2009年 07月 02日
改めて「私の形」とは
ふと…幼い頃の記憶が、甦るときがあります。
幼稚園児のとき「お遊戯」か何か「踊り」の市内発表会があり、どうしたことか私が一番になってしまった。周りからは確かに賞賛の声も聞こえたが「女の子みたいな華奢な指や仕草」云々…には、えらく傷つけられ反発した覚えがあり、次の年のそれには頑に出なかった…らしい。 本人としてみれば、言われるがまま、見たまま、やってみただけのこと。何も考えているはずもないし、欲も当然ない。 …ひょっとして、それが良かったのかもしれないが…。 それが、今に繋がっているとまでは、言わないが、某かの「ルーツ」になっていることは確かかもしれない。 子供の能力というものは、恐ろしいというか凄いものである。 今でも、年端もいかない子供達が、あっという間に「型」を覚えてしまう様を見ていて、そうつくづく思ってしまいます。 見たままに「素直」に動く事。 私は、特に今は、そうしています。 相手の体躯、速さ、間(距離そして呼吸)を見たままに、感じたままに動く事にしています。 基本で号令に合わせる。型を全員で揃ってやってみる。 これらは、すべて「相手に合わせる」ということに繋がっています。 独りよがりの「動き」は、力任せか、将又、無駄が多い。 そこに「技」は、見出せない。 数限りない「型稽古」の果てに、掴んだ「不安定の中の安定」を組手で活かさなくては、型が型で終わってしまう愚に陥る。 「すべての稽古は、自身のカラテ(組手)に成るために」 これは、私の自戒の金言となっている。 無駄な稽古はない。また、やらないと決めている。 どんな稽古でも、例え相手が、少年部であっても、私にとっては、大切な「稽古」となる。 瑣末で微細な意識をどんな稽古でも、発露していくこと。 そのことが、相手と対峙した時の「自在な動き」となって、自然に現れるものと知れる。 時として(何気に体調不良だったりしたとき)気が付くと、相手の動きに合わせている以上の動きが、出来ることがある。 相手の動きに合わせる以上にとは、相手を操作することや相手の動きを「読む」とも言い換えられます。 そんなとき、自分の意識とは別に手足は、途切れる事無く動く事が、出来るモノです。それも、息も乱さず…。 能力の高い選手達も、それに近い事はやっていますが、私は、それこそ「年の功」ですから、若干彼らとは相違があります。 ですから、私と対峙すると皆嫌がるのも、分からないではないですが、そうしないと「ついていけない」のも事実ですから致し方無しと思って下さい。 これも、一つの「組手」のあり方です。 そして、形の無い所が「私の形」なのかもしれませんね。 子供達のように「見たまま」「有りの侭」動く事、感じる事を大切に日々の「稽古」は、あるものだと思っています。 …心と身体が、本当に「一つ」になることを目指す。 究極、どんな物事にでも当てはまる「理」を私たちは、この「カラテ」そして「組手」で体現しなくてはなりません。 そして、それが私の最大の感心事であり、目標です。 完璧はないにしろ、それに近づく精進をしなくては…。
by katsumi-okuda
| 2009-07-02 02:43
| 稽古日誌
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プロフィール
武道歴四十余年。主たる武道極真カラテ。昭和の名人・達人に薫陶を受け現在、私塾教育経験を活かし新たな指導法を展開。自らも日々稽古を続け、理論と実践の合一を目指しています。
道場指導以外にもスポーツクラブでのカラテ普及に努め、今まで空手に縁のない人たちに空手や武道の良さを知ってもらっています。 カテゴリ
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