2023年 09月 20日
変えるものと変えられぬもの
…本当に今年は…暑い日が続いている。 今週末、福島県大会にお邪魔するが、どうやらその辺りからは、涼しくなりそうだが… 暑さ寒さも彼岸までとは、先人の言う通り^ - ^ どのような大会に出ようとウチの道場生、選手達には、厳に申し伝えていることがある。 どんなに年若くとも一空手家として、立ち居振る舞いに乱れのないこと。 礼儀は、言うに及ばず、その戦い方も問われる。 武道の試合である以上、余計な物事を差し入れない。 清潔な道着を正しく着ること。 試合のルールに則り、正々堂々と戦うこと。 特に試合中の態度には、勝ち負けに拘らず正す事。 たとえ、自分に不利な裁可が、下されようとも、甘んじてそれを受け入れ時々に全力を尽くすこと。 礼儀をもって全力で戦い、その優劣は他者つまりその時の審判に委ね,決して、そのことに不満を述べない 微妙な判定になってしまうような試合しか出来なかった自身の不甲斐なさを真に受け止め、次回の自身の糧とすること。 何にせよ、試合、大会である限り、皆不用意な怪我のないよう全力で当たってほしい。 他は知らないが、ウチでは、稽古中、男子は道着の下にTシャツなどを着させない。 余程、事情がある場合や女子は別だが、暑かろうが寒かろうが、素肌を鍛え免疫力を高めることを目的とすることが一つ。 もう一つは、やはり、武道である以上道着以外、稽古中は、つけるべきではないという武道の拘りを大事にしたい思いから…旧いと言われようが、そこは大事にしたいところ。 まだ子供達なら許せるところもなくは無いが、指導者の自分達は、率先垂範を示す為にも、たとえ痩せ我慢でも、厳守するべきことと堅持している考え方である (もし、私が歳のせいで道着の下に何か着込んでいるのを見たら、引退を進言してください^ - ^) …何事も、先ずは「カタチから」 そのカタチや様式美を崩してしまったら、本道から外れてしまう…そんな気がしてならないのです。 道着を綺麗に着ている者は、強くて上手い。 どの世界でも、それは同じ。 そこには、何も余計なものはない。 だから、凛々しくも美しく人様の眼に留まるというもの… #
by katsumi-okuda
| 2023-09-20 14:39
2023年 09月 18日
教えること、教わること
まだ…暑い。 しかし、朝晩は、それなりになってはきたが、も少し涼しくなってもらいたい^ - ^ 眼の手術から二週間程度、普段の生活は何ということもなし。順調に推移していると思う。劇的に見えるようになったかと言われると…普通としか^ - ^ ただ今まで見えづらかった夕方や夜が、ハッキリ見えているのには、少し感動している。 なんせ十代以来、ハッキリ見えているのだから… ただ違和感としては、組手の際、見え過ぎる^ - ^ のは、ご愛嬌。 今まで殆ど見えてない状態、感覚頼りだったことに今更ながら気づく。 しばらく、何かと修正が必要かもと感じております。 私は昔の職業柄、教えることに注視するタイプですが、今時どうやら、教え過ぎ、教えてもらって当たり前という風潮があることに、コレまた違和感を感じてならない。 言葉というものは、便利なようで時に不便。 理解しているようで理解していない。 通じているようで、通じていない。 例えば、国語の世界で「行間を読む」ということを言われることがある。書かれていないことを、その周りの事象から推察することを問われる行為。 日本人的というか…。 武道の世界では、古来一子相伝の意味合いから、個人または、少人数にのみ伝えられればそれで問題はなかった。つまり、師の言わんとしていることを理解出来る者のみが、残った経緯がある。 為に、その教え方は、それぞれに独特、若しくは特異性のあるものだったと言われている。 今は、習い事の一環としてある以上、それとばかりに行うことは、できないし、やるべきでもない。 ただ本当の理解とは、自ら掴み取るもの。 言葉として伝達されたものを動きへと変換していく。 それをまた自身のモノとする。 そのためには、質もさることながら、やはり、カラダに覚え込ませるための「量の稽古鍛錬」は、欠かせない。 教え過ぎも、教わりすぎも、ただの自己満足に過ぎない。 どれだけ、言葉少なく、教える側が実行出来ているか?習う側は、教えられたことを絶えず考えて次にいかせているか⁈ 武道の一つの側面に人格形成がある。 技量や体力を強化すると同時に自らのアタマと身体をいつも整えることが出来るか否か。 教える側も教わる側も、それは変わらない。
