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武道カラテ稽古日記

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結果を出すために

 今週末から大会が、始まる。
私たちの団体の先陣をきって「福島県大会」が行われる。
そして、同日首都圏でも、続々と大会が行われることとなる。
それに出場される選手の皆さん、それぞれに記するところがあることと思うが、兎も角不用意な事故なく満足のいく試合をしてもらいたいものだと切望して止まない。

 誰しも、一つでも勝つ事、そして、優勝する事を願って稽古している。
しかし、それでも勝負とは「水物」である

稽古しなければ勝てる確率は、著しく減る。
しかし、どれほど稽古したからと言って必勝に値する確率が、確かに上がるとも言い難い。
だからか、私たちは、稽古にその確からしさを希求し、その稽古そのものに心の安定を求めようとしているのかもしれない。


 そして、勝ちたいというその思いは、時に「強い欲」となる。
時として、それは絶大な味方となり、時に「邪魔者」に変貌する。
しかし、「その心」を自身の掌のうちに修められなければ勝負事は、侭ならない。

 よく「心技体」が大事というが、私の見解は多少違う。
その三位が、同時に向上するものととらえている。
強くなりたい、勝ちたいと思うだけでは「夢・幻」ではある。
しかし、その「思い」を強くしなければ人は、動けない。
そして、それを体現するためには、頭を使い稽古に汗し「体」を作り上げねばならない。
その過程で苦しく辛い思いの洗礼を浴びつつ、心は、その苦しさや辛さに「慣れていく」ことを忘れてはならない。それによって「心」は、いろいろに考え経験する事となる。
それが、心を鍛えるということ
にも繋がる。

身体を鍛えているということは、一重に心も意も、強くしていると念じよう。
そうすることで技を修得するに値する身体と意識が、持てるものなのだから。

私たちの競技の特性上、勝つ為の条件は、周知の事実。
「スタミナ」「打たれ強さ」そして「正しい基本的な技」である。
もし、無尽蔵のスタミナと揺るがず怖れを知らない打たれ強い者が、いたとしたら…大抵のレベルにまでは楽に上れることだろう。しかし、それだけでは上りきらないのも事実。

 ただ、豊富な稽古量をもってこの条件をクリアしている選手は、現在どれほどいるのだろう。
その殆どが、仕事に汗し限られた時間の中での稽古に勤しんでいるのが現状の選手諸兄…歯痒くも不安や焦燥感に少なからず苛まれているのではないだろうか。

否しかし、それでも戦わなければならないのである。
自身が、決めた以上。
それ以下でも以上でもない今の自分の最大値をその場で顕わす事しかない。
そのことに「一意専心」
してもらいたい。
迷おうが焦ろうが、ここから先そんなに体力も技術も上がるものではない。
出来る事は、全力で向かうことのみではないだろうか。

 強い心とは、そういうことである。
迷いも焦りも不安さえも、自身あるがままとしてとらえ
それこそ悔いのない「試し合い」をして頂きたい。
試合とは、今の自分を試合の相手とその機会によって知らしめる場なのだから…。

 道場での組手のように試合を行う事。
相手の調子に合わせ自身の「拍子=リズム」で戦うことが肝要。
限りある体力を有効に使いきること。
無理強いしいらぬ怪我を追わぬ事。
しかし、結果がついてくるなどと甘い事は考えない。
結果を求めて、その場に臨んでいることを忘れてはならない。

そして、最も大事なことは「平生と熱情半々」の心と意の持ちようを忘れぬ事である。
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# by katsumi-okuda | 2012-09-13 01:02 | 稽古日誌

一つの理想

 ここのところ考えていた事がありました。
今の大会、競技において「型」「組手」両方の試合が同時開催される事が少なくありません。
そして、その同じ大会において一人の選手が、その両方に入賞または優勝というのは、稀です。
近いところでは、今年の東日本に出場された選手の皆さんに多く観られましたが、まだまだ少ないですね。

 カラテは、組手だけが全てではありません。
確かに私たちのカラテは「組手が命」という金言はあります。
ですが、やはりカラテなのですから、その全てに関わることに関して秀でてもらいたいものです。

