武道カラテ稽古日記

ブログトップ | ログイン

選手パパさん達稽古体験会(^^)

選手パパさん達稽古体験会(^^)

子供達の親御さんから声があがり「一度練習を体験したい。でないと色んなことがわからない」と、とても有り難い提案にすぐに対応してみました。

月曜、私の指導している中で最も大きく快適な施設で「選手パパさん達稽古体験会」を行いました。

いつも通りの稽古を順にこなして頂きました。あまり無理をされても、後々に差し障るといけないのですが…それでもまだまだパパさん達お若いので、しっかりとついてきて頂きました!

基本的なことやミットの持ち方打ち方、組手の為の稽古見学、そして少しの補強などでした。

慣れないこと初めてのことは、大変なことですけど、皆さん本当に頑張って頂きました!
本当に頭の下がる思いでもあります。
子供達と肩を並べ共に稽古を共有することで、分かり合えることも多くあると改めて実感させていただきました。

親御さんの陰日向のサポートがあればこその子供達です。みんなで頑張っているんだという一体感が、子供達を支える大切な一つになっていることを感じられてなりません。

「あんなに1分が、長いなんて…最後にラッシュしろって言えない」
そんなことを仰っていたパパさんがおりました。本当にそうなんですよね。
でも、それに耐えて頑張ってる子供達を益々褒めてそして激励してください!
叱咤指導し喝を入れるのは、私たちが担いますので…
a0026020_11110372.gif


# by katsumi-okuda | 2018-05-22 10:57

本日20日、昇段審査会を執り行わせて頂きました。

本日20日、昇段審査会を執り行わせて頂きました。

渡邊謙人指導員は、中学生の頃から私どもの道場生となり、多くいた仲間たちの中で黙々と稽古を続け、今から14年ほど前に黒帯を取得しました。

早いものです…ここまで頑張ってくれるとは、当初は思いませんでしたが、いつどんな時も、変わることなく稽古に打ち込む姿勢は、後輩の良き手本であり、今では道場を預かる「先生」として私の片腕の一人でもあります。

あまり人を褒めたりしない私ですが、本当に今回も含め社会人でありながら、多くの試合に出、後輩や子供達の指導に従事してくれている姿勢は、立派だと感じ入りました。

彼の二段昇段の為に福島門馬道場の黒帯の方々(佐藤さん、鈴木君、米本くん)埼玉橋本道場から橋本先生そして羽下賀さんに参加頂きました。
本当にありがとうございました!

組手の最中、それを見遣り「果報者だなぁ…ケント」と何故か感慨深いものがありました。
自身のために皆さんが、集まってくれ胸を貸していただけることに今一度感謝しなければならないと深く思いました。また、何かと心遣い頂きました門馬師範はじめ多くの関係者の皆様にこの場を借りて感謝申し上げます!

貴重な時間とこの経験をまたこれからに活かしていけるよう彼なりに精進してもらいたいと思っております。

全ての物事がそうであるように、そこが終着点ではなく、起点となることを忘れてはならない。経験を活かすとは、それをまた糧に次を目指すことを言う。
武道とは、道。
道とは、歩み続けなければ繋がらない。
どんなに遅かろうが何だろうが、歩み続ける。
それが出来る者の一つの証として私たちには、昇段という手立てがあると考えても間違いではない。

審査後、ホッとしたのか「脚がつって…」と言いながら、真っ赤に打たれた身体を気に止めるでもなく、自分の教えてる道場に指導に向かった…こんな日は、休んでもバチは当たらない…と思ったが、試合後、脚をひきづりながら稽古に参加する彼ならでは…なぜか微笑ましかった。本当に今日は、ご苦労さん!よくやった!
…ただ、あまり祝盃はあげすぎないように(^^)
a0026020_23562270.gif


# by katsumi-okuda | 2018-05-20 23:28

新たな試みとは…

新たな試みとは…

さて、愚痴ばかり言ってても何も生まれないので次に向かうことを考えております。

例えば、子供達との稽古と併用して色んな「お話」をしていこう(特に合宿など時間に余裕のある時など)と思う。
また、一般の人たちも同様に「教養」としての講義をしても良いと思っている。
身体だけではなく、アタマも使えるようになって欲しい(^^)