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by katsumi-okuda
| 2023-09-18 12:21
2023年 09月 15日
続けること…番外
いまだにそんな声を聞くことがあり、情けなくも呆れてしまうことがある。 子供達が、頑張っているのに、その勝敗だけに一喜一憂し、負けたら怒鳴り散らし勝てば自分が勝ったかのように喧伝する親や指導者…情けないよりも怒りさえ感じてならない。 どの競技でも親や指導者のサポートは、必須ではある。だが、やるのは本人、子供達。 その子達の辛苦を理解もせず、無碍に言い募るのは、勘違いも甚だしい。 どんな競技であれ、そこまで言うなら自分がまず手本として同じことをやってみればいい。 どれほど大変なことか…スポーツにせよ勉学にせよ、それらは皆同じ。 あくまで私達大人は、その子供達の側に立ち、励まし有形無形のサポートをするのみ。 試合のみならず、稽古の内外において話を聞き言葉をかける。その子達のモチベーションが、少しでも良い方向に向かうように…。 そして、それらが、これからの成長に少しでも良い糧となれるようにする。 それが、私達、側にある大人の責務。 勝って喜ぶのは本人。 負けて悔しいのも本人。 ただ、そのどちらにも陰に大人が手を携え背を押せるようにすることが、大事。 それ以外の何者でも無い。 それと親子で同じことをやられていることには、尊敬しかないと思っている。 同じ運動でも、子供達は易々とこなせるが大人は、そうもいかない。 仕事等でも、多忙を極めるなか、子供と一緒に稽古に参加することは、大変なことである。 それこそが「背中で語る」良い実例なのでしょう。 今は、わからなくとも、いずれその姿は子供達のココロに残り、大切な指標となるものだと感じて居ます。 さて、様々な大会を控えております。 そこで基礎体力の指標をあげておきましょう! どのくらいの体力が必要か? 子供達なら約5分、大人なら7分程度。 全開で動けること。 要は中距離(400〜800m)を適時こなせること。 *暇があれば「全速力で走る」室内なら「ジャンピングスクワット」2.30✖️10〜50 打たれて強さを強化すること。 カラダの前面は、勿論、背面と足腰を鍛える。 特に胸と腹は、最低1分以上殴られても耐えられる、また、殴られながら殴り返せること^ - ^ 例 腹筋 1日500回以上 腕立て 1日500回目標 まず技術云々より「体力」 同体格で負けない「体力」をつきましょう! ちなみに、これらに等しいことを私は、以前の選手達には課していた^ - ^ やってみて損はない^ - ^ やれたら凄いと自分で褒めていい^ - ^ #
by katsumi-okuda
| 2023-09-15 13:10
2023年 09月 13日
続けることの大事さと難しさ
長くこの世界に携わっていると、よく出くわす問いかけ… やってみたい、やりたいと思う人100人だとすると 実際にやる人、10から20人 ある程度迄(つまり黒帯まで)続けられる人、数人 その先にいける者…ごく僅か。 …どの世界線でも同じこと。スポーツであれ、芸術であれ、学問であれ…。 では、いかに続けられるか⁈ この命題に確かな答えは無い。 あるとすれば、初めは、やらされても、嫌々でも続け「習慣化」することからはじまる。 だから、習い事としての子供達には、ある一定期間、続けてもらいたい。 物事には、いつも楽しいことばかりでは無いことを知り、続けていき、自らに様々なチカラがつくことを実感するまでやり通してもらいたい。 これは完全に私見だし、これが全ての正解だとも思わないが、この齢までにそう実感するに値するモノを、この継続から学んだことは、揺るぎない。 沢山いた仲間達が、刃毀れをするようにいなくなる。 そんな中、何故続けてこられたか…。 確かに同じ年頃の連中が、生活を謳歌している最中、汗にまみれ、何の為にやっているかもわからなくなるほど日々、焦燥感や怨み嫉みに苛まれ、それでも道着に袖を通し、道場に立つ… すると、そこには、同じような思いの「仲間達」がいる。今なら大会や試合に行けば、同じ苦しさの中から這い上がってきた「仲間」がいる。 それに触発されるかのように内から高揚感と喜びが、自然に湧き上がる。 その時々に…続けてきて良かったと実感する。 青年期、前にも話したが、自分が続けてこられた原因の一つは、上に強い兄貴達が、いたから。 それに負けないようにするため。 道場に行けば、強い先輩は、山のように聳え立つ。 