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武道カラテ稽古日記

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改めて「私の形」とは

 ふと…幼い頃の記憶が、甦るときがあります。
幼稚園児のとき「お遊戯」か何か「踊り」の市内発表会があり、どうしたことか私が一番になってしまった。周りからは確かに賞賛の声も聞こえたが「女の子みたいな華奢な指や仕草」云々…には、えらく傷つけられ反発した覚えがあり、次の年のそれには頑に出なかった…らしい。

 本人としてみれば、言われるがまま、見たまま、やってみただけのこと。何も考えているはずもないし、欲も当然ない。
…ひょっとして、それが良かったのかもしれないが…。

 それが、今に繋がっているとまでは、言わないが、某かの「ルーツ」になっていることは確かかもしれない。
子供の能力というものは、恐ろしいというか凄いものである。
今でも、年端もいかない子供達が、あっという間に「型」を覚えてしまう様を見ていて、そうつくづく思ってしまいます。

 見たままに「素直」に動く事。
私は、特に今は、そうしています。
相手の体躯、速さ、間(距離そして呼吸)を見たままに、感じたままに動く事にしています。

基本で号令に合わせる。型を全員で揃ってやってみる。
これらは、すべて「相手に合わせる」ということに繋がっています。
独りよがりの「動き」は、力任せか、将又、無駄が多い。
そこに「技」は、見出せない。

数限りない「型稽古」の果てに、掴んだ「不安定の中の安定」を組手で活かさなくては、型が型で終わってしまう愚に陥る。
「すべての稽古は、自身のカラテ(組手)に成るために」
これは、私の自戒の金言となっている。
無駄な稽古はない。また、やらないと決めている。
どんな稽古でも、例え相手が、少年部であっても、私にとっては、大切な「稽古」となる。

瑣末で微細な意識をどんな稽古でも、発露していくこと。
そのことが、相手と対峙した時の「自在な動き」となって、自然に現れるものと知れる。

時として(何気に体調不良だったりしたとき)気が付くと、相手の動きに合わせている以上の動きが、出来ることがある。
相手の動きに合わせる以上にとは、相手を操作することや相手の動きを「読む」とも言い換えられます。

そんなとき、自分の意識とは別に手足は、途切れる事無く動く事が、出来るモノです。それも、息も乱さず…。
能力の高い選手達も、それに近い事はやっていますが、私は、それこそ「年の功」ですから、若干彼らとは相違があります。
 ですから、私と対峙すると皆嫌がるのも、分からないではないですが、そうしないと「ついていけない」のも事実ですから致し方無しと思って下さい。

これも、一つの「組手」のあり方です。
そして、形の無い所が「私の形」なのかもしれませんね。
子供達のように「見たまま」「有りの侭」動く事、感じる事を大切に日々の「稽古」は、あるものだと思っています。

…心と身体が、本当に「一つ」になることを目指す。
究極、どんな物事にでも当てはまる「理」を私たちは、この「カラテ」そして「組手」で体現しなくてはなりません。
そして、それが私の最大の感心事であり、目標です。
完璧はないにしろ、それに近づく精進をしなくては…。
by katsumi-okuda | 2009-07-02 02:43 | 稽古日誌