人気ブログランキング | 話題のタグを見る

武道カラテ稽古日記

ブログトップ

カラテイベント…伝えることの難しさと大切さ

 昨日、土曜日、順延になった地元大型ショッピングモールでの「カラテイベント」をほぼ一日行った。土曜ということもあり、コチラ側「演者」等が、大幅に変更を余儀なくされてしまった。
各県から応援を頂く予定だった師範・諸先生方、そして一般道場生もほとんど来れず…。
それでも、集った高校生たちと唯一「音響」として途中まで参加協力してくれたO指導員とケント指導員と本部女性部の皆さん、本当にご苦労様でした。そして、感謝です!!

 TX柏の葉駅に隣接する「ららぽーと柏の葉」が今回の舞台。
駅からエスカレーターをのぼり入口隣、屋上まで続く吹き抜けの大きなスペースの「ホール」
午前中、車で搬入口から荷物を運び込み用意を始める。
すでに「代理店」の皆さんも準備を始められていた。
何となくテンションも上がってくるが、同時に少し脚裏古傷が気にかかり始める。

 ほどなく少年部も集り始める。
一部は「少年部」中心でその稽古の意味や団体の説明に終始する。
整列する子供たちの顔も…やはり緊張しているようだった。
こういう機会は、試合と同じように大切な機会。
やはり、今後もより多く設けたいと思った。

いつもより時間的な余裕があるため、一つ一つの説明に時間を割いてみたのが今回の特徴となった。
実は、ここ「ららぽーと柏の葉」で早ければ二三ヶ月後に「新しいクラス」を「二つ」設けられることになる予定。そのためにも、少しでも理解を深めてもらえればと思ったので…

 吹き抜けのため二階のお客さんにもある程度はアピールできるかな等と思いながらの小一時間でした。最後の試し割りでは、多少難儀した子もいたようだが、いい経験でしたね。
終わってこどもたちなりに「ほっと」した表情が、とても印象的でした。

「大変MC慣れてますねぇ。何かやっておられるんですか!?」
ここの代理店Dさんに尋ねられてしまいました。
「全然、緊張なされてないし、わかりやすいし…」
お世辞でも大変嬉しいです。
…もとも、話すのが「仕事」ですからねぇ。
でも、密かに緊張はしていたようで「喉がカラカラ」になりました。
慣れないマイクを装着しての話しは、どうだったかは同行した「娘」に聞きながら調整しました。
「娘」は今年、高校生となり子供たち特に女の子たちの「お世話係」と私の「補佐」でしたが、豆によく動いてくれました…当然…いずれ「この借り」は何らかの形で返さねばならないのですが…。

 一部ではOちゃんに頼んだ「洋楽」とのコラボ。
…初めてにしては上出来だと感じましたが、なにせ「合わせる時間」が足らなかったのは悔やまれますが、今後の課題としたいと思いました。
そのあと、夕方から仕事に行かねばならないと惜しくも帰らねばならなかったのが残念!!

 二部は、本部女性部と中高校生とケント指導員そして私の演武で取りまとめることとした。
それと特にこういう構成もあり、武道の健康に関する効用を多くお話しさせてもらった。
ここで新しく開くクラスも、特に中高年の方々の健康を目的としたもの。
そこに重点をおいたものにしたが、さて、どのくらい伝わったか…。

 全てが終わったのが夕方五時近く…ほぼ一日がかりだった。
流石に「足にきた」…違和感の古傷、見事に復活(小さな肉離れ…)
しかし、まずは好評だったし怪我もなくて何より。
…いつものことですが、私の手元に「写真」等はありません…当然というか何と言うか…
ということで、もし何方か「写真・映像」ありましたら寄せて頂けたら幸いなのですが…
よろしくお願いします。

 二部からわざわざ取材にこられた「月刊フルコンタクトカラテ」のUさん。
そして、松戸のY先生、本当に有り難うございました。
また、最後までご観覧頂きましたご父兄、関係者の皆様本当にご苦労様でした。

 これから、ここでクラスをやっていくようになれば、またこのような機会も増えることを願っていますし、そうなれるよう努めたいと思っています。
何にせよ「宣伝・広報」だと本当につくづく思っておりますので、この機会を通じて関係者の皆様にも重ねて「宣伝」のほどお願い致したいと思っております。

