武道カラテ稽古日記

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モノの見方、考え方とは、その物事を見据える見方(例えば角度、それを見る本人の経歴や経験値)によって当然差異が、生ずる。

モノの見方、考え方とは、その物事を見据える見方(例えば角度、それを見る本人の経歴や経験値)によって当然差異が、生ずる。

 私たちの世界では、当然と思われる事柄でも、全く関係ない他者から見れば、何とも奇異に思われることも多々ある。

また、その物事を考える際、よく似たモノと比較することがあるが、それも、よく考えて見ると似て非なる物事を並べて判断している場合も、少なくない。

例えば(あくまでも、ここからは私の見解であり一般論かどうかは、別問題として頂きたい)
よく言われることだが、伝統派の型と私たちの型を比べて論ずる方々が、いらっしゃるが、ここで少し考えて頂きたいといつも思う。

門外漢の私から見れば軟式と硬式テニスの差は、全くわからない。
しかし、その競技特性に関してその両者の間には大きな隔たりがあると当然言われている。

私たちの実戦が元になっている型の解釈や稽古法と伝統派の方々が、努められているそれとでは、その元が全く違う。
まして、型にかけた時間(歴史そして稽古時間)の総量や熱量は、明らかに違う。
ここまでくると似て非なるモノと私は、思わざるを得ない。

だから、私たちは、同じ名称が付いている伝統派の型であっても、極真の型を創造していかねばならないと常に思っている。

そのことを解せず、ただ見た目だけの判断で、その良し悪しを判断することだけは、するべきでは決してない。そのどちらに対しても不遜以外の何者でもない。

また、モノの見方という点で、もう一点付け加えると「審判」がある。
例えば当然な話なのだが、主審の見方、各副審の見方は、全て違う。
主審は、間近で選手の息遣いや表情まで伺い知り判断を下せる。それぞれの副審は、その角度からの見方がある。一例ではあるが対角線上にいる副審同士、見てる角度が真逆になることがある。こちら側からは、選手の表情が見えても、対角線上の副審からはその選手の後ろ姿や動作しか分からないことが、少なくない。
よって判断に差異が生ずることが、出る。
だから、判定で差異が生ずることの一因ともなり得る。加えて、審判の経歴や経験値によっても、判断が異なる因子ともなる。
 私のように旧いタイプの審判などは、完全な決着を選手にわかってもらいたいが為に、敢えて引き分け延長とすることが、間々ある。
 しかし、時間的な要因や安全性に考慮するあまり、僅かな差異でも、どちらかに判断を下だす場合もまたあるのが実情でもある。

どちらが正しいということではない。
見える立ち位置やその時々によって、人は判断を下しているに過ぎないとも言える。

だから、私たちの審判制は、四人の副審の判定に加えて主審の見方に則った判定を下すのである。主審の判定は、単に副審の判定と同列ではなくなる。
それぞれの副審の見方と間近で見ている主審の見方をその折々に瞬時に加味判断し試合を判定付けてあるのが主審の役目とも言える。
故に、試合の判断は、その全てを主審に任せているのである。

そして、そのことにクレームをつけたがる者達が、多くいることも承知しているが、ルールに則りその上で判断している主審の裁定を覆す愚行は、厳に慎まなければならない。
それを唯々諾々と許してしまっているようでは、試合は成り立たなくなるばかりか、選手の安全性も含め試合そのものの冒涜になると私は断言する。

同じ価値観を持って判断すべきなのは、当然。
しかし、以上述べたような因子は否めない。
故にそれらを統括することの出来る規則をもって、適切に運用できる審判が存在しなければならないと、何時も思い定めてならない。
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by katsumi-okuda | 2018-05-07 23:11