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武道カラテ稽古日記

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何の為に…

  少しずつ秋めいてきています。
何をするにも丁度良い時節ですね。このくらいの時節が、いつも続けばと思います。
さて、来週は、福島入りして大会審判等のお手伝いです。
選手の皆さんは、体調に注意し万全の体勢でことに臨んで欲しいと願うばかりです。

 試合があるから、審査があるから…
だから、稽古をするというのも確かに一理あります。

 ですが、そればかりに眼を奪われていてはなりません。
私達は、当たり前に「日常」にいるのです。
その「日常」通じ大仰に言えば「人生」をどう過ごして行くかが、大事
だと言われています。

 どんな事をしていてもいいと思います。
勉強に仕事に趣味にそして家族、仲間たちと…
その時々を精一杯過ごす事だと思っています。

 厳しくも苦しくもあることも多いはずです。
笑ってばかりもいられないことも、多い事でしょう。
その中でどのように耐え、考え方感じ方を収めながら過ごしていけるか…

 それらを乗り切る一つの術として私達は、武道を志したのです。
武道とは、今の社会にあって心身を整えていく有効な一つの手段なのかもしれませんし、そう解釈しても構わないと思っています。
 一時、道場や試合などふだんの社会と隔絶した空間にあって、私達は、対面する物事に必死に集中し、そして抗う…それらの行為によって心身の持つ本来の「耐性」を蘇らせ整えているとも言えましょう。

 年端のいかない子供たちにそのことを伝える事は、難しい。
そして、何よりやっている稽古やその内容の本来の意味を伝えていく事も、難しいものです。

 時にこんな意見を耳にする事が、まだあります。
他人の家の事を自分の尺度に合わせて論じてくる人たち…よく言えば私達「極真」の事を思って、そして空手界全体を慮ってのことなのでしょうが…

「極真は、組手だけやっていればいいのではないか。基本の型の意味や立ち方すらわかっていない者たちの型競技など意味がないどころか間違った空手を作っているに過ぎないのではないか」

この意見を述べた方が、どのくらい空手に精通しているか知りません。
ある一面からすれば「ごもっとも」な意見です。
ですが、人様の実情を知らずして一方的な見解を述べられても…困惑するばかりです。

 極真カラテは、進取にとんだカラテだと私は思っています。
その発祥や創成期の大会は、伝統派の戦い方に酷似していました。
しかし、時を経るに従い勝つ事を命題とし、旧きを尋ね新しきを知り、敢えてこれまでにない技法を潔く取り入れ進化させてきたのが、私達の極真カラテなのです。

試合という競技の枠の中でいかに相手を制することが出来るか、皆が試行錯誤してきました。
そして、それらの姿は、創始者が亡くなった後でも、その歩は緩む事はありません。
確かに多くの派に分派は、しました。
しかし、功罪の一つと見れば、その進化はそれこそ今まで以上だと実感もしています。

戦い方一つとっても、押し相撲だと揶揄された戦い方、地味に相手の体力を削いでいく下突きと下段蹴りの蹴り合いなど当初洗練されていない時は、嘲笑の的でしかありませんでした。
しかし、今では、それらの戦い方は進化を遂げ次のステージへの足がかりともなっているのです。

振り返れば、当初カラテには、背足で蹴る回し蹴りは存在しなかった。いや相手の太ももを蹴る下段蹴りすらもなかったし、そんなものは効かないとカラテ界から嘲笑もされたものです。
また、後ろ回し、そして踵落とし、胴回転廻し、下突きのコンビネーション等…それらは、どれも他分野からの移植に他ならない。
そして、それらを潔く取り入れた先代の者たちの辛苦は、今に至り全ての競技で使われるまでに普及進化している事実を見るにつけ、私たちは先代同様、さまざまな分野での研鑽と模索をしていくことを止めるわけにはいかないのです。

 型の解釈もしかりなのです。
確かに型の解釈は、幾通りもありましょう。
それら伝統的な基本の型を考案した偉大な先達は、当時創世された時代背景に合わせた解釈を型の中に、それこそ表と裏に意味と実践を兼ね備え考案したものだと聞き及んでいます。

