2008年 05月 11日
いかに「抜力」…組手の間
今日も、そこそこ激しい「選手稽古」と相成りました。
本当は、あまり稽古参加しないつもり、指導だけのつもりでしたが…途中、一人が足の指を切ってしまったので参加してしまいました。それでも、後半の組手指導は、ケント指導員に任せましたが、最後全員での10分間ノンストップサーキット…。 いやぁ…子供達は何の事も無い、笑いながら余裕でこなしていく。小さな身体に大きな高性能エンジンを積んでるんですから当然ですね。私は、燃費の悪い旧型アメ車…なのに心拍数はそんなに上がらない、上がらないから余計に辛い!! しかし、たまに苦しい思いもしなくてはいけませんし、出来る事自体、有り難いと思ったりもします。選手並の体力を維持することが、一つの目標ではありますが、頻繁にこんな稽古をしていては…。 キツい稽古をしている時、ふと気付くことがあります。 「いかに全身の力を抜くか、いついかなる時も、リラックス出来るか。たとえ組手の最中でも…」 特に回し蹴りのような全身運動のとき、脚は蹴るものではない、全身で蹴るんだと思えるようになる。出来るだけ構えている時に全身を協調させリラックスする。蹴り足に力を入れてはならない。分かっていても、力む。それも、自分であり、それをコントロールするのも自分であると知る機会でもあります。蹴り足に自身の全体重を乗せていくことを意識するのみ…。 組手は、相手に「攻められる」のではなく「攻めさせる」ことを信条としなくてはならない。 そのために稽古をしている「すべて」を使わなくてはならない。相手の呼吸・間を読む為に「合わせる稽古」を熟考する。基本や型で相手に合わせるのも、号令に合わせるのも、そのすべてと知らなければ身に付かないと考えている。 相手の攻めるその刹那を捕まえること。 突こう蹴ろうとした瞬間か、動き出した直後にこちらは、相手の射程から外れるか、わずかに当たるポイントをずらし込む。相手は、動きだしてしまえば修正が利かない。又は、動こうとした瞬間、修正を余儀なくされ、攻めが中途半端に終わるか、攻めが、出なくなる。人の習性とも言える感性を住み込んでこその組手と思考しているし、これが今の私の組手の根幹とも言えるが、そのために日々試行錯誤と打突の狭間に身を於かなければならない。 あくまで競技としてのカラテで有効である事。 いくら護身に使えるだの道場組手で有効だとの言っても、選手達には通用しない。試合・競技に使えてこその「技」を希求しなくてはならない。 そのために…たまにキツい稽古も必要かと思いますが…。
by katsumi-okuda
| 2008-05-11 23:22
| 稽古日誌
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プロフィール
武道歴四十余年。主たる武道極真カラテ。昭和の名人・達人に薫陶を受け現在、私塾教育経験を活かし新たな指導法を展開。自らも日々稽古を続け、理論と実践の合一を目指しています。
道場指導以外にもスポーツクラブでのカラテ普及に努め、今まで空手に縁のない人たちに空手や武道の良さを知ってもらっています。 カテゴリ
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