2007年 10月 25日
何とも嘆かわしい…
昨日、高校の空手部での事故がもとで一人の高校生が死亡した。稽古中、顔面への突きをもらい(寸止め)転倒。後頭部を強打。 その後、ランニングを強要され、気分が悪くなり倒れたとの事。
仔細は割愛するが、ともかく指導者の「認識の甘さ」をまず言及したい。空手は、それでなくても「危険」な要素を内包した競技である。それは稽古中も同様である。 ここのところスポーツ界の「暴行」が取りざたされている。 相撲界、ボクシング界…そのどちらも「指導者」の認識の甘さと奢りからくる大罪である。厳しい練習は、確かに必要である。 そうしなければ、それこそ身体に危険が及ぶ、それはどのスポーツでも同じではあるが、特に相手と激しく接触するスポーツ(格闘技系、ラグビー等)では、身体の強化は厳しい練習によって育まれる事は疑いも無い。しかし、だからといって、練習する者の心身の健康・生命を蝕むような練習は、練習・鍛錬とは言わない。 それは、ただの「虐め」であり「暴行」以外の何ものでもない。 そんなことも分からず、ただ古い悪しき因習だけの精神論のみの練習・訓練を強要する不心得者の指導者が、いるだけで全体が「悪」と見られてしまう。 嘆かわしい、いや激しい憤りと遣る瀬ない悲しみを感ぜずにはいられない。市井で懸命に子供達に教えている多くのスポーツ指導者を愚弄するものであり、強く弾劾したい思いである。 まして大切な子供達を預かりながら、その心身を考えもしない指導者は指導者に非ず。教育者でもありえない。ただの馬鹿者である。 指導者、特に子供達の指導者はその人格すべてを預かる「覚悟」でなくてはならない。単に競技に勝つ為だけの練習に終始する指導者は、何ものでもない。競技や技術の習得に偏重すればするほど「教育」とは、ほど遠くなると知らなければならない。 練習の一環としての試合であり、その過程にあるさまざまな体験を通し、子供達に多くの事を学んでもらうこと。辛い事や嬉しい事、そして同じ練習を共にする仲間や自身をサポートしてもらう全ての事柄に対する思いやりや感謝の心を育まなくて何のためのスポーツか、そして武道か…。我々、子供と相対するすべての者は心しなくてはならない。勝つ事の喜びも大切であろう、そして負ける事の悔しさを学ぶ事も…しかし、競技に出ない、戦わぬことで学ぶ「日常」を知ることも人として大事と心しなくてはならぬ。 武道とは、人に観せるもの、人に鼓舞するものではない。 ことさら競技の成果を誇る風潮は、弊害を多く含むことを指導者は知らねばならぬ。それによって子供達に無理を強いる。勝利至上主義は、子供達の成長にとって歪んだ競争心しか生まぬもの、そして無理は心身に多くの弊害・傷害を残すこととなる。 そしてまた、そこに「誤解」が生まれる。 「だから空手なんて危ない」そして呆れる事に「空手の技は一撃必殺ナノだから…」などと、間抜けな論調が生まれぬ事を願うばかりである。どんなスポーツでも危険はある。ルールややり方を無視すれば、たとえ、どんな簡単な運動でも、危険はあるものだ。 (ちなみに、相手に当てない「寸止め」に多くの挫傷事故が頻発する論点については、項を譲るが、事実であるし、それをもって強い等とは筋違いも甚だしい…) 私達は、そんな誤解の生まれぬ土壌を今、作っているのかもしれない。それで良いと思っている。そうしなければ、いつまでも「武道」は、ただ特殊なモノという色眼鏡で世の中から見られ続けてしまう。私は、私の代で「私のカラテ」が完成する完結するとは思っていない。私の教えた小さな弟子達が、成長し、さまざまなことを世に表し、成し遂げてくれれば、良いと思っている。 そのための「指導・教育」であり、それこそが子供達の「稽古」であると私は、思い信条としている。
by katsumi-okuda
| 2007-10-25 01:05
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プロフィール
武道歴四十余年。主たる武道極真カラテ。昭和の名人・達人に薫陶を受け現在、私塾教育経験を活かし新たな指導法を展開。自らも日々稽古を続け、理論と実践の合一を目指しています。
道場指導以外にもスポーツクラブでのカラテ普及に努め、今まで空手に縁のない人たちに空手や武道の良さを知ってもらっています。 カテゴリ
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