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武道カラテ稽古日記

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型、それぞれ…

 病み上がりなのに…そう思いながらケントの突きや蹴りのミット持ちをやる。衝撃が容赦なく身体の内部や後頭部に響く。
 しかし、これに関しては、お互い様ではあるが…にしても、少しは加減しろって言いたいが、するはずも、その気配も無し!!
 ただ、病み上がりの割りには、動けたので内心「良しとする」。

今日は、上級者稽古として稽古後半、指導法の統一をメインに型と基本をこなし、正拳千本突き等を行う。以前は(師範代が十代の頃)普通の稽古で毎回、それに近い回数をこなしていました。それも、正拳と前蹴りは、当然のようにやっていました、まるで毎日の儀式・義務かのように(^^)…以前とは違った感覚なのが、今の進化を現しているようでもありました。

 型をやっていて、人それぞれの「個性・癖」が当然ある事に気付く。人は、何気なくする仕草にも、その人の「個性」が出るモノである。それは、時として自身の身体を痛みつけもする。時として、それはまた、その人の「彩」ともなるから面白いものである。

 私は「型を組手のように、組手を型のように」と良く言う。
私達は、実戦の徒である以上、型もまたそれに内包されていなくては、ならない。ただ文化的、体力強化・健康そして護身の術としてだけでは、私達には半解でしかない。

 一本の突き蹴り、そして受けやそれに至る身の翻し方…その全てが、傍目で観ても解るくらいに「実戦」でなくてはならない。
型を良くする言葉に「綺麗ではなく、力強い美しさ」とよく言われる。型の一本の突きによって、そこに「実戦」が見える美しさを持たねばならないと思っている。

 私や師範代たちの型は、意識するしないに関わらず「実戦」を現すように成っている。鍛錬に鍛錬を重ね、組手の質と量を重ねる。
そして、その中に型がある。結果、型は、形を成す。

 良い悪いではなく、私達の矜持として型は、そうあることを希求して止まない。型が、型だけで終わる、観られることに何か違和感を感じるのは、私は当然だと思っている。
 私達の型は「実戦」でなくてはならない。それを希求しなくては意味がない。たとえ、基本の型であっても古伝の型であっても…
by katsumi-okuda | 2007-12-05 01:39 | 稽古日誌