 型が上手ければ、組手が強いなどという簡単な話しではありませんし、そんな短絡的なことが、言えないのも事実。ですが、やはり、その双方に秀でてこそのカラテそして武道であるという思いは、変わりません。ですから、特に少年・女子・壮年部のみなさんには、目指してもらいたいところであります。

 そして、これらは一般部の選手諸君にも、一考してもらいたい命題ではあります。
確かに組手で一流になろうというのですから、その稽古そしてトレーニングにさく時間は貴重です。
そして、いくら有能であっても、それ以外の事に時間と労力を費やすは、容易な事ではありません。
しかし、それでも私は、やってもらいたいと思っています。
ですから、そのためにも私たちの選手たちには、時間の許す限り型稽古に専念させていますし、殆どの選手達は、型を善く行っています。

 ただ手順を正しく行うことや人より幾分早く出来るようになるのは、そんなに難しいことではありません。こと試合に出ようとなれば、それだけではいけませんね。
端的にいえば、型の強弱、緩急、正確さを突き詰めた先に「感性の域」がなければなりません。


つまり「型の中に物語りが見えるかどうか」の世界が必要だと思っています。
いない見えない相手を想定し、あたかも見えるかのような動きでなければならない。
型が型で終わらないとは、そういうこと
だと思っています。

型には本来さまざまな意味合いが当然あります。
そして、そのすべてを内包させた型を行う事は、大変難解だと思っています。
ですから私は、型競技としての有り様または規定の中で表現出来るものを構築すべきだと思っています。その用途において動きは、変化するもの。そのことを踏まえて行う事も大事だと感じています。

型が、護身になると言う見解、そして動きもあります。
そして、競技において「実戦のように相手を想定した動き」であっても良いと思っています。
要は、その競技という場で自身をどう表現出来るか。
そして、その表現に至る感覚や思考が、そのまま自身の組手に反映される事を希求し稽古に、そして試合に臨む事こそが、現代のカラテの一つのあり方だと思っています。

折角、そこにある至宝をそのままにしておくには…
難しい事だし、簡単に成果の出るものでもない。
ですが、だからこそやってもらいたい
と願っています。
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# by katsumi-okuda | 2012-09-10 01:12 | 稽古日誌

合わせる…己と相手

 人はそれぞれ、生まれつきのモノを持ち合わせている。
人よりも背が高い低い。手足の長さ。
そして、それぞれの性格。
数え上げれば、切りがない。

 そして、それを元にして人は、日々の生業を何気なく過ごしている。
なのに、こと組手に至っては、それに反することを行っている事が侭ある。
その全てが、いけないわけではないが、大切な事を忘れてはならない。

 例えば、卑近な礼で申し訳ないが私は、人よりも腕が長い。
人並みの身長なのに腕の長さがある。
そのため、それを活かす組手の構え、戦い方をよく行う事がある。
相手の前に大きく出し、絶えず前後左右にゆらゆらと動かし、攻防のキッカケとする。
少し腰を落とせば、相手の下段蹴りも捌ける。
ために腕そのものの鍛錬は、絶えず行うようにはしている。

 しかし、ではいつでも、そうしているかと言うとそうではない。
相手とその場の状況に常に「合わせる」ことを旨としている。
相手と接近し打突するのであれば、その腕も畳まなければならない。
しかし、それを苦にするようでは半解。
それでも、自身の腕の特性を活かすよう試みる。
また、相手が選手の場合、つまり競技組手で「組手の相手」を務める場合、その構えと動きは異なる。
あくまで道場での組手は、指導が旨である以上徹底して相手に合わせるように努める。
しかし、だからと言って負ける組手をやっている訳ではない。

 若い頃は、足技が得意であった。
人よりも跳躍力があったせいか、回し蹴りに自信があった。
しかし、足を痛めてから股関節に負担が少なく蹴りの基本である直線系の蹴りを多用し磨いた。
そこから、今度は足刀そして後ろ蹴りへと移行した時期があった。
ただ、いつも決着がつけられるモノは、やはり突きであった。