組手において「壮年、高段者のあり方」の実践を少しづつ形にしていこうと思う。
試案として…
組手の基本は変えず、防具は下半身のみ。
素手を基本とするが、ただの殴り合いは避けるシステムとし、「受けの動作をしない場合、相手に有効のポイントが生まれる」
「甚だしい接近戦は、数秒のみ」
「三分一本勝負」とし無駄な体力や怪我の率を軽減する。などなど…。

要は、体力体格任せの組手には陥らないものを構築していきたい。
壮年や高段者らしい「技」の出し入れが出来るものになれればと思うが…。

さてどこまで出来るかは、まずはやってみなければわからない。
まずは、師範代や限られた者たちとしか出来ないと思うが…。

あとは、極真らしい型の再構築。
極真らしいとは、どんなことか…
実戦(競技)カラテにおいての型とは…
これらの命題を突き詰めていきたい。
a0026020_19544430.gif


# by katsumi-okuda | 2018-05-15 19:40

 あらためてお伝え致します。

 あらためてお伝え致します。
第六回千葉県大会の結果、並びに全日本ジュニアチャンピオンシップ出場権利獲得者の皆様のお名前を「世界総極真 長谷川道場」のホームページ上にて掲載させて頂きましたので、ご確認の程、よろしくお願い致します。

 四月以降、私事ですが煩雑を極め各方面への御礼も遅れ大変心苦しく思っております。
とりあえず、こちらでのご報告とさせて頂きますので、何卒ご容赦の程よろしくお願い申し上げます。


 毎年のことなのですが、自身の検査入院が春となり、仕事が滞ることが多く、皆様にご迷惑をおかけしております。

齢とともに、コレでもかと言うほど患い方も様々…流石に辟易としております。

なんとか平常に戻るまで、あと少しと思っておりますが…動けないことにストレスが、こんなにかかるかと自分自身恨めしく思うばかり…

ただ、それでも子供達と楽しく厳しい稽古を体感出来るのが、僅かな救いですが…

ちなみにこの前道場の裏口でかなり大きな蛇と遭遇しました!
突然足元から先を越され、久しぶりに驚きました!まだまだ色んな動物が、この辺りはおります。やはり「田舎の都会⁈」なのかなと思ったりしますが、蛇や蜥蜴、ヤモリと合うとなんか良いことがあるのかなと思ったりしています(^^)
a0026020_19400049.gif


# by katsumi-okuda | 2018-05-15 19:25

新しい試み…

新しい試み…

いつからか歳のせいなのか、武道そのものに対する考え方思いは、少しずつ変容している。

無論、実戦の中での強さを希求し鍛錬稽古することに微塵も疑いはない。
ただ、いつも思う。
それに深く携わる者だけでなく、すべての人達に効用があることをもっと知らしめるべきではないかと。

時代とともに、道場に集う人達の顔触れは変わった。青年から少年、そして、中高年の方々。
武道の良さを知ってもらう良い機会ともなったが、それでは、その多くの人達に訴求出来るだけの「ソフト」が教える側の私たちに果たして備わっているのだろうかと。

武道やその道場に求めるものは、やる人全て違うと考えている。
試合に出て自分の強さを試したい。
身体を鍛え心身ともに健康でありたい。
たしかに、その思いは、人様々。

稽古をしながら、その応えを自ら探しだすこともまた大切なことだが、教える側が、様々なことを提示していくこともまた大切なことではないか。

単に昔から変わらない稽古だけをやらせていればいいのではない。
その中に新旧問わず今の人達が、求めるものを研究創造していくことに武道の本質の一つがあると考えている。

例えば、突きや蹴りの動作の中に、普段の身体的な関わりが、どのようにあるかを考えて伝えることも、その一つ。
型一つとっても、それを行う人の身体的資質を照らし合わせ解析していくこともまた、長く効用をもたらす大事な要因であることを伝えなければならないと考える。

