考すべきことである。 稽古やトレーニングは、指導者の思いつきや気分、やったつもりの自己満足・自己陶酔に陥ってはならない。現代競技に勝てない意味を見い出せないような鍛錬は、労多くして得るものがないと断じよう。 限られた時間と環境の中、それに不平不満を言う前に、まず指導者は、頭を使うことである。 例えば、ある選手をどうすれば勝てるように出来るか考えるとき…。 その選手の特徴(長所、短所)は、どうか。 そして、それらをどう伸ばしていくか、どう穴埋めしていけるか。 そのためのトレーニングは、どれが適切でどれほど効果的・合理性があるか。 目標としていつまでに仕上げていけるか。 また大事な事として選手との意思疎通が良好か。 最も大事な精神面での強化に怠り過不足はないか。 それらを稽古事にサポートしていかなければならない。 トレーニングは然もあれ、稽古は特に精神面に多大な影響を及ぼすと私は考えている。 精神的な支柱のある無しは、競技において大きな側面を有していると言える。 完全な身体を完璧に動かすには、良好な精神が作動しなければならない。 「平生と熱情半々」が、試合場で発露出来るようにしていくことこそが、指導者の務め。 持てる能力が似た者同士が、当たるのが試合である。 どちらが勝ってもおかしくないというなら、最期はやはり「精神性」の高い者が優位である。 十分な体力と技量を持たせ、尚それに「強い心」を持たせ場に臨ませることが、競技における指導者ではないかと私は思っている。 #
by katsumi-okuda
| 2012-08-15 03:25
| 稽古日誌
2012年 08月 08日
休み前に小指を痛めてしまった…いつものように脱臼。
今回は、盛大に外れた(横から見てZ状に!??なった)ので、そして「休み」なので大人しくしていることにしました。そして、以前から妻と約束していた「夕食担当」を承ってしまった。 ちなみに、大学時代Hotelのアルバイトをしていた関係で、ある程度は作れますが、元々あまり「食」に興味がないせいか、ふだんは…あまり…。 そんなことを考えながら、ふと思い出した事があります。 「文章力のある人は、総じて絵や歌が上手」という論証があるようです。 確かに、長く教職に携わっているとそんなシーンによく出会うことがあります。 また「身体の痛みと心の痛みを感じる脳の部位は同じ場所」という説も頷けますね。 身体に負荷をかけ「適切な我慢」を心がけた子供達は、総じて「集中力」に優れ、さまざまなことに適切な「対応力」を身につけられていると感じられます。 決められたことを守る事も、それにあたります。 「礼義・挨拶」そして「勉強」なども、これにあたりますね。 特に子供達にとっては、大変なことでしょうが、是非、習慣として欲しい大切なことですね。 定められた中で如何に自分を発揮していくか、それは何にもまして大切な事だと思います。 これらは、すべて「感性・情操」と呼べるものです。 例えば、ある一定の決まり事のある作文を書こうとした場合、自分が経験したことを「言葉」を介して表現出来るということは、絵画や音楽でも、それらを「感情」として表せることに等しいのでしょう。 また、決められた規則の元、どうすれば自身を発揮出来るかも同等の力だと思われます。 優れた競技者や武道家の人たちが、多方面でも多くの能力を発揮出来ることを観ていても頷けます。 大変手前味噌で申し訳ないですが… 私も、幼い頃から(病弱だったせいもありますが…)日がな一日絵ばかり描いていました。 また、高校時代何をどう思ったか、シャンソンを嗜好しプロの方達に習ってもいました。 どうしてと言われると困るのですが…身体を動かす以上に何か大切なのではないかと…そんなふうに感じていたのかもしれませんね。 ちなみに、今はあまり人前では歌いません。 「…聞いてる人が、ヒクから(妻談)ギャップあり過ぎ(娘談)」と家人に言われましたので… (そう言えば門馬師範も歌は上手ですし、各県の師範達も上手ですね。何か関係があるのでしょうか… 随分以前ですが、師範と一緒に歌ったことがありましたっけ(^^) 何にせよ自分を見せようとする気概だけは、一緒なのかもしれませんね。 そして、そこには有り余る想像力が、なければならないと…ふとそう思いました。 #
by katsumi-okuda
| 2012-08-08 00:26
2012年 08月 06日
オリンピック真っ盛りであります。