ためにその突きを活かす為に蹴りを磨く事となった。
その後、自身の性格や心の時々の有り様を含め、今の形になっていると推察している。
いつまでも、若い頃の姿形を羨望しても詮無い事。
見かけの技に囚われ、大切な事を忘れては、その鍛錬は遠回りのもの
となってしまう。
そのことを稽古する者は、忘れてはならない。

この競技組手を長く続けていけばいくほど思う事がある。
その痛めて治りきらない身体をどう使い、今の最善をどう顕わすか。
上がらぬ固くなった筋骨を無理強いしては、長く持つはずがない。
ならば、出来る限りの中で作り上げ鍛え上げていく技こそ今の技ではないか。


 そして、それは全ての道場生に当てはまることだと思っている。
自身の心身の特性をよく観て、それらを活かせる形を作り上げてもらいたい。
機に流行り勢いに任せた技は、そう遠くないうちに身体を疲弊させてしまう恐れさえある。

 特に自分の身体と性格に見合った形を見つける事が大事。
皆が、同じ事をする必要はない。
元になる基本は、変わる事はないし変えてはならない。
しかし、それを運用する術は、変えなければならない。
思考を止めては成長もない。

昨日勝てた相手でも、勝てなくなる道理はそこにあるのだから。

 組手で勝ち続けようとするなら絶えず思考しなければならない。
同じ突きを出していても、毎時刹那それは違うものとなる。
その刹那、形を変化させてこその技であることを忘れてはならない。

確かに競技組手は、激しい打突の積み重ねであるとも言える。
その中にあって僅差の勝ちを拾うほうが多いのも事実である。
しかしだからこそ、自身の得意なものを作り上げて欲しいと思う。
絶対的な信頼のおける自身の技(動きや形も含め)があればこそである。
それをもって臨まなければ当然迷い萎縮もしよう。
絶対的な信頼とは、日々の稽古の積み重ねによって得られた体力や筋力かもしれない。
それでも、一向に構わない。
「技は力の中にあり」は私たちのカラテの金言である。
そして、それこそが「自信」という大きな武器となることを心身に刻みこんで欲しい。

ただ何度も言うが、自身の身の丈に合わない戦い方だけはしないこと。
労多くして得られるモノは、そう多くない。
それでも…という気持ちは分からんでもないが、勝ちにいくのなら…
頭を使う事…思考することだ。

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# by katsumi-okuda | 2012-09-06 01:22 | 稽古日誌

九月…いよいよ大会シーズン

 …ほんとに…暑い。
いい加減にして欲しいと人並みに思う。
どうしたことか、木曜日の稽古は猛烈に暑かった…多分空調のせいだと思うが…。
そんな中で弛まず稽古している道場生のみなさんは、大したモノです。

 さて、九月から大会シーズンとなります。
今月は、福島大会を初めとしてあちらこちらで大会が開催されます。
それぞれに選手達は、出場を決めています。
それ相応に精進されていることと思いますので、悔いのないように努めて頂きたい。

 そして、受験生たちも、それぞれ志望校選定の本番にかかります。
こちらも、それぞれに成果をだしていきたいものだと思っています。

 しかし、何にせよ思う事があります。
やるだけのことを同じようにやっていたとしても、成果の出ている者とそうでない者がいる現実。しかたないことと言ってしまえば身も蓋もない。
その現実を確かに踏まえじっと続けなければならないのも又事実。


もし、正しく努力しているにも関わらず成果が、出ないのなら、そのやり方そして考え方を改める度量も大切だと思う。しかし、まずは実直に続ける気持ちを切らさぬ事が肝要。

そして、何より自分の長所を伸ばす事に専念することが大事。
長所は、三倍努力すれば、その効果は、十倍
とよく言われる。
短所は、五倍努力しても人並みに届くか否か。
それを良く理解しなければならない。
無駄な努力というものは、確かにない。
そして、その努力を無駄にしないようにすることも忘れてはならない。


 出来ない、成果が出ないからと言って簡単に諦めてはならない。
出来ないというジレンマは、それに向けて努力した一つの現れでもある。
やっていればこそのジレンマだということを忘れてはならない。
それを思い、何度でも試みる事が大事。
出来ないから成果が出なかったからといって過敏に自身を卑下する必要は、全くない。

