武道カラテ稽古日記

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久々に…

暫く訳あって書くことから遠ざかっておりました。

その理由を書き連ねるつもりは有りません。
一身上の都合とでもしておきましょうか。

何かと嫌なことがあると、不意に熱が冷めてしまう性なので…。

それなりに多忙な月日を重ねておりますが、また以前のサイクルで書き留められれば良いと思いますので、これからも一つ良しなに。

昨年11月に右腕の骨折以来、体の不調は数知れず⁈これも、歳のせいなのかと少し諦めてもおりますが、粛々と日々の稽古に身を委ねてもおります。

どちらにしても春は、体調のナミが激しく儘ならないものですね。

それでも、小さな道場生達が、頑張ってる姿を見て、また頑張れる自分がおります。

今、皆に良く言うのですが
「若い人たちのこれからの二十年と私の年代のこれからの二十年とでは、訳が違う。何せ棺桶に真っしぐらなんだから、それなりに意義のあることを毎日していきたいし、それまで全力でこの身体を使い切りたい」

冗談ではなく、そう思うのです。

若いつもりは頭の中だけで確実に身体は、坂道を下っております。
あとは、いかに緩やかに下っていけるか…。

さて、これから大会シーズン。

これも大会に向かう新幹線の車中で書いております。
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# by katsumi-okuda | 2017-04-15 09:38

願わくば

後少しで総極真として第一回目の世界大会…

何も出来ずじまいで歯痒いばかりですが、日本選手団の皆さんに改めてyellをおくりたい。

特に若い選手の皆さんには大いに期待しております。別段、餞けでもお世辞でもなく今の若い選手の皆さんは、これまでの体力勝負一本槍な画一化された戦い方ではなく、それぞれの資質にあった戦い方を良く体現されていると感じております。

軽中量の選手、まして若い選手が、勝ちあがる姿それこそが、競技、武道として一つの応えでもあろうと思います。

その技量を体現するために並々ならぬ稽古と鍛錬、そして個々の葛藤苦悩が、あったことと思います。
そして、それらを乗り越えるためそれぞれの想いが、あろうことを感じております。

そしてまた、忘れないで頂きたい。
いや、それらを自身のチカラに変えて頂きたい。

それは、陰日向から皆さんを支えてくれているご両親や御家族そして共に稽古に汗してくれる仲間達と精神的支えであろう師範先生方…数え上げればキリがないほどの人々に支えられ、そしてその大舞台に立てることの誇らしさを感じとり、出来る限りの「大暴れ」をして頂きたいと願うばかりです。
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# by katsumi-okuda | 2016-10-16 08:04

真似ると学ぶ

特に少年部の男子に多い。
すぐに覚えることは出来るが、その後の反復練習を疎かにしがちであからさまに手を抜く。
他のこととと稽古の切り替えが、出来ない。
そんな子供たちに私は、容赦無く叱責する。

同じ様に、稽古始めの柔軟準備運動や基本で手を抜く者を私は、決して認めない。

物事の初手から手を抜く者や日々の単純な稽古鍛錬を疎かにする者に大成する者はいないことを断言して憚らない。

例えば、世の中に稀有な人材というものはある。
拳立ての少しも出来ない者が格闘技の世界で活躍している例もある。
しかし、これは稀有な例であり、その個人の資質によるところが大きい。よって、凡人の我々が、その稀有なやり方を「真似」たからといってどれだけの効果があるのだろうか?
いや、あるはずもない。

我々普通の者は、少なくとも日々の単純な稽古鍛錬を積むことに本義を見いださなければならない。
「天才の真似をしても天才には、なれないしならない。」

「真似る」とは、その語源が示す通り「学ぶ」に通ずる。
師を真似る。他者の良きところを真似、そのから自身に合うべきものを取捨選択し活かしていくこと、そのものが学ぶということではなかろうか。

