武道カラテ稽古日記

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武道と格闘技の狭間にて

「極真空手の武道性と格闘技性」
 今の社会にあって武道とは、何でしょうか。
現代にあって武道とは、それを行う人の心の持ちようによってさまざまな様相を呈していると思われ、それぞれのものの考え方は、自由であり、その意味ではいろいろあっても、それこそ個人の自由でありそれぞれに尊重出来るものだとは思います。
 ですが、何かしらの勘違いをして我こそ最強と言うのはどうかと思います。私見ですが、私は、武道をもって強い弱いを論ずるのではなく何をどのように考え日々の生活も含め生きているかではないかと考えております。現代社会にあって古来から伝わる闘争の術は、自らを律する一つの手段として機能し人々に息づいていると思います。武道・武士道としての考えや思いは、私達日本人に脈々と受け継がれ、今だからこそ見直され始めているのではないかとも実感しております。
 極真空手は、創始者大山倍達が、世に受け入れられようと(このルールでなかったら体育館始めいろいろな許可がおりなかった)今のルールを創作したことが、幸いし見事に競技として大輪の華を咲かせたと考えます。その意味では、以前も書きましたが、総裁も武道としてこれで良しとは、決して考えてはおられなかったのが、実際です。
 極真空手を始めとする実戦・フルコンタクト系に関して、その好き嫌いは大きく別れるところだと感じています。実際に相手と打突を繰り返すことにその意味を求める私達にとって同じ空手である伝統派を始めとし、さまざまな武道を学ぶこと、そしてその意味を知ることは、自分達のそれを大きく昇華出来る糧となると確信しています。批難することは簡単です。それよりも一つでも多くのことを吸収しようという姿勢だけは、忘れてはならないものだと考えております。
# by katsumi-okuda | 2004-12-06 15:47 | 評論

何故に嵐の一般特別合宿…

 12月4,5日筑波山での一般特別合宿に行ってきました。
それぞれの各道場から主に上級者と指導者のための合宿をやってきました。春にやった時は、快晴で全ての日程をこなせたのですが…。何故に今回、ずっと快晴続きだった秋晴れが一転!!台風崩れの嵐!!!。…誰が、嵐を連れてきたんだ。予定していた5日早朝稽古が、出来ず仕舞い。まして、ずっと嵐なら諦めもつくが、仕方なく帰りの支度をし始めた時、かっ快晴になる!!??あーっ腹が立つ!!!
 でも、前日短時間では、ありましたが、有意義な稽古がこなせた感じがありましたが、参加された皆はどうだったか…。結局、夕食は、忘年会の様相を呈し、その後TVでのKー1を魚にあーでもないこーでもないとダラダラと酒を酌み交わす組とすぐさま睡眠を得る組になり、いつもながら何か仲間といる愉しみに満ちた一時を過ごしました。範を示さなくてはならない立場なのですが、この時ばかりは御勘弁下さい。
 結局、私も含め3〜5人は、明け方まで飲み続けました。(ちなみにいつものことですが、私は、年のせいかあまり寝ないで済みますので、今回も殆ど寝ずに早朝稽古の時を迎えましたが…)
 次回も同じ仲間そして新しい仲間とやりたいと願っています。
各道場の皆さん、何かと大変でしょうが共に頑張りましょう。(今回は私的なコメントです。)
# by katsumi-okuda | 2004-12-05 12:21 | 稽古日誌

指導者心得その二

 私の道場に小5の男の子が、います。1年生から始めて現在1級。さまざまな大会にて多くの入賞経験を果たしています。その稽古姿勢は、愚直そのもの。私の言う通り一切手を抜くことなく始めから終わりまで全力で取り組みます。その大部分の稽古は、他の皆と同じ一般稽古です。取り立てて体格に恵まれているわけでもない彼は、この稽古だけで中学生と同等に組手で渡り合えます。
 又、一般部でも30代〜40代の経験年数1年未満の方々が、各大会で入賞を果たしています。この方々も一般稽古以上のことはやっていません。
 この二つの事例は、私達道場の指導法などの確からしさを証明してくれた一例と確信しております。稽古において大切なことは何でしょうか。それは指導する側とされる側の「意識」ではないでしょうか。
 身体をほぐす程度にしか考えない基本(移動・型も含む)と全てに意味を考え意識してやっているそれらの間に身体は、大きな変化を見せてくれます。たとえ稽古に参加出来なくとも考えられる時に姿勢や呼吸を意識することの大切さを知るべきです。
「立つこと歩く姿が、武道の源」とは古今の武道書にあることです。姿勢とは、その姿の勢いと書きます。全ての武芸・舞踏の高名な先生方のふだんの姿勢の美しさは、その強さの現れとも言えます。スポーツの世界でもトップアスリートのその動作は、紛れもなく美しく、そして強い。それを基本の最中から無意識に出来るまで繰り返すことこそ一つの基本の意味があり、それを教える側と教わる側が正しく意識して取り組まなければならないことだと考えます。
 無論、効率的な運動方法を古今を問わず、たえず稽古に取り組むことも大切な要素です。各界の一流と呼ばれる選手たちは、この「意識すること」と「合理的・柔軟な練習」を自身を客観視しながら取り入れているのです。
 人は、いろいろです。日によっては体調や気分のすぐれない時も当然あります。その日の様子に意識を合わせ稽古をおこなってこそ上達の早道と考えます。
「理から入る稽古は上達早し」とは江戸の剣豪千葉周作の言葉であり、後の一門から多くの剣豪を輩出していることからその正しさの意味を私達は、知るべきです。
# by katsumi-okuda | 2004-12-03 14:29 | 稽古日誌

