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武道カラテ稽古日記

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何故「稽古」そして「型」

 話しは違いますが…他のブログで「私小説」を書き始めています(…恥ずかしながら…)
この齢ですので集大成の一環ということで…
それと書き物を校正したり指導する立場上、論文ばかりですとどうしても散文的文章力が落ちるといいますか、「自由に作文を書きなさい」と無責任な指導は出来かねますので、自分の散文能力を上げていくことを目的としてますが…ですが、全く縛りのないはずの「散文」なはずですが、それはそれで難しいモノがありますね。でも、よい気分転換になったりしてますから良いのかもしれません。

 お暇でしたら、そちらのほうもご覧下さい。
…今から、かれこれ三四十年ほど昔日の出来事そして、その時そう感じていたであろうことを書き留めていきたいと思っています。
(ちなみに事実9割ですが、細かいところは…ですので推察して頂ければ幸いです)

そんなことを思い出していたら、ふと思いついたことが…

 その昔、道場に集う者の大半は、市井の若者だった。
そして、その目的は「強くなりたい」「喧嘩に負けたくない」「稽古すれば、館長や黒帯の先輩たちみたいに成れるかもしれない…」
多分、試合に出よう勝とうなどと思いもしない時代、そんなことを皆が、夢想していたのではないか…。

 そして、道場の稽古というものは、こういうものだと思っていた。
どんなに辛く厳しい稽古であっても「修行なんだ、強くなるため必要なんだ」と思っていた。
いや、念じ思うようにしていた。

 空手に限らず武道の稽古は、どこも似たようなものだと自覚してもいたし、実際そういう風潮であったように記憶している。

 そして現在、その様相はどうであろうか!?
各種大会、試合の数は数多あり、そして道場に集う者たちの意識の変容もとらえどころがないほどに多様化していると言って良いほどの現状が、そこにある。

純粋に武道、武術としてとらえ稽古いや修行している者は、今の世の中でどれほどいるのであろうか。
ましてや年端もいかない子供たちに武道を教えていくことの難しさは、ますます難しくなってきているのではないだろうか。いや、子供たちばかりとは言えないが…。

 いつ果てることのない「修行」は、影を潜め、試合で成果を求められる可及的・効率的な稽古がその多くを占めるようになってきた。それを悪いとは言えない。
目的意識の多様化に呼応するために当然の帰結とも言えよう。

ただそうだからと言って意味のある「稽古」を蔑ろにするわけにはいかない。
確かにミット稽古やスパーリングそして運動機能を上げる科学的トレーニングに終始しているほうが試合での成果は、出やすいし、それだけを追求している道場(!?)も数多いのが、現在の武道界。

それはそれで教えている側も教わる側も、納得しているのなら何の文句もありはしない。
ただ私達は、あくまで「武道」そして「教育」としてのそれらを主たる目的に上げている以上、それらと中庸の立場をとらざるを得ない。
そして、これらの状況下にあって、いかに「武道」としての「稽古」の意味合いをさまざまな目的をもつ道場生に伝えて行くか。それは、教える者としての最大の責務だとも実感している。

 よりわかりやすく、子供たちやそれぞれの人たちに提供してこその現代の道場だと考ている。
無論、稽古や型そのものの本来の意味合いは、ある。
そして、それらを曲解して教えていることに眉をひそめる向きもあろうことは、理解もしている。

 しかし、例えそうであっても、長く続けてもらい、広く多くの人たちに知ってもらうために。
長く稽古に参加してもらうことで本来の「意味」を実感してもらうために。
私は、これからも「曲解」であろうとそれを説いていくことにする。

「こんな難しい型をなんでやるんだろうね!?試合のためいや審査のため!?たしかにそうかもしれないけど、本当は、こんなに難しいことを集中してやれる頭を鍛えている。つまり頭を良くしているんだよ。
大人でも、難しいことをより正しくやっていくことで皆の頭や心は、絶対強くなっている。そして、その頭と心は、これからどんなことをやっても使える。皆を助けてくれる大きな武器になるんだよ。」

「型や稽古で先生は、上手い下手は問わない。大切なのは、一生懸命取り組むこと。折角、出来るのに手を抜くことは、絶対にしてはいけない。人は、怠け者に出来ている。楽なほうが良いに決まってる。でも、そんなことばかりしていたら、何も出来ない人になってしまう。そうならないように皆は、どんなことでもいつでも、懸命に取り組むことを忘れてはならないよ。」

何故「稽古」そして「型」_a0026020_174858.jpg






 
by katsumi-okuda | 2014-07-07 01:07 | 稽古日誌