長く続けていくことで無論得られることも、多くあるのが武道の良いところである。
しかしまた、即効性のあることも多くあることをもっと知らしめるべきだと考えて久しい。

ただ何もやさしい簡単なことだけをやれというのでは決してない。
自分の身体を意識し対話しながらやれる手立てを伝えていくことやその為の日々の生活の中での所作を伝えることを伝える者は、意識研鑽しなければならない。

さて、壮健の為の武道と併用し、新しい試みを試そうと思っている。
それは、壮年部、中高年及び高段者の「組手及び試合形式」である。
今のルールも尊守しながら、それを高度深化した稽古鍛錬の一つと私は位置付けている。
一つの雛形があるとすれば、剣道の高段者審査での取り組み方である。
無駄な打突をせず、意識を高めその一閃にかける所作は、紛れもなく元来の武道武術の原点であろう。では、私たち実戦の徒であるカラテで同じようなことが、出来ないだろうか?
いや、出来るはずであると信じているが…
まずは、それを理解し私と同じ感性を共有出来る方達と試行していくこととする。
a0026020_13463093.gif






# by katsumi-okuda | 2018-05-10 15:32

大いなる矛盾…

大いなる矛盾…

私が道場をおこした頃の組手を体験しているのは、師範代と山崎先生くらいなものか…

相手の蹴りを回し受けで捉え軸足を大外刈りの要領で真下に落とす。
相手の突きを捌きアタマを引き寄せ膝蹴り、そして投げ落とす…
「…師範、それ今やったら全部反則…ですよね」「だね^_^」

総本部時代、組手のルールはあってないようなものでした。当時、大会も、全日本くらいしかなく、通ってる道場生のほとんどは本当に「ただ喧嘩に強くなりたい」との思いだけで、真剣勝負をしていた(やらされていた?)
だから、それなりにやれない者は、どんどん脱落していった。
本当によく死人が出なかったものだと今にして思う。

時代は進み、ルールは整備され適切な実戦カラテが、体現できる時代となった。
しかし、時代の要請とも言える「安全性」を重視するあまり、様々な矛盾や考え方の乖離が見え隠れする。

防具とは、読んで字のごとく「防ぐ為の道具」である。それを使用していながら、相手に「ダメージ」を与えていく。そして、審判も「ダメージ優先」と唱える。ではその防具の意味とは、と問いたくなるが…。

安全性を唱えながらも、ダメージ優先や技の有効性を判断する。一般の試合に至っては、例え顔面に蹴りが入ろうが、ダメージがなければ、無効と判断し試合は続行されるのが常…。
しかし、顔面に蹴りが当たった選手に話を聞くと、その後のことを覚えていない。無意識に戦っていたという話しをよく聞く…。

取りも直さず、特に一般部の選手たちは、試合の為にそれ相応のカラダを作り上げその場に立っている。そして、ある種の「覚悟」をもって試合に臨んでいる(出場申込みに何があってもすべての責任は自身が負うと明記されており、選手はそれを承諾し試合に臨む)以上、そのことで過度な安全を確保しようとするならば、このルールは存在出来ない。

選手同士、そして、それを裁く審判と大会主催者は、そのことを熟知し暗黙の了解のうちに試合は、行われているに過ぎない。

確かに故意に反則まがいな行為をする者は、論外であるが、闘争心の発露又は未熟さのために交錯する打突は、時として反則領域に至る。

しかし、それを過度に押えこもうとする判断は時に私たちの組手の進化をも止めてしまいかねないのではないかと危惧してならない。

危なげな試合も確かにある。
女子や子供達でアタマをぶつけてしまう行為。
あまりに接近してしまうが為に両者抱え込んでしまう行為。
激しく交錯する打突と動きの中で狙いが外れ、相手の反則領域に入ってしまう。等など。

どれも闘争心の発露、そして時に未熟さ故のことと判断し、その場を納めていくことが私たち審判を司る者の役目ではある。

故に判定が、全て同じになる明らかな試合以外、見方の相違差異は、存在し許容されなければならない。さもなければ、私たちがこの競技をやっている意味が問われかねない。

不慮な事故を極力無いように努めルールに則った中での安全性を確保しつつ、新しい進化を遂げたカラテを特に若い人達には、創造してもらいたい。そして、審判につく者は、出来うる限り、その為の判断をする為に日々、選手と同等の稽古を研鑽する必要があることを忘れてはならない。
a0026020_15001633.gif


