2007年 12月 05日
型、それぞれ…
病み上がりなのに…そう思いながらケントの突きや蹴りのミット持ちをやる。衝撃が容赦なく身体の内部や後頭部に響く。
しかし、これに関しては、お互い様ではあるが…にしても、少しは加減しろって言いたいが、するはずも、その気配も無し!! ただ、病み上がりの割りには、動けたので内心「良しとする」。 今日は、上級者稽古として稽古後半、指導法の統一をメインに型と基本をこなし、正拳千本突き等を行う。以前は(師範代が十代の頃)普通の稽古で毎回、それに近い回数をこなしていました。それも、正拳と前蹴りは、当然のようにやっていました、まるで毎日の儀式・義務かのように(^^)…以前とは違った感覚なのが、今の進化を現しているようでもありました。 型をやっていて、人それぞれの「個性・癖」が当然ある事に気付く。人は、何気なくする仕草にも、その人の「個性」が出るモノである。それは、時として自身の身体を痛みつけもする。時として、それはまた、その人の「彩」ともなるから面白いものである。 私は「型を組手のように、組手を型のように」と良く言う。 私達は、実戦の徒である以上、型もまたそれに内包されていなくては、ならない。ただ文化的、体力強化・健康そして護身の術としてだけでは、私達には半解でしかない。 一本の突き蹴り、そして受けやそれに至る身の翻し方…その全てが、傍目で観ても解るくらいに「実戦」でなくてはならない。 型を良くする言葉に「綺麗ではなく、力強い美しさ」とよく言われる。型の一本の突きによって、そこに「実戦」が見える美しさを持たねばならないと思っている。 私や師範代たちの型は、意識するしないに関わらず「実戦」を現すように成っている。鍛錬に鍛錬を重ね、組手の質と量を重ねる。 そして、その中に型がある。結果、型は、形を成す。 良い悪いではなく、私達の矜持として型は、そうあることを希求して止まない。型が、型だけで終わる、観られることに何か違和感を感じるのは、私は当然だと思っている。 私達の型は「実戦」でなくてはならない。それを希求しなくては意味がない。たとえ、基本の型であっても古伝の型であっても…
by katsumi-okuda
| 2007-12-05 01:39
| 稽古日誌
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プロフィール
武道歴四十余年。主たる武道極真カラテ。昭和の名人・達人に薫陶を受け現在、私塾教育経験を活かし新たな指導法を展開。自らも日々稽古を続け、理論と実践の合一を目指しています。
道場指導以外にもスポーツクラブでのカラテ普及に努め、今まで空手に縁のない人たちに空手や武道の良さを知ってもらっています。 カテゴリ
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