2010年 03月 03日
昇段…真の強さ、それぞれ
昇段審査を終えて、真新しい「黒帯」を頂く。
その時の感慨は、一入である。たとえ人それぞれでも、それは古から変わらぬもの。 私たち極真カラテの昇段には、一般部で早くても四年以上の歳月を稽古に費やさねばならない。 特に私が総本部に在籍していた時代、同輩が百人いても、そこにたどり着くまでに三人に満たない者しか残れなかった。稽古自体、キツい厳しい事もさることながら、人それぞれ、さまざまな事情そしてその道場内の雰囲気や上下間の軋轢に挫けてしまうことも、間々あったのも事実である。 その全てを乗り越えての「昇段」である。嬉しくない訳がない。 (ただ私の場合、諸事情があり、感慨に耽っている時間もなく慌ただしかった事だけ記憶しています) そして、極真カラテの「昇段」といえば「十人組手」に代表される「多人数組手」が上げられます。 しかし、私の時代明記はされていたが、その規定は曖昧でした。事実、私は五六人程度しかやっていません。その代わり普段の稽古では、気を失う程「組手」が続いていたのも事実です。そのことを総裁は、十分承知されていましたから、審査では「奇麗な組手」を私たちに要請されていたように思えます。 ただ極真が、マスコミにもてはやされるとともに「多人数組手」は、その「看板」となってしまった。 しかし、それが実施されるとすぐに「ある矛盾」に誰もが、気づく事になる。 十人や二十人ならまだしも、それ以上は余程強いか、そして若くて体力がある者にしか出来ないではないか、つまり当時の選手しか挑む事の出来ない「昇段」になってしまっていたのです。 結果、選手が五段でその先生が初段という話しが、あちこちで生まれた時代でもありました。 そして、初段までしか出来ないのだからと道場を去っていく人たちの多かった時代でもありました。 その後、確かにそのような事の是正措置として「支部長合宿」という「昇段合宿」が行われた経緯があるのですが…これも、その内容には多くの疑問点が横たわる事となったのです。 私は、古くからこの事に関して問題を提起しております。 つまり、昇段のその意味とその「多人数組手」の矛盾についてです。考えてみれば、真剣に相手と打突を繰り広げるのであれば、また競技として考えたとき、せいぜい人は10分ももたないのではないか。 それなのに、その「多人数組手」の意味合いとは何なのか。道場生同士、いつも顔を合わせている者も少なくない審査会である。どうしても、組手は道場の「それ」にならざるえない。 つまり、試合場に見る「組手」ではなくなっているのである。 であるなら、尚の事、競技にほど遠い組手を多人数敢行する意味とは、いったい何なのか…。 それなら、それと明記し「道場内での組手」を正しく観るべきであると思っている。 多人数自体が、悪いのではない。それを恰も、金言のように掲げていたのでは、武道としての道標、そして広く深く武道を追求する道が、途絶えてしまう恐れを危惧してならないのである。 私の道場では、通常多人数は行われてている。 無論、道場内のそれである以上、相手を倒す倒される意味合いを離れ、自身と相手の技、そしてそれに自身の体力が、活かせているか否かを図る「時」として用いられ、又、試合における「技」の修得と履修の為に行われている。 つまり、この場合の多人数とは、稽古の一環における「量による修得」を意味している。 実戦、競技を前提とし「その技、体力が、有効か否か」を自身の心身をもって客観的に査定する時間でもあると考える。そのためには「実験の量」は大きな判断基準となるため、稽古内における多人数組手は、その意味欠かす事の出来ない「稽古・鍛錬」と位置づけているのである。 今後、広く多くの人たちが長くこのカラテに携わって頂きたい思いから、私共の団体では、真の「昇段審査」そして「研修」を思考しております。 この前も福島の門馬師範と話しましたが、普段の稽古がどれだけ出来ているかを観るのが審査なのです。それは初心者も私たち上級者も、変わりはありません。上級者だからこそ出来なくてはならないことも多々あります。そして、年長者だからこそ普段の稽古が、出来ているかどうかが大事なのではないでしょうか。 神殿にふんぞり返り腹の出た漫画のようなそんな「先生」に道場生は、憧憬を抱くでしょうか。 歳だからといってお金や温情だけで昇段をもらうような間抜けな事に人は、憧れ、そして尊敬の念を抱くのでしょうか。 少なくとも、私や門馬師範は、そんな姿には、なりたくもないし、ならないと断言しておきます。 …そうなったら、私はさっさと引退しますし、何より段位には興味がないのが本音です。興味があるのは、自身がどれだけ出来るよう巧くなったかどうかだけですから…引退は、その意味でも、当分先の事と思っております。但し、稽古は、この身体が朽ちるまで「継続」します(^^)後をついてくる皆さんは、多分に迷惑だと知りつつ…。 歳を経てからの強さとは…その「基準値」も昇段にかかわる大事な要諦でもあります。 初め、若い頃は、持てる体力を存分に使い切り「力と体力」で勝つ事を第一とするべきです。やたら技にばかり走り過ぎ老成していては、伸びるモノものびません。 そして、次に至りて「技」で勝つ事を旨としていくことを思考していかなければなりません。 それが、過ぎた後、武芸とは「人として」どうあるべきかを問われる「昇段」に差し掛かるものと解し日々の精進、日常すべてを「稽古、鍛錬の場」としていかなければならないと思っています。 人は当然、老いていくものです。 そのとき、若い者と同じ稽古量を誇るのも人それぞれです。良いとも言えましょう。 しかし、その時に至りては、日常のすべての行い、振る舞い全てを稽古、鍛錬に替えられていれば、最上と思っています。 しかし、私は、まだ幸いにして「道の途中」。 思考し、身をもって試行することでしか、私たちのカラテの回答はないものと思っております。
by katsumi-okuda
| 2010-03-03 02:07
| 評論
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プロフィール
武道歴四十余年。主たる武道極真カラテ。昭和の名人・達人に薫陶を受け現在、私塾教育経験を活かし新たな指導法を展開。自らも日々稽古を続け、理論と実践の合一を目指しています。
道場指導以外にもスポーツクラブでのカラテ普及に努め、今まで空手に縁のない人たちに空手や武道の良さを知ってもらっています。 カテゴリ
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