# by katsumi-okuda | 2018-05-08 14:14

モノの見方、考え方とは、その物事を見据える見方(例えば角度、それを見る本人の経歴や経験値)によって当然差異が、生ずる。

モノの見方、考え方とは、その物事を見据える見方(例えば角度、それを見る本人の経歴や経験値)によって当然差異が、生ずる。

 私たちの世界では、当然と思われる事柄でも、全く関係ない他者から見れば、何とも奇異に思われることも多々ある。

また、その物事を考える際、よく似たモノと比較することがあるが、それも、よく考えて見ると似て非なる物事を並べて判断している場合も、少なくない。

例えば(あくまでも、ここからは私の見解であり一般論かどうかは、別問題として頂きたい)
よく言われることだが、伝統派の型と私たちの型を比べて論ずる方々が、いらっしゃるが、ここで少し考えて頂きたいといつも思う。

門外漢の私から見れば軟式と硬式テニスの差は、全くわからない。
しかし、その競技特性に関してその両者の間には大きな隔たりがあると当然言われている。

私たちの実戦が元になっている型の解釈や稽古法と伝統派の方々が、努められているそれとでは、その元が全く違う。
まして、型にかけた時間(歴史そして稽古時間)の総量や熱量は、明らかに違う。
ここまでくると似て非なるモノと私は、思わざるを得ない。

だから、私たちは、同じ名称が付いている伝統派の型であっても、極真の型を創造していかねばならないと常に思っている。

そのことを解せず、ただ見た目だけの判断で、その良し悪しを判断することだけは、するべきでは決してない。そのどちらに対しても不遜以外の何者でもない。

また、モノの見方という点で、もう一点付け加えると「審判」がある。
例えば当然な話なのだが、主審の見方、各副審の見方は、全て違う。
主審は、間近で選手の息遣いや表情まで伺い知り判断を下せる。それぞれの副審は、その角度からの見方がある。一例ではあるが対角線上にいる副審同士、見てる角度が真逆になることがある。こちら側からは、選手の表情が見えても、対角線上の副審からはその選手の後ろ姿や動作しか分からないことが、少なくない。
よって判断に差異が生ずることが、出る。
だから、判定で差異が生ずることの一因ともなり得る。加えて、審判の経歴や経験値によっても、判断が異なる因子ともなる。
 私のように旧いタイプの審判などは、完全な決着を選手にわかってもらいたいが為に、敢えて引き分け延長とすることが、間々ある。
 しかし、時間的な要因や安全性に考慮するあまり、僅かな差異でも、どちらかに判断を下だす場合もまたあるのが実情でもある。

どちらが正しいということではない。
見える立ち位置やその時々によって、人は判断を下しているに過ぎないとも言える。

だから、私たちの審判制は、四人の副審の判定に加えて主審の見方に則った判定を下すのである。主審の判定は、単に副審の判定と同列ではなくなる。
それぞれの副審の見方と間近で見ている主審の見方をその折々に瞬時に加味判断し試合を判定付けてあるのが主審の役目とも言える。
故に、試合の判断は、その全てを主審に任せているのである。

そして、そのことにクレームをつけたがる者達が、多くいることも承知しているが、ルールに則りその上で判断している主審の裁定を覆す愚行は、厳に慎まなければならない。
それを唯々諾々と許してしまっているようでは、試合は成り立たなくなるばかりか、選手の安全性も含め試合そのものの冒涜になると私は断言する。

同じ価値観を持って判断すべきなのは、当然。
しかし、以上述べたような因子は否めない。
故にそれらを統括することの出来る規則をもって、適切に運用できる審判が存在しなければならないと、何時も思い定めてならない。
a0026020_00103813.gif