指導者心得

 私は元々予備校や私塾での講師・塾長を勤めていた関係上、教えたことに対する対価という意識、幾ばくかのお金でも頂いている以上それに見合う指導は、必ずすべきだという考えをもって現在に至っています。これは何も私達だけではなく世の全ての職種の方々に共通した認識だと思いますが、師弟関係が色濃く残る武道の世界では少々事情が違うことがあります。悪いとは言いませんが、先生に用がある時等先生の替わりとして高弟が、それ以下の弟子を指導するという図式は、時として弊害を生んできました。それは、道場を運営する側とそこに通う側の意識の違いにほかならず、どれだけ先生の考えが、全員に行き渡っているかにかかるように思われます。
 私は、上級者に「指導出来てこその上級者」ということを少年部始め全員に浸透させています。上級者は、指導することによって自分の技術の確からしさの確認は、勿論のこと、人としていろいろなタイプの人と関わり自身の人格を磨くことが、出来ると考えています。それこそ「尊敬・慈愛そして涵養の精神」なのです。
 かく言う私もそのことに気付くまで多くの失敗を繰り返しました。
人は、さまざまです。生理的に嫌な人もいないではありません。それでも何かしらを求めて縁があり、私と知り合ったなら私は、前述の通り精一杯の指導に心を砕きます。機会あって指導する立場を与えられることは、世の中でそうあることではありません。この絶好の機会を活かし自分を磨くことこそ武道で言う「体格で勝ちを取ることを始めとし次は、技で負けぬことを目指し、至高は人格・心格で相手を内包し優劣を競わず戦いを収めること」なのではないかと考えています。
 ですから私は、余程の事情がない限り立ち会える全ての指導には、すべて私自身が行っています。指導者として実力の伴う限り現場には立ち続けるつもりでいます。
但し、自分の体力や指導に知らず欠点が出た時は、潔く後継者に全てを委ねる覚悟も出来てはいます。
 ちなみに私の稽古は、きつく厳しくもありますが、楽しくもあるよう努めています。なぜならそれこそが、全員を強くしようという指導方針であり、運営理念だからなのです。ためになる次に繋ぎたくなるような稽古をすることによって人数の確保や人材の育成等が、最適な形で確実に行われるものと信じています。派手な宣伝や「お客様」としての道場生確保・維持を行うことなく、真に道場としての体制を整えていける現状を大変でも実りあるものと受け止めて日々精進しています。
# by katsumi-okuda | 2004-12-02 16:19 | 評論

道場今昔…

 私が、極真会館総本部に通っていた頃、今とは何から何まで違っていました。
今から30年以上昔でしたから無理もないですが、蹴り一つとっても今とは比べものにならない程でしたし、稽古内外の道場の雰囲気は一種殺伐としたものでした。当時は、武道なんだから仕方ないと考えていましたが、それでも理不尽なイジメにも似た組手さえ存在しました。特に指導する側の意に沿わない者や気に喰わない者は、徹底的にやられました。まして入門して右も左も分からない者までも…。
 弁護するつもりはないですが、自分も若い頃指導していて人の話を聞いていない者やだらだらとしている者は、組手で分からせていました。つまり「潰して」いました。それが、まかり通る世界だったことは事実です。そのうち道場内では派閥めいたものまでが、存在していました。やったやられたは、試合に限らず日常のこととして行われていたことに私は、嫌気を差し、暫く本部とは距離を置いていました。
この派閥や人の好き嫌いこそが、今の分裂を招いたと言っても過言ではありません。
 人との交わりを多くすればそのようなことは、自然に生まれてくる事実は、今も大差はないと思います。ですが、現在では、かなりそのようなことも影を潜めている感は、あります。
 現在の一部の道場が「ビジネス化」「金儲け主義」になっているという声を聞きます。確かに事実でしょうし憂うべきことです。これは、道場で生計を立てようとした時点から生じた負の事実です。ですが、真に武道を世に知らしめようと日々努め、入門した者ひとり残さず何らかの成果を出してあげようとして運営に苦労している諸先生方も多くいることを忘れてはなりません。現在は、よく多様化の時代とも言われます。その中にあって新しい道場運営や指導方針は日々更新されています。
 次回、僭越ですが、私の指導方針とその実際を述べたいと考えます。
# by katsumi-okuda | 2004-12-02 15:12 | 稽古日誌