特に若い道場生や子供達には、苦言になろうが、敢えて私は、そのことに厳しく言下におくこととする。この先、彼らが、物事を成し遂げていく為に必要なことを私たちの道場で学んで欲しいと願うばかりだ。
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# by katsumi-okuda | 2016-10-02 07:43

武道の矜持

ここに記することは、ふだん稽古の内外で話していることです。
そして今、これからの市井の道場の在り方、私どもの道場の在り方を模索しております。

私どものカラテは「武道空手」を標榜しております。それは例え、競技として確立された試合であっても厳守しなければならない矜持とも言える大原則です。

試合とは、ふだんの稽古の成果を示す一つの機会です。確かに試合とは、厳正な規則の元に行わなければなりません。それを無視していたのでは、競技は、成り立ちません。

試合後、判定を受けるまで僅差で自分が、勝ったと思っても、それは自分が思っているだけのこと。試合とは、公正な第三者である「見とどけ人」「審判」の手に委ねられているのです。
ですから、その判定に疑問を挟むことを私達は、良しとはしません。(試合規定にも明記されている)
僅差で負けたのなら、それを真摯に受け止め次の稽古や機会に活かせる心根が大切です。
例え、その判定に不満があったとしてもです。
明確な優勢勝ちや一本勝ちでない限り、自分の負けと思えと私は、常に道場生に言い伝えているのも、そこに訳があります。

何故そこまでしなければならないのか?
それは、私達が、やっていることが武道である以上、武道としての「立ち振る舞い」が必須だからに他なりません。

試合中、相手の攻撃が顔面に当たったと審判にアピールする選手(子供たちでさえ…)が、います。あまつさえ、当たったことを、殊更アピールしたいのか、装着しているヘッドギアをとる選手が、おりました。試合最中では、ありましたが、その時私は、激しく叱責しました。
(ヘッドギアを脱ぎ捨てる元気があるなら、そのまま戦えと言いたい)

以前にも書きましたが、私どもの競技において、無論、顔面への殴打は重大な反則行為です。ですが、武道を志している者として叩かれる隙を見せた自分の技量の無さも、思わなければならない。
また、気概としては「ヤられたらやり返す」気概が、なければ闘いそのものに遅れをとることになると常に考え稽古にあたらなければならない。
何故ならば、再度繰り返すが、私達は、武道を志している者なのだからです。

試合前、選手宣誓で「武道精神に則り」とは、正にそのことを指しているのです。

競技である以上、勝ちにはこだわらなければならない。しかし、だからといって、ルールのもと何をやってもいいのとは大きく違う。

武道とは、道が示す通り「長い道程」である。
今日、昨日、勝った負けたなどに何時迄も心を囚われてはならない。
少なくとも十年後、それ以上に自身の「立ち振る舞い」に現れるよう努めなければならない。

特に子供達や選手は、勝ち負けを気にかける。
そして、それを思うあまり、多くが道半ばで道場を離れることが、侭ある。
正しい我慢、辛抱を今少ししてもらいたいと思うのは、私の老婆心からなのか。

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# by katsumi-okuda | 2016-09-30 21:38

自らに問う

忙しさにかまけ中々書けないでいる。

あまり体調の芳しい方ではないが、今年に入って本当にあちこち「壊れかけて」る。

治し治しことに臨むようには、しているが、それなりに深考してしまう。

幸いなことにまだ道場生達と一緒に稽古できることに改めて細やかな幸せを感ずることもある。
時に子供達の喜怒哀楽に振り回されながらも、それが一番大切だとも感ずる。
これも、歳のせいや少し弱くなった身体のせいなのか…そんなことを思うと流石に少し脆弱な自分が、疎ましい。

「二十歳の人達のこれから20年と私達のこれから20年では、全然意味合いが違う。だから、できるだけ元気で楽しいことやそんな人達とお付き合いしたい」と。
私と同年代の道場生の方々とお話したときに出た内容。

私ももちろん、皆納得されてました。
当然ですね。
ある程度年を重ね社会的な役割も果たし終いのことを考える年代ですから。
出来る限りそんな要望に応えられる「場」と「時間」を提供する事を私の一つの目標としています。

