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武道カラテ稽古日記

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成長と段階

 今週中は、子供たちの審査期間。
初級から中級になるための審査。
「次のことが、しっかりと学べる準備が出来た。何が出来たからとか強くなったからというのとは、少し違います。「審査」とは、それまでのことが勿論出来ていることを確認するものです。ですが、それ以上に大切なことは、これからのことに臨む姿勢が出来ているかどうかだと思って下さい。」
私は、特に子供たちにはそう言います。

 例えば、子供たちの「覚え」の早さは、大人の比ではありません。
少しくらい難しい「型」なんぞ「あっと」言う間に覚えてしまいます。
そして、次から次と新しい型を覚えようとします。
そのこと自体、決して悪いことではないですし、素晴らしいことではあります。
ですが、間違えないで欲しいのは、すでに覚えた「型」が、その帯に相応しい「形」になっているかどうかも大事なことだということを忘れないでもらいたいのです。

「型で自分の身体が、満足にコントロール出来きない者に、どうして組手の時「相手」をコントロール出来る力が、備わっていると言えるでしょうか。」
一見すると遠回りなようにも思えることなのですが、カラテをやる者は、すべての稽古を自身のモノ、自身の組手にしていこうという強い意志を持たねばならないことを熟考すべきなのです。
強く思う考えるということは、何もカラテに限らず、これから全て物事に通用・影響する大事なことだと言うことを忘れないでもらいたいと切に思っています。

 確かに試合や組手の稽古・トレーニングだけしていけばいち早く勝てるかもしれません。
ですが、それで本当に特に子供たちにとって良いことなのでしょうか!?
無論、試合は否定しません。試合に出る以上、勝たねばならないとも強く思っています。
ですがだからと言って目先のことばかりに終始してよいとは、言えないはずだと思っています。

相手に勝つ為なら何でも良いとばかりに囃し立てる指導者や父兄が多くいることに私たちは、いつも危惧をもっています。そうやって小さいうちから頭ごなしに言われ続けた子供たちの多くは、中学を待たずに「反抗期」と共にカラテそのものから遠ざかっていく姿をどれほど多く目にしているか。
その度に私たちは、情けなくも悔しい思いで傍観するしかない現実に晒されています。

少なくとも試合をする子供たちにあれこれ言うのなら、それと同じくらいのことを親も指導者もすべきではないか。どれほど大変で辛いこと難しいことをしているのか身をもって知るべきではないか。
そうでなければ、あれこれ特に技術・体力的なことなどに口出しするべきではない。
やってもいないのに意見される矛盾は、子供たちに良い影響を与えるはずもない。
指導者は、自らの経験に裏打ちされた意見を述べ、親は、その苦労を包み込む大きな愛情が、あるだけで私は良いと思っている。

子供の周りの者すべてが「指導者」では、子供の身が心が持たないことを猛省しなければならない。

ましてや、周りが言い過ぎるということは、子供たちが「考えなくなる」ということに他ならないことに気づくべきである。
試験や試合の時、頼るものは誰でもない「自分」なのだということ。
出来ないやれなないなりに自分自身で懸命に取り組みさえすればいい。
そうでなければ「道を切り開く力」なんぞ到底つくものではない。
武道を習い修得する術の一つとは、実はそういう「力」である
ことを熟考すべきであろう。

だから私は、例え子供たちでも、話していることが難しかろう厳しかろうとも問いかける。
そして、そのあと自身で考えさせる。
稽古の「質」とは、そういうことであると考えている。
「量」をこなすにしても、やはり、まず初めに「思考」ありきなのだと思っている。
闇雲に「数」だけ意味もわからず生徒に課すのは、ただの愚行以外の何ものでもない。
そんな稽古は、昔日の遺産でしかない。

私は、自身の稽古でどんなにつまらなく見える稽古であっても「意味」を持つよう努めている。
まず自身が、実践し良しと実感出来る成果のあるものしか人には伝えない。

だから時として私の物言いは、厳しくなる。
ついて来れなくなる者も、少なくはない。
ただついてきた者は、必ず「強く」する。
すべての物事に対した時、本当の「強さ」が発露出来るよう私は、指導するよう心を砕くようにしている。目先の強さばかりでは、何にもならない。長じて全ての場において使える心身を鍛えること。
それこそが、私たちが矜持としている「武道」
なのです。
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by katsumi-okuda | 2013-10-13 23:38 | 稽古日誌