そして、日本お家芸と言われた「柔道」特に男子は、金が獲れなかった。 いろいろと原因は、言われているようであり、そして、その難しさは同じように指導するものとして感ぜずにはいられない。 「敵を知り、それ以上に己を知る事」 この情報化の時代、つい先日の試合内容でさえ当てにならなくなる。 ましてや、世界レベルである。一度勝った相手でも、全く油断ならないのが現実。例えば、オリンピックに照準を合わせている者は、それ以外の国際大会は手控えることをよくすると言う。 つまり、各国の対戦相手に手の内を明かさないという。 また、体格・技量共に差のない場合、まずは「体力=筋力・スタミナ」を第一に強化する。 総裁も「体力・力も技のうち。力のない技は、技にならない」とよく仰っていた。 特に身体を直接コンタクトする競技(柔道・アマレスそして、私たちのカラテ)の場合、その比率は小さくはない。それを今回、男子柔道は、どうとらえていたのだろう。 確かに「美しい柔道・一本獲る柔道」は、理念・理想だと思う。 しかし、ただそれに固執するあまり、それ以外に眼がいかなくなっていたのではないだろうか。 選手達は、当たり前だが負ける気などない。 いつも全力でありたいと切望し場に臨んでいるに違いない。 しかし、私のような門外漢が、観ても組み手争いで差し込まれ、力で返されている様を見せられては… 戦っている選手たちの焦燥感が、手に取るようにわかる。 迷い焦る、ために組み手争いが雑になり、かからぬ技をかけようとし返される。 また、迷いからか攻めきれない。結果、指導をもらう。そしてまた焦るの悪循環。 つまり、絶対的な「自分に対する自信」がないように思えてならなかった。 それは単純な「力」に対する自信。稽古量により培われた「自信」と同時に客観的数値に表れる確信がなければならない。何でも構わない。ベンチが何㎏上がる。スクワットが何㎏…ということでも良い。 それらを自信の源の一つとすることは、忘れてはならないと思う。 組み合い「相手のほうが力が強い…」と感じては、その攻防は…。 そして、これらは他山の石ではない。 私たちの競技でも、それは絶えず横たわっている。 簡単な命題のように思え、果てしなく難解な応え方があるものである。 それは、そして何も組手だけではない。 一人行う「型」にしても、それは同じである。 基本・充足した体力がなければ、型は表現しきれない。 これが「獲物を介して行う競技」ならば、様相も違う。 手の先に「剣」や足下に「球」があれば、体力よりも技術がモノをいう。 身体が欧米人競技者のそれに近くなってきたサッカーなどは、その好例かもしれない。 またその相乗効果が、効果的にトレーニングとして活かされ結果として現れたのが「水泳」だと言われている。何故か、格技の世界だけは、どうしたことか「前近代的」な感性がまかり通り易い。 それらを私たちは、選手共々に日々研鑽・探究しなければならないと思っている。 ただいつまでも「オレが昔やっていて勝てた方法だから…」などと言っていては、いつまでたっても勝てるはずはない。あくまで稽古は、さまざまな事象に眼を配り真摯に取り組む姿勢が大事。 気魄も、そうだが、何より何故その方法が、よいのか立証出来るよう指導していける体制が私たち指導者には、求められる。そして、それらを真に希求し実行出来る選手と両輪でなければならない。 何にせよ成果が、出なければならない。 それが、私たちの宿命であり命題である。 どんなに良い事そして環境を整えやらせても、結果が出なければ何にもならない。 …少なくとも、選手たちに整った環境だけでも与えてやれるならば… 先もない事を考えてしまうが、それが私たち指導者の本音でもあります。 #
by katsumi-okuda
| 2012-08-06 22:02
| 稽古日誌
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プロフィール
武道歴四十余年。主たる武道極真カラテ。昭和の名人・達人に薫陶を受け現在、私塾教育経験を活かし新たな指導法を展開。自らも日々稽古を続け、理論と実践の合一を目指しています。
道場指導以外にもスポーツクラブでのカラテ普及に努め、今まで空手に縁のない人たちに空手や武道の良さを知ってもらっています。 カテゴリ
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