それぞれの年代には、各々の役割や立ち位置があると常々感じている。
置かれている立ち位置に抗うわけではなく、健やかに立ち振る舞うことの大事さを実感しております。
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自らに問うこと。
その為に皆さんとの日々の稽古がある。
…夏の終わりの秋波の訪れに夜の稽古も、過ごしやすかろうと、何時しか思う。
# by katsumi-okuda | 2016-08-31 11:32

夏の物想い…まだまだ

猛暑の夏と極寒の冬の道場…
どっちが、いいか?

稽古終わり、戸を開け放ち外の空気を虫の声と共に入れ道場の板場に一時大の字になっていると、やはり夏がいいかなと勝手に思う。

以前にも書いたが、やはり、昔より今の方が夏場は、過ごしにくいのではと思う。

だから、稽古も決して無理せず、させずになってきた。子供達もだが、私達のような年長者も、注意が必要になってきたのは、致し方ない。

「先を見据えて、一年、三年、いや十年後の自分の為に」今の稽古、そして、生活がある。
それをこの酷暑の中実感もする。

…しかし、だからなのか、思うことがある。

何の為に、どうして続けているのかと問われることがある。
その返答に「まだわからないことがある。それを知りたくて、ここまで来たのに止めるのもどうかと思うから」などと言ってるが…

強ち間違いでもない。

武道歴だけで四半世紀をとうに越したのに、やればやるだけわからないことも出てくる。
それと同時に少しは、自分の体が知れるようにもなってきた。

六十過ぎたら武道は、面白いと先人の諸先生方は、仰られた。

確かに言えてるが…

さてさて、今年の夏も、どうにか無事に鍛えていけそうかなぁと一頻り思う。

この身体、これからも根を上げさせずにやらねば…

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# by katsumi-okuda | 2016-08-07 07:28

合宿後記…それぞれの意味

夏本番前に夏合宿が、終わりました。

毎年恒例ですので…大体の形は決まっているのですが、参加した人達、特に子供達の目的は、さまざまな「経験」にあります。

新しい型や組手の動きを学ぶことが、先ずは第一にあるでしょうが、それよりも大切なことがあります。

それは、親元を離れ、年の違うみんなと一緒に「生活」をするということです。
楽しいこともありますが、自分にとって嫌なことも、多々あります。それが、みんなと一緒に動かなくてはならない「団体行動」の一つなどが、そうです。また、我を抑え相手に寄り添うことも大切なことの一つです。

身内だけなら自分のワガママも、ある程度許されることも、他人と一緒の場合、中々そうもいきません。それを普段の生活の中で体験する。
それが、他人と寝食を共にする「合宿」の大きな「目的」だと私は、考えています。

ですから、少しの諍いなどは、当然あります。
それをどのように受け止め自身の中で消化していくか。それを学ぶことが、子供達にとってとても大切なことだと考えています。

ふだんの生活や考え方や感じ方、それらは必ず自身の全てに現れてくるものです。

ふだんから他人に「合わせられない」者が、どうして激しい組手の最中、相手に合わせることが、出来るでしょうか?出来るはずが、ありません。

相手のあることとは、何もカラテ、組手に限ったことではありませんが…
例えば、いつも力任せの組手だけで相手に勝てるほど競い合いとは、甘くありません。

相手の強弱や気持ち、心を読む。
つまりは、相手を「思い遣る」ということでも、ありましょう。

それを、ふだんの生活から学ぶこと以上に合宿などの特別な環境の中で体験そして学ぶことの大事さを感じてもらう。
それが、私たちの「合宿」の本来の意味なのです。多くを経験体験するとは、そういうことです。
どんなことでもそうですが、特に子供達にとって何事も全て「貴重な時間」であり「学び」なのです。
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# by katsumi-okuda | 2016-07-19 20:04