# by katsumi-okuda | 2018-05-07 23:11

…年月の流れは、考えた以上に早かった。

…年月の流れは、考えた以上に早かった。

この地で曲がりなりにも武道を伝え始め、四〇年余りになろうとしている。

そう大して多くない道場生も、延で四千人を超えておりますが、その中でも強くなった者、後に功成し遂げた者とは、「続けられた者」に尽きる。

たとえ、歩みが遅くとも、さして戦歴が優れた者でなくても、たえず歩を進めた者と断言出来る。

どんなに優れた天賦の才に恵まれていようとも、一時の閃きだけでは、何も成し遂げられてはいない。結果、才能とは、進めていくための一つの手立てに過ぎない。
最も大切なことは、続けられる本人の意志とそれを陰日なたと支えてくれる周りの方々の尽力によるものが、大きい。

何かにつけて、止める理由を探すのが、人間の本性。
それをいかに、理や智をもって押さえ込み愚直に続けられたか否か。

流石にこの歳になると、そのことの正しさを実感してならない。

少なくとも将来ある子供達や若い人たち、そして、まだまだ先があると立ち向かう気概溢れる年長者の方々、出来る限り続けてもらいたい。

幼少期からなら少なくとも中高に至るまで。
一般なら身体に変化のあらわれるまで。

気がつけば、私と同年で当然私以上に才があり優れた者達のその殆どは、稽古鍛錬の道から居なくなって久しい。

どこまで出来るかは、わからない。

しかし、やれる限り、道場生と対等な稽古鍛錬を積んでいく。
まだ先は、見えない。
動き泥む身体を毎日毎日ひきづりながら、それでも、場に立ちたいと願う。

自身の我儘に付き合わされる皆さんには、申し訳ないが、今暫く共に稽古鍛錬をお願いしたい。
…何故か、いつも、この時節になると思う。
a0026020_12385780.jpg


# by katsumi-okuda | 2018-04-29 12:12

何をどう思い、どう立ち向かうか…

何をどう思い、どう立ち向かうか…

何をするにせよ一番大事だと思うことが、
自分の気持ちだと思う。

弱い自分を真正面から見つめ、それが、わかった上で物事に立ち向かう。
やる前から負けた気分になんて絶対にならない。どちらかというと勝った気分、ワクワクしながら立ち向かうように努めること。
それが、例え本心と違っても…。

試合や受験に立ち向かう子供達にそんな話しをよくする。
やる前から負けた気分になるな。
自分の力が、どれだけ相手に通用するか全力で試してみる。
その試せる機会を「楽しむ」と表現しても間違えではない。どこまで通用するか全力で試して楽しむことが、出来れば、それで良いと思う。

大会、試合シーズンになる。

稽古の一環が試合。
結果は、後から付いてくるとも言う。

しかしそれでも、勝ちたいと誰もが思う。

その思いの狭間で揺れ泥む。
それもまた当たり前。

だからこそ、やる前から負けるなんて、勿体無いことを考えないことだ。
その気持ちを正すためにも、やれることを全部出し切れるよう努めなければ…。

「相手は手足が何本もあるバケモノじゃないんだよ!同じ人間なんだから!」

ホントによく総裁に言われました^ ^
そして、本当にその通りだと思いますね。
a0026020_11470787.jpg




# by katsumi-okuda | 2018-04-27 11:29

…はやすぎる。

…はやすぎる。

ここのところ名を成した方々が、急逝されている。広重師範、そして岸信行先生。

特に岸信行先生は、かつて私が総本部時代、初めての頃ご指導頂いた指導員のお一人でした。

稽古は、いつも率先して体現して見せ、その当時の極真の何たるかを教えてくださった。

その厳しさの中でも、稽古が終わると朴訥とした優しさに触れたことを懐かしく思い起こされてならない。

広重師範とは、さほど面識がある方ではないが、いつも理路整然とした立ち振る舞いとその指導力の確からしさに感服するばかりでした。

厳しい稽古が、アダになったとは、思いたくないが、少なくとも、今より健康に留意されてなかったのではないかと推察するばかり。

同年代でもまた、私自身も、病を得て考えることは少なくない。

これからの日々、どのように過ごさねばならないか、考え思うことがある。
今はただ、ご冥福をお祈りするばかり。
a0026020_12541205.gif


# by katsumi-okuda | 2018-04-24 12:42