この前まで自分より弱かった仲間が、強く上手くなっている…やらなければ置いていかれる。 いや何よりも負けたままでは、格好が悪い。 目覚めが悪い! 今は勝てなくても、いや負けない工夫があるはずと無い頭を巡らし、自身のカラダで試す日々。 続けられた原動力があるとすれば、そこにある。 諦めないというより、諦めが悪い^ - ^ たとえ負けた、弱いと分かっていても、そのまま後ろを向くよりはマシだと考えていた。 その頃からか、思うようになった。 …何でも同じだと。 空手で突き詰めたアタマとカラダは、他でも使えた、 苦手な勉学でも、諦めず、点数を取ること、取れる方法を実践した。社会に出ても、その姿勢は変わらない 出来なくて当たり前。 出来るようになるまで、やるだけ。 たとえ、どんなな不格好でも構わないと私は、この空手を続けることによって学んだと確信して他ならない こんな凡人でも、ここまで続けたからこそ今の自分が、あることに僅かながらの矜持をもっている。 ありがたい事に、年齢以上のことがやれているのは、一緒に稽古してくれてる道場生や子供達のお陰だと常に感じている。 …そろそろ人外に足を入れ始めてはいるが…^ - ^ #
by katsumi-okuda
| 2023-09-13 12:45
2023年 09月 11日
秋季練成会…
まだ日差しが夏のようなこの時節…はやく涼しくなってくれないかなと…。 まだ夏の盛りを思わせる日曜、アリーナ2階剣道場を会場として恒例のイベント。 練成会…コレは元々、他の道場生との稽古交流を目的として始められたもの。 現在では、子供達の一つの経験の場となっております 見慣れない所で見知らぬ顔ぶれと稽古をし、そのまま試合をやらされる^ - ^ ふだん大会等に出られない道場生の為に少しでも出場の感覚を味わってもらいたいのが一つの趣旨。 原則、学年別で行われはするが、人数的なこともありこちらの判断により同レベル同士で競い合うカタチの変則的なトーナメントとなった。 当然、同じ道場生同士の組み合わせも… それでも、場所や周りで見守る御父兄や先輩、諸先生方を前にいつもとは、違う緊張感。 いつもと同じようには、戦えないもどかしさを感じながら、懸命に立ち向かうその姿は、勝ち負けを越した経験が、そこにある。 それが、ふだんと違う「試合」というもの。 それを少しでも感じてくれたなら、参加してくれただけの価値は、大いにあるのです。 幼い道場生は、ただ見てるだけの「見取り稽古」が、そのほとんどですが、それでも普段では見ることのできない貴重な体験をしてもらったと考えております。 この練成会を通し、他の大会にも参加を希望する道場生も、出てきます。 また、思った以上に組手に向いている人達も、少なくないと感じております。 どんなことでもそうですが、やってみなければわからないものです。 初めは、どんなことでも、初めて^ - ^ 負けたり失敗したりするのが、嫌なのが当たり前。 でも、それらを乗り越えようとすることの一つ一つが、自身を成長させることは、疑いようもない。 兎角、男の子は、失敗や負けを嫌がる。 恥ずかしいと感じやすい(かく言う私も、そうでした^ - ^)それだからこそ、そういう体験を幼いうちから、積み上げわてもらいたい。 そうすることで物事に諦めない「耐性」がつくというものです。正直、誰も彼もが、結果を出せるわけではありません!ですが、物事に「挑んだ」という前向きな自身の意思には、大きなものがあります。 試合前の独特な緊張感、勝った時の高揚感、 負けた時の悔しさや悲しさ、後悔。 そして、意外と知られてないのが、試合後。 穏やかな感覚と客観的、冷静に自身を観れる自分を知ることが、出来るようになるのです。 …それが、出来てまた、実行出来れば、その人は何をやっても大成するもの^ - ^。 #
by katsumi-okuda
| 2023-09-11 12:55
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プロフィール
武道歴四十余年。主たる武道極真カラテ。昭和の名人・達人に薫陶を受け現在、私塾教育経験を活かし新たな指導法を展開。自らも日々稽古を続け、理論と実践の合一を目指しています。
道場指導以外にもスポーツクラブでのカラテ普及に努め、今まで空手に縁のない人たちに空手や武道の良さを知ってもらっています。 カテゴリ
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