心を遣う。

私と師範代の付き合いは、旧い。

彼此、三十年以上…その間、お互い「ガチ」で組手をやったのは、それこそ数えるほどしかない。

今ほど確かに防具や稽古体制が!整っていなかったとはいえ、稀有である。
ただ、当初から「みんなに怪我をさせたくない」との考えから「当てない組手」「速さは試合並、チカラは五分以下」「相手に当たるかどうかの間合いの中で」等…様々な「組手の稽古体制」を模索していた。

そして、その相手が、いつも側にいた師範代であった。だから、いまでもそうだが、阿吽の呼吸の中で互いに技の精度を上げていることに勤しんでいたのである。

ただ、それだけを磨いた。
その結果、後から続く後輩(全日本に出ようという選手たち)に彼は、一切遅れをとることを知らない。いくら現代的なトレーニングやらスパーリングやらを彼等が、やっていても、である。

何がどう違うのか?

「相手に合わせる」
相手が、例え蛮勇をふるっても、それを諌める心の「しなやかさ」と「ゆとり」がなくてはならない。道場の中で出来ないことが、何故、実戦や試合で出来ようか?
否、決して出来るものではない。

相手が、子供なら女性なら、そして、一般の選手が相手なら…全て変えて当然。

なのに時として何故それに至らないのか?
「つい熱くなって…。難しいですねえ…」
などと言う者がいるが、ハッキリ言って失格である。難しいのは、ハナから分かりきってること。

例え、相手に反則である顔を殴られたとしてもである。顔を殴られるのは、単に「自分が未熟」なだけで自らのその未熟さを知らねばならない。

ルールだから、相手が反則を犯したから⁈
だから報復していいのか⁈
自分の未熟さや本能に負け、手足を振り回しているのなら、今すぐやめたほうがいい。
ふだんの稽古鍛錬で何も学んでないことになる。
相手が自分より格下なら尚のことである。

相手が10でくるなら精々三程度でかわせなくてどうすると強く言いたい。10でくるから10で返せば、相手は、それ以上になるかもしれない。
そんな「力比べ」に何の意味がある。

そんなことをやっていては永遠に「大きくて強い相手」に勝てるはずもない。
相手を制するに等しい体力、力量を日々備えること。そしてその上で相手を推し量る「ココロ」を養うことを常に意識し稽古鍛錬せねばならない。
特に上級者、指導に携わる者は、必須である。

何をするにせよ、頭を遣い、そして「ココロ」を遣うことを常に意識しなければ私たちのやっていることは、武の道にならないと強く思う。
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# by katsumi-okuda | 2016-07-10 07:44

頭を使うこと

「型をやるには、まず何も考えずに出来るまでやること。それが出来るようになったら、今度は、色々と考えて、そして感じながらやること。出来るようになったからと言って、気を抜いたり疎かにするようではいけない。」

子供の頃に言われたことを今でも、稽古の不文律としております。
そして、それを特に子供達に伝えております。

子供達は、大体どんなことでも特に興味があれば大人の何倍ものはやさで物事を習得していきます。型の手順だけ覚えて無邪気に喜んでいるのは、微笑ましいですが、それで良しとしてはいけないことを絶えず言い伝えております。

簡単に出来てしまったことは、存外簡単に忘れたり惰性で流され、やってしまいがちです。

自転車に乗れるようになるまで、あんなに苦労したのに乗れるようになり楽しくなっていくと注意が、散漫になり転んで怪我をしてしまう、そんなことは普段の生活の中で沢山あるものです。

ですから、いつも私は言います。
「これは何もカラテだけに限ることではない。この頭と身体で全部やってるんだから、どんなことでも、いつでも、そうしなければならない。」

何も考えずに言われたまま、やってるようでは決して、進化も成果も出るものではない。

何も考えず稽古鍛錬してるものに大きな深化変化は、見られない。
ただ言われるがまま、目の前にある物事をこなすだけで本当の強さも巧さも、うまれるものではない。

だから上級者、そして指導に携わる者は、例えば組手の稽古の時、相手のことを考えてやることが第一。相手の巧さ強さを引き出してあげられる「相手に合わせた組手」が出来なくてはならない。しかし、だからと言って、ただ軽くダラダラやったり、突っ立てるだけの組手の相手(特に子供達や女性、壮年の方々に対し)になっては、ならない。

