2012年 05月 02日
東日本大会…それぞれの思い、そして思惑
土日にかけて静岡にて「東日本大会」が行われました。
まずは、毎度のことながら大変なご苦労をされた大石最高師範始め静岡の道場の皆様に厚く御礼を申し上げたいと思います。それ以前から何かとご足労をおかけしてしまい心苦しい限りでした。 私たちの扱いに関し、いらぬご心配をかけてしまったことについて何やら申し訳ない気分でおりましたが、いつも以上に「らしい」試合そして大会運行を観るにつけ清々しくもあったのも事実です。 何にせよ、大会は選手達のものです。 その選手達が、一応に光の当たる舞台であれば良いとつくづく感じた大会でもありました。 いろいろなことがあったにせよ、試合は例年以上に質の高まりと熱気を感じました。 確実にレベルの上がってきた各試合は、大きな大会に等しいものでした。 この試合を経験することの意味を私共選手一同、今後の糧にしたいと得るものの大きかった試合となりました。 また、特に福島門馬道場の岩崎さんの「型個人二連覇・団体準優勝」「女子シニア組手の部準優勝」には、純粋に凄いことだと感じ入った大会でした。 体調万全ならいざ知らず、治りきらぬ怪我と不安定な体調をおして臨んだ姿勢は、あとに続く多くの小さな道場生たちに大きくかけがえのない、そして事に臨む時決して忘れてはならない「勇気」を身をもって伝えたのではないかと思いました。 筆頭の指導員であり支部長という重責にも関わらず、敢えて挑んだ大会で結果を出す事の難しさは並大抵ではありません。 確かに型の試合に関しては、歴戦の経験がものを言い「上手く揃えた」感は、否めないと私は思いましたが、それにもましてそれに臨む「気魄」は、大したモノ。私たちも見習うべきものでした。 そして、不慣れなはずの「組手」に、これも敢えて果敢に臨んだその気概は、称賛の一言。 なまじ「型の名手」と呼ばれているために恥ずかしい組手は見せられぬそのプレッシャーは、いかばかりか…。それらをはね除けての入賞は何ものにも代え難いものでした。 あとは、しばらくゆっくりと静養して頂きたいと願うばかりですが、老婆心ながら、そこからあまり気が抜けすぎないようにしてもらいたいと思ってもおりますが…。 さて「型が上手いから組手も強いんだ」という簡単な図式では当然ありません。 ただ「型を完璧に表演してみせる」行為と「ふだんの稽古通り組手をやり通す」行為は、やはり同一のもとということは、言えましょう。加えて試合場に挑む感覚を歴戦で身をもって感じておられることもプラスに働いたことと思います。どちらにせよ、一つの事に長ずれば他を益するということ。 それに尽きるのではないかと思っております。 さまざまな外的な要件も、そして「運」もありましょう。 ですが、それら全てを自身のモノにしてしまうことも「実力のうち」です。 今一度、今回の大会を振り返ってみます。 型については、未だ数名の人たちの覇権が続いていますが、後に続く若い世代が多く見受けられたのも事実です。しかし、それを裁く審判の質の向上は、いかばかりか…。 何が良い悪いではなく、一定の基準値の元、評価を行う形を早急に整えていくことを願うばかりです。 審判をされる諸先生方自ら、選手以上に型の鍛錬を勤しまなければならないことは当然。 そして、それ以上に「観る目」を養わなければならないと実感もしております。 折角の「全日本」の冠のつく大会なのですから、私たち審判に当たる者こそが精進しなくてはならないものだと思い至った次第。 但し、組手にせよ型にせよ「一言の文句の出様のない完全な勝ち」を選手は、どんな状況下であれ、目指さなければならないことも忘れてはならない。所詮、人様の大会に出て行く以上、その気概だけは忘れて欲しくはないと願っている。 今回、私たちの選手は、初戦を飾る事が出来なかったものが多くいた。 その点に関しては、指導者の私自身猛省の至りではあるが、今後に繋がる点が多く見受けられた事は、大きな収穫であった。 この件に関しては、選手個人々にこれからの稽古で申し伝えていくが、何にせよ試合後にも「考え」なければならない。勝った負けたで一喜一憂するだけでは意味がない。 何故、勝てたのか、どうして負けたのかを自身で客観視出来なければならない。 そして、これからそれらをいかに補い強化していくかである。 試合において「学ぶ」とは、そういうことである。 技術・体力面そして精神面すべてにおいてこれから熟考し再度稽古に精進せねばならない。 「捲土重来」とは、それをよく成した者のみが使える言葉。 それを本当のものに出来るかどうかが、これからの一つの課題でもある。 一般部の試合ベスト8あたり、その試合の殆どが拮抗していた感がある。 どちらが勝ってもおかしくない試合が、多かった。 そこまで試合が拮抗していくと、勝敗は一つの「彩」でしかなくなってくる。 例えば、試合が、再延長までもつれ込んだ時、何気なく放つ打突で局面ががらりと変わることがよくある。そしてそれらは、出そうと考えて出してくる打突ではなく、それまで丹念に作り上げたその選手の一つの「形」そのもののことが多い。また、そんな大事な局面で反則を出してしまう選手、それもまた、ふだんの有り様が出てしまったということに他ならないと感じている。 何にせよ、ふだんの有り様がとわれるのが「試合」である。 試合とは、試すことに一理ある。 ふだん自身が鍛えた技と心を試す。 それの良し悪しが、単純に言えばその結果となるのである。 ならば、それに相応しい形をやはり、ふだんから作り上げていかなくては何にも辿り着くものではない。そして、そのことは頭では十分わかっているつもりでも、侭ならないのが又試合というものである。
by katsumi-okuda
| 2012-05-02 01:18
| 稽古日誌
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プロフィール
武道歴四十余年。主たる武道極真カラテ。昭和の名人・達人に薫陶を受け現在、私塾教育経験を活かし新たな指導法を展開。自らも日々稽古を続け、理論と実践の合一を目指しています。
道場指導以外にもスポーツクラブでのカラテ普及に努め、今まで空手に縁のない人たちに空手や武道の良さを知ってもらっています。 カテゴリ
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