 創世された当時、夜道で「掛け合い」と称して「試し合う」ことをしていた。
禁じ手なしの「闘争」…それらにあって先達たちは、自身の得意秘匿とする技を日々修練するに至り一つの形と成した。それらを多くの人たちに伝えようとする過程で相手を制する為にこうすべきだという独自の解釈を、その先達たち一人一人が、解釈をもちだした。
それらは、有り体に言えば「その流派」の「秘伝」ともなった。

 しかし、時代を経て、それらの解釈は「意味合い」としてだけ残る事となった。
つまり、禁じ手なしの戦い方を試す場など皆無に等しくなったがために…。
型競技において、それらを踏襲することを最大の目的として演ずる事が、結果、至上となった。

そして、それらについて私達が、異を唱えることなど出来やしない。

解釈とは、いくつもの道筋があると私は思っている。
型から組手を考えるもの、組手から型をみる者。
そのどちらの行為も、私は正しいと思っている。

但し、もし昔の解釈を尊守していくのなら、それらを実戦で証明出来なければ意味がない。
それも、競技という枠組みの中でである。
いくら美辞麗句を尽くせる型を打ったところで実戦「競技」でその意味合いを理解し使いこなしていなければ意味はない。
 どの流派、会派であろうとそれは同じ事ではないか。
昔、型稽古だけを通じ剣術そして合気の達人が、いたことを歴史が示している。
また、組打稽古だけで達人の域まで達した剣道家や柔道、柔術そして空手家を私は知っている。

道は違えども、例えそれらの人たちの才が私達より優れていたとしても、それらが出来るという証がある以上、私達は、幾筋もの道筋からそれらを希求しなければならない。
武道を志している以上、それらを希求することを止めてはならないと私は理解している。


 組手のやり方で嘲笑された時と同様に私達は、型の競技において同じ道を歩む事でしょう。
私は、それでいいと思っています。
その時代を経て、私達独自の今に活きる「解釈」を手に入れる事が出来ると信じています。

私達の組手「競技」とは、真正面から無数の打突と向き合うことそのものです。
それらは、やったものにしか分からない「世界」なのです。
そして、その無数の打突の中で「活きる型」を現す事に他ならないのです。
その為には、無駄と思えること間違っていると思われる事も承知の上で時を重ねなければならないのです。そうすることが「極真の進取」にとんだ譲る事の出来ない一面なのですから。

組手だけに特化し、組手だけをトレーニングしている流派も確かに存在はしている。
その方法論は、認められるだけの説得力を実績が証明している。
だが、そこに武道としての「継続」という面が、欠落している事実もあることを私達は理解している。

 若い頃だけ体力に自信のある者だけが出来るカラテは、はたして「武道」なのだろうか!?
武道とは、弱者のためのものとも言われている。
それは何も自身を卑下した物言いではない。

さまざまな稽古を通し、いついかなる年代性別においても確かな強さを証していけることを指していることを理解しなければならない。
私の年代の者たちが、若い道場生と互角対等に組手において稽古しうる形を作り上げる事。
そのために敢えて「新しい解釈」の型稽古そして競技を押し進めていく事。
批難、嘲笑は承知の上です。
それでも、私達は、あらゆるものを模索し研鑽していく「カラテ」なのです。



 顔面たたけば一発だなどと寝ぼけたことを言っているのではありません。
(実際、やってみればわかります…思いっきり叩いたってよほどのことがなければ人はたおれません)
競技としてのカラテとして勝てるか、いや負けぬカラテが出来るかどうかなのです。
組手至上主義と言われる「極真」
ならば、あらゆる手立てを模索し深化させることを厭うてどうするのでしょうか。

…少なくとも、私同様に進化し続けている同輩の皆様がいる。
ふだんの普通の稽古を通じて…。
それらから新しいことを学ぶ姿勢と理解しようとする柔らかな心根がある限り私達のカラテは、まだまだコレまで以上に「深化していけるのです。

何の為に…_a0026020_15295248.jpg

by katsumi-okuda | 2014-09-18 15:30 | 稽古日誌