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武道カラテ稽古日記

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週末「審査会」…に思う。

 我々のカラテ、審査の代名詞でもある「組手」まして「連続組手」
それらは当初から規定はされてはいたものの今のように実質明確に行われることは少なかった。
無論、級審査の際の「組手」も当然あったし、昇段をかけての「組手」もあった。
しかし、ふだん嫌という程組手を「やらされて」いての審査である。
つまり、指導する先輩方の眼鏡にかなうと「審査を受けろ」となる。
そのためか、まだ私の時代、それほど多く衆目を集めている時代ではなかったせいもあり「連続組手」も、倒す倒されるそれとはいささか意味合いの異なる趣で行われた。
つまり今風にいうと「スパー」の感覚に近い。
どれだけ技が出来上がっているかどうかに主眼が、おかれていたのも事実。
ただ「防具」の一つもつけていない「組手」である以上、今のそれとは緊張感や雰囲気に大きな相違があることも又事実であった。…まして総裁の「眼」があるために受審する我々の緊張はMAXなのは、言うまでもない。

 とまれ時代と共に審査そのものがマスコミに多く取り上げられると共にその内容は、厳しさを増していった。ただ昔を知る我々からすると…相当の違和感を感ぜずにはいられなかった。
確かに「強いこと」「上手いこと」が、昇級・昇段の必須とは言えである。

 もし本当に「強い」「上手い」だけを論じて良いのなら極論、私の見る限り今の審査規定でさえ受審者のその殆ど「昇級」そして「昇段」は出来ない。
「その帯なのに相応しい技量そして体力に達していない」
「まして出来て当然の型の一つも、出来ていない。いやそれどころか動作の一つもなっていない」
これは、私が以前千葉で師範代をしていた時、審査事に受審者全員に叱責していた内容…。
当時の私は…見た目以上に審査規定には厳しかった(らしい)

 特に型は…昨日やっと覚えたばかり動作の意味合いも分からぬ型なんぞ何の意味があるだろうか。
少なくとも一つの型を千回以上やってから人前でやってみよと言いたかった。
基本の型・動作さえ出来上がっていないのに何故上位の型をやる、いや見る必要がある!?
例えば、満足に「平安一」いや「前屈移動の追突き」さえ出来ていないのに何が上位の型なのか!?

 だから私は、難しい型は今でも受審者には、要求しない。
上級者には敢えて「基本の型」を要求する。
何故なら「出来て当然」であり下の者よりも「上手で当然」だからである。
まして、上級者になれば下の者を指導し又見られる存在でもある。
特に下の者は、まず「基本」を指導者に尋ねてくることが多い。
それなのに指導する者が、満足に指導も「見せる」ことも出来なければ、当の本人が恥をかく、いやその帯を認めたそこの責任者が、貶められることとなることを忘れてはならない。
上位の型等、今の時代見ようと思えばいくらでも見られる学べる時代である。
基本が、確実になってからでも遅くはない。
ただ大切なのは、それらを自身でやろう覚えようという意識である。

 確かにすべてに完璧でいろとは、言わない。
ただ大切なのは、その「姿勢」「意識」である。
「自分は、下手だ」と認め、絶えず稽古を怠らない姿勢が大切であり、それが、ある者こそが「昇級」するに値する者だと私は考て憚らない。

 現代にあって我々にあって型とは、どうしても二次的なモノととらえられがちである。
しかし、それらが出来なくて「カラテ」をやってますと言えるのだろうか!?
幸い私たちの団体の諸先生方は、懸命に修養されておられるためその意味で禍根は残すことはないと思われるが、それでも、やはり、それらをやる当人たちの責は重いと言わざるを得ない。

 若いうちは、組手だけ強ければいいかもしれない。
しかし今の時代、それ以上にカラテを嗜み、年齢に左右されない自身のカラテそして組手を希求するのであればやはり、型を一つの大切な柱として稽古に勤しまなければならない。

年を経てからあの総裁でさえ喧しく「基本」「型」の重要性を説いていたことを忘れてはならない。
有り余る「力とスピード」で凌駕した総裁でさえ、そう言い放ったことを。

 その昔、再度復帰しやれる環境がなかった為に「しばらく道場を離れた者の復帰は難しい」「極真のカラテは二十代後半まで」などと言われたが、今はそうではない。
ましてや元気な中高年層が、増えている時代。
何を基準に何をどうやって高めていくか熟考しなければならない時代でもある。
そのための一助として「型」に代表される稽古法が確立されていかなければならないと思っている。
無論、打たれ打つ我々のカラテである以上、机上の綺麗事や絵空事は、通用するはずもない。
しかし、それでも適切に年相応に鍛えていくことが出来ることを示さねば、何の為の「武道」なのか意味を成さないのではなかろうか!?

 適切な身体の動かし方、日本人としての所作の有効性を私たちは手元にある「型」から学ぶべきであると確信している。
力やスピードが欠けてきたならば、それを補う「何か」をすべきであろう。
そのヒントが、実は「型」の中に満載していることを忘れてはならない。
そして、それを知ろうとしなければやろうとしならければ得られるモノではないことをこれからの特に修養する全ての人たちに伝えたい。

 加えて苦言をもう一つ。
「ある黒帯が、しばらくやっていなかったからと言って下の帯をしめて稽古に参加する!??まして他の道場で???」実際、よくある話しでもあるようだが、如何なモノかと首を傾げる。
確かに稽古不足でそれまでの実力はなくなったかもしれない。
しかし、帯まして黒帯とはそれを与えた道場の威信でもあり証でもある。それを師の許可無く勝手に付け替え稽古することは、ただの欺瞞であり師やその道場そして仲間たちに対する冒涜にすぎない。
これは常識という観点なのもしれない。
其の者の思いも、分からぬではない。
しかし、一度与えた帯というモノは、そういうものではない。
勝手に改ざんし詐称することは、決してあってはならない。
もし稽古するなら師に断りを入れ、どうすべきか尋ねることが第一の礼であろう。
その上でどうしてもその帯をしめられないのなら「ジャージ」なりに着替えてやるべきではなかろうか。

与えられる「帯」の意味合いと重要性を受審者たち諸君は、今一度しっかりと考えてもらいたい。
強ければ上手ければその帯になれるという単純なものでは決して無い。
その「人となり」や「意識の高さ」「指導力」「その帯に相応しい規範を有しているか」多様なモノの見方もあることを忘れないで頂きたい。
しかし、だからといって我々のカラテにふさわしくない者(強くもない上手くもない向上心もない)に帯を与えること等断じてない。

私は、そう思い審査を見させてもらっているだけである。
…厳しい物言いではあるが、今の時代にあって「昇級」とはそういう意味合いであることを胆に銘じてもらいたい。
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by katsumi-okuda | 2013-12-14 01:56 | 稽古日誌