合気道大演武会に行ってきました。

 28日(日)合気道大演武会に行ってきました。
合気ニュース30週年記念ということもあり、演武会も合気道・柔術・居合・空手の各界から第一人者の大先生方が、参加され、なかなかの見ごたえではありました。
 どの先生方もご高齢であるにもかかわらず、その演武の確からしさと技の流麗さには、同じ武道を歩む者として大いに学ぶべきものが、ありました。世間では、その先生方の技を見て、実戦では通用しない等などと見当違いも甚だしいことを論ずる輩もおります。私は、少なくともその年令まで武道をやり続けられている諸先生の姿勢を貴くも感じ、私もそうありたいものだと深く感銘した次第です。
 諸先生方の演武には私の考えている理と全く同質のものを感じたことに感銘と嬉しさを感じました。攻めてとの同調、自身のバランスの取り方そして身体の動かし方等やはり武道の根源は同質なのだと確信しました。どの先生方も、そこに至までやはり「基本動作」の重要性を説いておられたのは、とても印象的でした。わたしは、この先生方の「理」と「技」を自身の空手に融合・反影させていくことに確信を持てたことが大きな収穫であり、まだまだ多くのことをさまざまな分野の方々から学ばなくてはならないと思いました。
 会場800人近くいる中で、やはりどうやら「私」は場違いな雰囲気を醸し出していたらしく反省しきりです。普通のつもりでしたし、気にもしていなかったのですが、大層目立っていたように後で知人に言われてしまいました。もっと普通にしなくてはならないようです。(さてどうしたものか…)
# by katsumi-okuda | 2004-12-01 15:45 | 格闘技イベント

大会後記;極真館全日本

 先日23日に極真館さんの全日本に御招待を受け、行って参りました。
自分も以前大会運営に携わっていましたので、全体の流れや判定に目が向きがちになりました。判定に関しては、老舗の道場が多くある団体だけに審判の練度が、高く大変好感が、持てました。変な「判官びいき」もなくクリーンな試合進行が多かったのが、印象的でした。ここまで年数が経てそれぞれの派閥・団体のカラーが、出て来ると逆に「極真空手」そのものの進化をそれぞれが追求しているようにも思え、それはそれで現状いいのではないかと感じる今日この頃です。
 試合では、ここでもロシア系選手の強さが、目を引きました。一つ一つの攻撃のインパクト、スピード、ダイナミックさどれをとっても一つの理想型を見る思いでした。 1位から4位まで二人のロシア系選手が入賞。今後、試合の駆け引き等の経験を積まれると大変恐い存在になると感じました。
 では、私達日本人もあのような戦い方が、出ないものなのでしょうか。体格や民族性の違いに逃げるのではなく、今一度考え直し精進したいと考えさせられた大会でした。ちなみに会場「さいたまスーパーアリーナ」は、私の地元からアクセスが、良く楽でした。遠い会場は、選手も応援も大変ですから…。
# by katsumi-okuda | 2004-11-25 14:02 | 格闘技イベント

今時の人達…

 やっと道場の演武月間が終わった。みんなさして怪我もなく無事終了。何よりです。ここのところ何時も感じることがあります。演武終了後、幾人かの方々(演武を見学してくれた人達)から感想やら質問等を頂くことがあります。それはそれで有り難いのですが話し掛け方が、いかにも不自然な人達が、多く違和感を感じていました。
 それは、少し前まであった「常識としての礼儀」を忘れている、叉は知らないのではないかと感じるからなのです。些細なことなのですが、老いも若きもなのです。何の前触れもなくいきなり馴れ馴れしく話し掛けてきたり、人の身体に触れだしたり等
 少々困惑している今日この頃です。
私の道場は、常識的ですし閉鎖的ではありません。他流派の方々でも、きちんと常識としての礼儀をもって接して頂ければ、見学でも場合によっては技術交流もしています。それなのにわざとそのことを隠して偵察のようなことを平気でやってくる人も中にはいたりします。正直言って武道家というより一人の社会人としての質を疑ってしまいます。まして相手を後で誹謗中傷しようという人達にいたっては、かける言葉も見つかりません。他人のフリを見て何とやらですし、まして考えたこともありませんが、弟子達にはよく常識として伝えたいと思う一月でした。
# by katsumi-okuda | 2004-11-21 11:03 | 稽古日誌

