2008年 08月 23日
心を鍛え育む…「卑怯を憎む心」
「卑怯な事は、絶対してはなりません。理屈ではありませんよ。人として当たり前の事なのです。」
私の母は、鹿児島の人でした。そのせいなのか幼いときから「男子」としてのあり方について厳しく躾けられた事を覚えています。 今日のニュースで身障者に暴行を振るったり金品を巻き上げていた少年達が補導された。「身障者を虐めて何が悪い」「自分より弱い者を狙った。」という供述。情けないと言うより、そんな心しか持たないその少年達に問うてみたい…。 「では、君等より強い者達が、君たちを虐めても拘束しても良いのだな」と…。 何が悪いではない。理屈ではない。悪いモノは悪いのだ。 何でも理屈や法でかまけるものばかりで、この世は成り立っているのではないことを教え伝えていかなくてはならない。 特に幼いうちに情緒、道徳としての「人のあり方」を教え育まねばならないと思慮しているが…。 私達、市井で教育に携わるものは、それこそ心しなくてはならない。 「卑怯を憎む心」「卑怯という事が、どういうことか」 私は、子供達に伝えていきたいことがある。 昔は、どの家庭でも躾けられていた訓戒であったであろう。 「弱い者を助けるために力とそして頭は使って良し」 「自分より弱い者や小さい者を殴ったりしないこと」 「大勢で一人をやっつけてはいけない」 「物(武器)を持って喧嘩をしてはいけない」 「女子を殴ってはいけない」 「相手が泣いたり謝ったら、すぐにやめること」 「弱い者、困っている人がいたら見て見ぬふりはしない」 どれほど逐一、親や周りの大人達から教わった事だろうか。そして、それが自分たちの「骨」になっていることに間違いは無い。人として大切な事を私達は、幼いころに教えられてきた。そして、その通りに幼い子供達に教え伝えていかなければならない。 それこそが「正々堂々と戦う」私達「武道」の心意気であり、姑息な手段や卑劣な術を蔑む心を全うしてこその修行であると断言する。 試合に臨む道場生にたえず言う事がある。 「一本勝ちか圧倒的な優勢勝ちをするか、あるいは善戦して負けて良しとすることを念頭に正々堂々と戦う事のみ。 いらぬ姑息な手段、相手の減点を誘うような真似だけは絶対にしてはならない。反則を宣言するのは、審判であり自分ではない。殴られた自分の未熟さを悔やめ。そして、正しい技を正しく、どんなときでも出せるように心身ともに強くしていく事。」 勝つにせよ、そして負けるにせよ、その形も必要である。 それを自身の矜持としなくて何の武道か…。
by katsumi-okuda
| 2008-08-23 02:42
| 稽古日誌
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プロフィール
武道歴四十余年。主たる武道極真カラテ。昭和の名人・達人に薫陶を受け現在、私塾教育経験を活かし新たな指導法を展開。自らも日々稽古を続け、理論と実践の合一を目指しています。
道場指導以外にもスポーツクラブでのカラテ普及に努め、今まで空手に縁のない人たちに空手や武道の良さを知ってもらっています。 カテゴリ
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