…流石に…今頃になって
疲れてます。
カラテイベント…伝えることの難しさと大切さ_a0026020_143086.jpg

# by katsumi-okuda | 2013-04-15 01:04 | 格闘技イベント

再考…極真空手における型の意味合いとこれから

 ここ数年、試合・大会ごとに再考が問われている「型競技」に関することについて私見として再度
述べておきたいと思う。

 はじめに型の競技をするなら少なくとも「誰もが納得出来るような」例えば「数値・点数化」された採点法が、その団体津々浦々に伝わっていなければならない。
型は、体操やフィギュアスケート・シンクロに代表される「技術点」と「芸術点」などによって競い合う試合であることは、否めない。
 そのため「明確な」点数化は、当然と言えば当然。
いつまでも、審判の「主観」に頼るような「曖昧・感情論的」な評価は、ただ悪戯に競技そして技術の歪曲化と混乱を招くだけであると推察出来る。


 私が若い頃、今から四十年程以前、極真会館総本部で型を満足に稽古した覚えはない。
審査が近いから「型もやっておくか」「知ってる先輩から習っておけ」というのが、当たり前の時代。何故こんなことが、普通にあったのかと言えば、とりもなおさず「組手が強ければ話しにならない」「型をやっていても組手や大会に勝てない」といった当時の思想、潮流がそれを押し進めていたのである。
 旧来の型からなる「組手」と一線を画した極真空手は、当時「ケンカ空手」と同じ空手の世界から異端視、揶揄されていた。
しかし、当時の極真空手は、進出に富みどうすれば人は倒せるか、どうすればそれらを競技化していけるかという簡単で難しい命題に直面していた。また、そうしなければ「極真」とは何をもって「極真」なのかということを世に知らしめなければならない時代とその背景が端然とあった。

 そのため旧来の組手スタイル(伝統派)から少しずつ逸脱・乖離し、新しい「カラテ」を築き上げるに至った。そして、その組手スタイルは、競技化が進むにつれ日進月歩の勢いで進化・発展していった。ただ、そのスタイルは、当然旧来の「伝統的な組手」つまり「型」からなったであろう一つの形からの離別でもあったのは当然の帰結である。

 時代は移り、創始者亡き後、各団体は自身のアイデンティティを鼓舞する意味合いと特に少年部の競技人口の増大と競技の多様性を求め「型競技」の選定と指導に重きをおくようになった。
しかし、今まで組手に特化した団体が、型競技そしてそのための指導にスムースに移行出来るはずもないのは周知の事実であり、それを急ぐあまり指導する側や大会を主催する者は、さまざまな問題に行き当たることとなった。

 型を教える先生や団体、そして型を教わった年代によって、その仔細が、変化してしまう。
これが現代の極真空手の現状でもある。
伝統派の世界からしたら笑われてしまう問題が、そこに横たわっている。
何故なら、未だ型の競技に至る時間(指導する側も含め)が足りなすぎるからに他ならない。
伝統派は、少なくとも明治以来型の研鑽に勤め、今でもその稽古の大部分を型稽古に費やしている。
翻って私たち極真は、型稽古に目覚めよく稽古した者でも、ここ良くても十年程ではないだろうか。
 無論、時間が長ければいいという問題ではない。
しかし、それに費やした時間と研鑽は無駄ではなかろう。
一つの型を団体で「すりあわせて」いくことだけでも、容易なことではない。
まして、それを持って競技化していこうというためには、合理的な研究が、多くなされたに難くない。

 それでも、型競技を進めていこうというのであれば、それなりの研鑽はあって当然。
また、その合理的な競技・採点法がなければ、ならないはずである。
まだ稚拙・発展段階とも言える我々の型を真に「極真の型」と言えるまでにするには、それら避けては通れない道理があろうと考ている。

 現在、我々が競技で行っている「型」の大部分が伝統派のそれに追従している。
それ自体どうのではないが、どうも勘違いしている人たちがいるので一考したい。
例えば、平安・ゲキサイ・セイエンチン・サイハ(その他の型は、アレンジが強過ぎ、ここでは再考からは除く)などは、伝統派から言わせれば「初級の型」もっと有り体に言えば当時の中学生や初心者にカラテの抑揚を知らしめるための「基本型」に他ならない。
よって、難しい解釈は一先ずおくことにしていたと伝え聞く。

 そして、その型の出来、不出来は「正しい順番」を覚え、「正しい形」が出来ているかによった。
つまり、技の強弱はいいとしても「緩急」や「居着き」「実戦性」は求められていなかった。
何故なら「どうして初心者に緩急が、わかります!?ただの速いと遅いだけになってしまう。居着いているってどんなことを言うの!?いや、何秒そこに止まってたらいけないのなどと聞かれてしまいますし、それらを体現するのなら、もっと稽古しなければ…」…これは、若い頃、伝統派の重鎮と言われた先生から言われた言葉である。それでも、それらの型を良くすることによって得られる効用も、私は聞いているし、今でもそのつもりで、それら「初級」の型の稽古を疎かにするつもりは毛頭ない。