子供の早さに合わせて、こちらもそれ以上に動く。女性や壮年の方々の間や柔らかさに添う。

稽古で様々なことに対応出来ない者に大成した者は、いない。稽古で出来ないことが試合や実戦で出来るはずが、ない。

頭を使うとは、そういうこと。
上級者や指導に携わる者は四六時中そのことに腐心しなくてはならない。
それが、出来ない者は上級者でも指導者でもないと常に私は、言う。

加えて自らが、道場生の規範であるなら道場生のそれをいつでも凌駕していなければならない。
決して口先ばかりの者に成り下がってはならない。
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# by katsumi-okuda | 2016-07-05 19:47

一言申し述べたい

「…まただ」
この時期(選挙)になると、何がしかの会合や集まりの折、その話になることが、ままある。

大抵、分別と常識を心得ておられる方々ならば、あまり明らさまな話は、しないしならない。

無論、個人の主義主張は当然あって然るべきだし、侵すことのない権利だとは承知している。
しかし、それも「場と自身の立場」を鑑みて貰いたいと常に思う。

例えば、そんな政治的なことに何の関係もない会合や楽しい集まりの折に酔歌の果てなのか何なのか、唐突にそれこそ「議論」を吹っかけられることが、ある。
大抵は、笑ってごまかすが、どうにもならない時や腹に据えかねた時は、相手を論破する。

例えば、私達のような市井の「指導者」「教育者」は、人に何がしかのことを伝えることを生業としている。
その為に私達の言動は、少なからず「影響」があることを常に意識しなければならない。
時に私は「私塾の先生」であり、時に「地方の一道場主」そして「武道団体の関係者」である。

その私の何気無い、それも「本業に関係のない」言動が、多くを揺るがしたりすることを厳に慎み意識しなければならないと考えている。

例えば、本業の「武道」「カラテ」のことに関してなら私は、夜を徹してでも話す。その理由の一つは、その普及であり研究研鑽であるからに他ならない。武道を志した者の心得は、四六時中そのことに腐心し探求して止まぬことと考えて久しい。

確かに個人として世の中の様々な事を思うことは、当然ある。
しかし、それを発信していい「場と常識」はなければならないと常に意識している。こんな私の意見でも、少なからず影響があるとしたら…いや誤解されたり誇張され正しく自身の考えていることが、伝わらなかったとしたら…こんな嫌なことはないし私の思う武の道では到底ない。

どんな人たちでも、社会人であれば一定の「立場」を有する。例えば、学校の先生、お医者さん、会社員の方々、農家の皆さん…
そのどれもが、一人で成り立つものではなく他者との交わりや「団体」としての意思の元活動をしているはずである。その枠組みにいる限り、その中の「流れ」を完全に無視することは、出来ない。

なのに団体としての「私」を忘れ、個人として発言したいから発言する「たった一人の我儘」から団体全体が、まるで世間からそうであるかのように見られてしまう危うさを私たちは、忘れてはならない。私たちが、まだ「若手」ならそれも許されよう。しかし、立場ある年代になったら、そうもいかない事を考えて然るべきではなかろうか。

あまり特に政治的なことは、述べたくはない。
何故なら、ここは私の武道、そして稽古鍛錬の日常や考えを書き留めるところだから。

歳のせいもあるが、そのような臭いのある「人達」が、いる所は、今後立ち寄らないし出向かない事を宣する。たとえ、それが重要な宴であろうが何であろうがである。
折角、楽しい集まりなのに、そして私を呼んでくれた主催者に申し訳がない…何故なら、私は、そんな方々が、正直疎ましく言動に出てしまう為に。
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# by katsumi-okuda | 2016-07-03 07:05