極真カラテ・強さとは「続けられること」と「思い」

「強くなる人とは、どんな人ですか。」よくこんな質問をされます。
私も幾人もの人達と稽古をし、多くの弟子を育ててきましたが、解答は一つです。
 それは、「続けられる」ことです。
今までどんなに才能があろうと稽古が、一定しなかった、続かなかった者に大成した者は決して存在しません。また、過去どんな名選手であろうと日々の鍛練を怠り、摂生に努めなければ、選手時代の損傷も一因し、その心身は見る影もなく衰退する。
 これは、若い時に選手としての高いポテンシャルを維持・強化しようと激しい環境に身体をさらし続けた結果とも言え、ある種の「燃え尽き」なのかもしれません。
 ですが、世の中には引退後も日々淡々と稽古を続け、なお「強さ」を維持している方々も少数ではありますが、存在することを理解しなくてはなりません。
 才能や資質が、あるにこしたことはありませんが、さして重要ではありません。
大切なのは「続ける」ことであり続けようと言う意志と初心の頃に思い描いていた「思い」。強くなりたいと言う「思い」をわずかでも持ち続け、自分を導き「続けられる」「続けることが出来る」という自信を持つことなのです。もちろん継続するための環境を整えるための周りの協力や的確な稽古を共にやっていける仲間の存在も忘れてはなりません。
 繰り返しになりますが、ただ稽古を続ければいいというものでも決してありません。精神論だけで強くなるわけでは、ありません。どこをどのように今日は、鍛えるのか、どんな技を自分のモノとしていけるか、それこそ日々考え続け、悩み続け、そして身体を鍛え続けることにこそ、この大きな命題に対するその時々の答えが、見え隠れするのです。稽古をやる人の年数やレベルの差は、あるにせよ、そうすることで必ずその人なりの成果を見ることが出来ます。
 たとえ週一いや月に一回の稽古しか出来なくとも続けてみることです。続けていくことで新たな「強さ」も見出せるはずです。
# by katsumi-okuda | 2004-11-19 15:19 | 評論

極真カラテ・適正な体力を手にするために

 フルコンタクト系空手では、俗に言う「体力」は必要です。
ですが、その人の年令・資質にあったモノを手にすべきではないでしょうか。行き過ぎた体力の向上には「年令」という限界が、あります。その人の年令や資質に応じた体力は、絶対条件なのですが、必要以上につけられた体力の維持・管理には自身の意志を保つ意味での限界が生じやすく生理的にも損傷をきたしやすいとも言えます。
 では、そのための体力を強化するためには何を元にするかです。
これは、生前大山総裁が、しきりに言っていた「自力本願」に起因します。出来る身体と資質そして環境(特に専門のコーチの存在)があれば、私もウェイトトレーニングは、否定しませんし大いに活用すべきだと考えています。ただ、私達は、人と相対しての打突を主としての筋肉や体力が、欲しいわけですから、「補強」に代表される自重をいかした拳立て・スクワット等のほうが、理に叶っていると言えます。素早い拳立て(ちなみに初動筋の強化)は、突きのスピードのそれに等しく、ゆっくりと行う腕立ては、筋肥大や持久力を促します。(細かいトレーニング方法は、いずれ公開)
 特に身体と言うのは、自身の意志や「思い」を反影させやすいものなのです。
例えば、腕をこうしてみよう。こんなふうに動かしてみようと意識するとしないとでは、その強さの度合いに歴然とした差が生じます。つまり、身体を動かそうという行為にあって、その意志の重要性を認識すべきであり、やれる時はやれるだけ「懸命」にやることが、大切なのです。ただし、その場合その時々の自分の身体状況を客観的に把握することが大切です。日々、心身の調子は違います。無理が出来ない時などは決して無理をせず、丁寧に行うことも忘れてはなりません。決して無理をして回数や強度を上げてはいけません。それでは続かないのです。この体力強化には、もうひとつ「続ける」という大きな要因が含まれているのですから。
# by katsumi-okuda | 2004-11-12 14:34 | 評論