 型の「表現力」とは、悪くすると「見栄え」の良さにすり替わるものである。
見た目、格好よければいいとなれば、少なくとも「舞踏」の心得のあるほうが有利になってしまう、それこそ笑えない現実がある。
そして、それを評価する我々も、いつまでも、それら「主観」に甘えていると大切なモノを見誤ることになることを自戒して止まない。
 どうしても、それらに「実戦性」と「表現力」を問うならば、我々こそが稽古し続けなければならないはずである。そして、一つの型の動作から「実戦性」が汲み取れる指導とそのカリキュラムがなければならない。

 人は、闇雲に力一杯叩いても倒れるものではない。だから、人との呼吸の狭間を縫う「緩急」「強弱」そして「技の正確性」が必要なのである。
曲がった手首やぬるい握りからなる正拳で、実際人など倒せるはずもなかろう。
曲がった指先(抜き手)で人など制することなど出来るはずがない。
正しい体重移動のない突きや蹴り、技と技の切れ目のスムースさのない動きに人を翻弄する組手は体現出来るはずもない。
数え上げれば切りがない…。

つまり、その型に、どんな型であろうと「実戦性」を求めるのであれば、少なくともまずは「実戦の基本」となる「要諦」を満たしているかどうかではないだろうか。

例えば、よく組手でも「前に出した手を開いて構える」人たちがいる。
そのこと自体、間違いではないが、知っていてもらいたいことがある。
その構えは、相手を掴み引き回し技をかけてよかった昔の構えであるということを。
つまり、それを今の競技につかうというのは…少々難解だということを知ってもらいたい。
と同様にわずかに手を開いてから握り込む拳の技の決め方も、私たち今の競技には不要であり、あまつさえ危険でもある(特に初級や子供たちで指の裂傷をおうのは、往々にして正拳の作り方が甘いのが要因、また叩いても効かない突きというのも、それに当てはまる)ということを…。


 あえて「型の競技化」を行っていくのであれば前述した手順は不可欠だと考ている。
子供たちは子供たちなりの、上級なら上級なりの点数評価をしなければなるまい。
そうでなければ、いつまでたっても「あっちの大会で勝てたのに、ここでは初戦も勝てない」「同じ同門でどう見ても上手い子が、負けている」そんな不条理が、あとを立たない。
 そして、組手至上主義に偏るあまり、いつまでたっても我々の型は、日陰者扱いされ続け、それ以上の進化発展は、望むべくもないと知らねばならないだろう。

そんなことをしていると謂わば勝手に「型」の形を変え、これこそが極真の型なんだと海外から言われてしまう最悪の始末になりかねない危惧を抱くのは、私ばかりではあるまい。
現実問題、とある団体の型の元は「欧州」からのものだと聞いたことがあるが、なんとも情けない限りであろう。
# by katsumi-okuda | 2013-04-11 16:11 | 評論

当たり前のようで

意外とわかっているようで、等閑になっていることがある。

特にこの年になると感ずること。
それは、健康という事。
健康でなければ強さはあり得ない。
不健康な空手家は、マンガの世界だけ。健康だからこそ、ある程度の無理も効くというもの。だからといって健康でなければ、カラテは無用の長物なのか⁈

いや、そんな事はない。
要は、何事もその使い方。
例えば、選手並みの稽古鍛錬を誰もが敢行出来るか⁈やってできないことは、ないが、やはり後で身体が、悲鳴をあげるのが道理。

その人となりや条件によって、そのやり方は、異なるのが必然。
若い青年期なら無理や無茶も構わないし、やらなければならないこともあろう。
だが、健康を求めて稽古するなら、それは意識を変えなければならない。
相手を想定し打ち負かす稽古から自身の身体に問いながら正しい負荷をかけることに常日頃から意識をする。

ただ健康のためと称し当たり障りのない基本や型だけをやっている、また、やらせているようでは、その効果はたかがしれていよう。

わたしは、ここ十年そのことに少なからず研鑽してみた。
その成果を身を以て現し体系具体化することとする。

日本人の特性に合わせたふだん日常生活の過ごし方からカラテを元とした武道全般にある効用を説いていくこととする。

まずは、私に関わる年長者の皆さん、そして新たに機会、場所を求めてこの五月から始めます。

その名称は「壮健SOUKEN
私ども団体名称「武颯」に通ずるものです。
# by katsumi-okuda | 2013-04-09 16:03

残念ながら

残念ながら、生憎の天気…台風並みだそうで…。明日、地元柏ららぽーと柏の葉で行われる予定でおりましたカラテイベントは、雨天順延となりました。

13日(土)に屋内での開催となりましたので関係者の皆さま、何卒よろしくお願いします。土曜ということと屋内ですので、予定されておりました内容も、少し変更となる見込み。

