2007年 11月 28日
カラテである意味…
本日も、上級者稽古となりましたので、少し違う話しをしました。
「子供の指導に限らず、稽古の内容は、絶えず推敲して下さい。 毎回、同じ事では、どうしても飽きてしまう。つまり、集中力が落ちます。そのために、どんなモノからでも、考えられる効果のある運動を考えながら指導にあたって下さい。」 確かに武道の稽古・鍛錬は、同じ事の繰り言が多いものです。 しかし、その中にあって教える側の創意工夫がなくてはなりません。自分の意志のみで続けられるにこしたことはないですが…そうもいかないのが…「継続」ですから。 どうすれば、効果的か、どうすれば喜んで(!?)やってくれるか…。 特に子供達の稽古に関しては、年間を通した計画を元に日々研究です。飽きさせず、心身に効果的な運動そして講話を…そのことだけで何ヶ月も悩む事も、少なくありません。 さて、そうは言ったモノの…ふと思う事があります。 それに忽然と囚われる…鍛錬の果てに…。 「人を壊す技をもって、どうして人格形成や精神を高められるのというのか。古くは人を殺傷する剣をもって「道」に高じた先人達は、何をそこに観たのだろうか…」 私は、強くなりたいから、強くありたいからという本能的な希求がある。幼い時分の大きな劣等意識と性癖が、そうさせていると自身を省みる。そして、先人のそれに習うが如く「精神修養」を不鮮明に唱えている自分が、いる。 今、この時僅かに言える事は…やはり、続けてみなくては何も見えてこないということ。辛く厳しい稽古の果て、膨大な汗と軋む筋骨の悲鳴の果てに見えるモノなのか、どうなのか…いってみなくては、わからないが、今は、確かにそう思える自分がいるのも事実である…。 人を壊す技を身に纏うと言うことは、自身を壊していく作業に他ならない。それによって人は、人の弱さや脆さを身をもって知ることとなる。 そして、それを多く知り得た者は、多分に他者に対しての慈しみが、変容する。 強き者が、粗暴であっては世に受け入れられない。強いからこそ身を慎む術を殊更身に付けようとするのかもしれない。 人を壊せる術を使用したからこそ、人としての有り様が見えてきたのかもしれない。 …その過程こそが「道」としての標なのかもしれない。 しかし、時として、道を踏み外したり、取り違えたりするもの、それをそのまま増長していく輩もいないではない…「武」の表裏は、それほど希薄で脆弱な「皮一枚」によって危うい均衡を保っているものと思い知らされもする。 「武」の文字は、矛を盾をもって止めると書く。 まるで自身の心で自らの「力」を封じ込めるが如く。 その言葉のように私も、あり続けなくてはなりますまい。
by katsumi-okuda
| 2007-11-28 02:20
| 稽古日誌
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プロフィール
武道歴四十余年。主たる武道極真カラテ。昭和の名人・達人に薫陶を受け現在、私塾教育経験を活かし新たな指導法を展開。自らも日々稽古を続け、理論と実践の合一を目指しています。
道場指導以外にもスポーツクラブでのカラテ普及に努め、今まで空手に縁のない人たちに空手や武道の良さを知ってもらっています。 カテゴリ
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