それを克服する為にも、それに関わる全ての物事に「全力」を注ぐ事。
全ての事象に自身を当てはめ精進していく事。
例えば、ミットひとつ突く蹴るにしても思考し、そして全力で打ち抜く事。
基本の突き一つ疎かにしない。
たとえふだんの生活にあっても、姿勢や呼吸を粗末にしない。
そんな心がけの一つ一つが、難堰に穿つ一滴となることを私たちは、忘れてはならない。


その姿勢こそが、自身をより以上の高見へ上らせる一つだということを忘れてはならない。
どんな些細な事でも、懸命にやる者の上には必ず次が、明確に示される。
私たちは、そのためにのみ今の精進を繰り返しているのかもしれない。
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# by katsumi-okuda | 2012-09-02 01:27 | 稽古日誌

修行…続ける事です

 …いい加減、涼しくなって欲しい。
確かに朝方の風や木陰は、爽やかさを感じるが…。
でも、夕方の少し斜めな西日が、妙に暑いのが気に喰わない。
でも、あと一ヶ月もするとそれも懐かしくなってくるのだから人の気分とは、勝手なもの。

 あと少しで夏の講習も終わりを迎えます。
子供達、特に受験生達は良くやっています。
与えられた問題や課題を黙々とこなしています。
但し、それがすぐに効果が、顕われないモドカシさは、隠せません。
でも、そこは、自分を信じ「続けなければ」なりません。

 何事も、そうだと思っています。
人より少しでも秀でている、または好きなものがあるのなら「続ける事」です。
いつまで…なんて考えず「続ける」ことです。

続けていく事で気がつかないうちに「次」が、必ず見えてくるモノなのです。


 そして、子供達には「続けさせる」ことが、何より大切だと思っています。
習い事にせよ何にせよ、すべてに通ずることだと思っています。
一つのことを続けていけば、楽しい事ばかりでは決してありません。
辛い事や嫌な事だってたくさんあるものですね

それらを全て含めて「体験・経験」して欲しいと思っています。

子供達は、学び習わないことは出来ないものです。
挨拶一つでも、そうです。
じっとして人の話しを聞く事でも、そうです。
また、自分が我慢をして人に何かを譲ることでも、そうです。

私たちのカラテの稽古を通して学ぶ事とは、自分をどう質していくかを学ぶ事であり、それが、一つの目的だと思っています。それらを子供の頃に身につける事はとても大事な事だと思っています。
無論、試合や大会などを通して学ぶ事も、勝ち負けだけではなく多くあるものです。

それは私たち大人でも、同じ事なのです。
ふだんの生活からかけ離れた環境で出会うさまざまな体験は、自身の考え方や感じ方を大きく広げ変えてくれるものなのです。

 大人でも、物事を続けていく事はそう容易い事ではありません。
ですが、続けられていることそのものが大きな自信に繋がる事も又事実なのです。
続ける事で確かに上手くなったりすることが第一なのですが、気がつきにくいほんの小さな「変化」を見逃さないで下さい。

 続けていく事、それが「修行」なのです。
そうすることで必ず何かが、見えてくるモノなのです。
続ける事に強くなる事を求めても構わない。
上手くなる事を求めてもいい。
どんな目的でも、構わないと思っています。
そして、道半ばで一端は諦めた人たちにも、もう一度歩を進めても
らいたいと願っています。
それだけ得るものが、多い事だと私は、確信して止まないからです。

 …小さい頃から道場に通い今では、立派な指導員、先輩として振る舞っている若人を観ていると
つくづくそう思えてなりません。
せっかく、続けられたモノです。
もっと大きなモノにしていけるよう皆で臨みたい
とそう思っています。
そして、未来ある一人でも多くの子供たちにそんな経験をしてもらいたいと切望して止みません。

さぁ、あと少しで夏休みも終わります。
そして、それぞれに次が控えていますね。
残暑に負けず、頑張って参りたいと思っています。
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# by katsumi-okuda | 2012-08-27 23:48 | 稽古日誌