でも、子供達や参加される皆さんには、楽しんで頂くよう道場生一同、頑張りたいと思います。
残念ながら_a0026020_17104082.jpg

場所は、3Fクリスタルホール。
TX柏の葉下車、階段を上がられ入口の所です。なかなか衆目は集まりそうなところです(^o^)
# by katsumi-okuda | 2013-04-06 17:02

人それぞれ

 日替わりに天候が、落ち着かない。
二三日雨模様が、続いたと思ったら晴れ間が…。
この調子だと週末イベントは、どうやら天候次第ということになりそうですね。
折角の団体のイベントとしてやれる機会を設けられたのに、どうやら縮小版改訂版でやらねばなりません。遠方からご尽力頂く予定だった皆様には、今回申し訳ないのですが「パス」ということでご理解頂きました…残念です。
 でも、私たちは、少々の雨でも敢行しますので道場生の皆さん。
全員参加で盛り上げて参りましょう!!
(でも、豪雨だったら流石に中止となると思いますが…)

 さて、以前にも書いたことですが「新しい試み」についていくつか書き留めておきたいと思います。
一つには「壮老年そして運動歴のない一般の皆さんのため」に考ていることです。
「道場の敷居が高い」
「いくら健康のためとはいえ、空手の稽古は正直辛い」
「どう頑張っても今の稽古を続けていく自信が…」
という声を聞くことが、少なからずありました。

正直、若い頃はあまり考えもしなかったことです。
このまま同じような稽古をやり続けていけるものだと「私」は勝手に考えていました。
ですが、それはあくまで「私個人」のことであり、一般的ではありません。

何もしていない人たちに私たちと同じような稽古をやれと言うことは無理なことです。
少しずつ慣らしていければ、いいじゃないかという意見もあります。
ですが、ではどうやってやっていけばいいのでしょう。
単に基本や型だけやって「お茶を濁す」ことは本意ではありません。

武道・武術の持つ身体操作・動きの精密さ、日本人だからこそ感じられる所作とその効用。
それらを元にもっと考え提示
してもいいと考えています。
そして、そこには単に武道だけではなく運動生理学など合理的な「療法」も含まれると解しています。たとえば、動きの悪い人の多くに持病(肩・腰痛など)があります。それらを踏まえ運動を行うことは必然だと思っています。
加えて、やはり日本人という体質・体型を考慮し武道からなる日本人古来の動きをマスターしていくことは、吝かではないと感じています。

「コツを知るとは、骨格を知るということ」とは武道の金言です。
若い頃は、有り余る無理をしてもいいと思います。
そして、その作り上げた筋力にモノを言わせ「戦う」ことも無論大事です。

ですが、年を重ね若い者と同じような稽古鍛錬では身が持たない人がいても当然。
そのために武道には「技」があるのです。
そして、その「技」とは私は「動き」「身体の動かし方」だと思っています。
その場で殴り合えば「ただ腕の筋力のみ」ですが、少しでも自身の身体に「加速」をつけ自分の全体重を打突の一点に与えられたとしたら…それこそ理想的な最大限の効力をもって相手に衝撃を加えることが可能になるはずです。
そして、そのためには正確な身体操作が必要となるのです。
どんな条件下でも、揺るぎない強固な意志と冷静な判断力を併せ持つことも極めて重要。

 そして、この理論は物理学的に観ても正しい見解であり、競技のみならず「壮健」にも当てはまる要素なのです。ですから、それらを端的に指導するシステムを模索することは、私たちのもう一つの使命であり、私たち特有の「技」となると考えるに至ったのです。


 何も運動していない人に私たちの稽古…ほんの真似事でも「大変辛いもの」なのです。
それをわかろう知ろうとしないことは、私たち武道家いや指導者の怠慢以外の何ものでもない
と思っています。
無論、私個人としては「いつまでも強さ・上手さ」を希求し今まで以上の稽古鍛錬は、続けられる限り続けていきます。
人様からたとえ無謀の譏りを受けようともです。
ですが、それはあくまで私個人のことですので悪しからず…ですね。

 ともかく、私はこのカラテ、そして武道の良さを多くの人たちに知ってもらいたいと願っています。ただの殴り合い蹴り合いだけに終始する段階からもう一つ上を目指したい。
そうでなければ、私たちのカラテの優位性は生まれてこないと実感しています。

 これらは、今後さまざまな場所や機会で披露してまいります。
そして、出来れば武道による「パーソナルトレーナー」を開拓も視野に入れ活動していくことにしています。少なくともその実証例は、たくさんありますので…私を含めこの年代で若い選手達と互角に張り合えるということは、取りも直さず、その一つの効用だと実感していますので…。
人それぞれ_a0026020_2534837.jpg

# by katsumi-okuda | 2013-04-03 02:53 | 稽古日誌