武道カラテ稽古日記

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合宿後記…それぞれの意味

夏本番前に夏合宿が、終わりました。

毎年恒例ですので…大体の形は決まっているのですが、参加した人達、特に子供達の目的は、さまざまな「経験」にあります。

新しい型や組手の動きを学ぶことが、先ずは第一にあるでしょうが、それよりも大切なことがあります。

それは、親元を離れ、年の違うみんなと一緒に「生活」をするということです。
楽しいこともありますが、自分にとって嫌なことも、多々あります。それが、みんなと一緒に動かなくてはならない「団体行動」の一つなどが、そうです。また、我を抑え相手に寄り添うことも大切なことの一つです。

身内だけなら自分のワガママも、ある程度許されることも、他人と一緒の場合、中々そうもいきません。それを普段の生活の中で体験する。
それが、他人と寝食を共にする「合宿」の大きな「目的」だと私は、考えています。

ですから、少しの諍いなどは、当然あります。
それをどのように受け止め自身の中で消化していくか。それを学ぶことが、子供達にとってとても大切なことだと考えています。

ふだんの生活や考え方や感じ方、それらは必ず自身の全てに現れてくるものです。

ふだんから他人に「合わせられない」者が、どうして激しい組手の最中、相手に合わせることが、出来るでしょうか?出来るはずが、ありません。

相手のあることとは、何もカラテ、組手に限ったことではありませんが…
例えば、いつも力任せの組手だけで相手に勝てるほど競い合いとは、甘くありません。

相手の強弱や気持ち、心を読む。
つまりは、相手を「思い遣る」ということでも、ありましょう。

それを、ふだんの生活から学ぶこと以上に合宿などの特別な環境の中で体験そして学ぶことの大事さを感じてもらう。
それが、私たちの「合宿」の本来の意味なのです。多くを経験体験するとは、そういうことです。
どんなことでもそうですが、特に子供達にとって何事も全て「貴重な時間」であり「学び」なのです。
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by katsumi-okuda | 2016-07-19 20:04

心を遣う。

私と師範代の付き合いは、旧い。

彼此、三十年以上…その間、お互い「ガチ」で組手をやったのは、それこそ数えるほどしかない。

今ほど確かに防具や稽古体制が!整っていなかったとはいえ、稀有である。
ただ、当初から「みんなに怪我をさせたくない」との考えから「当てない組手」「速さは試合並、チカラは五分以下」「相手に当たるかどうかの間合いの中で」等…様々な「組手の稽古体制」を模索していた。

そして、その相手が、いつも側にいた師範代であった。だから、いまでもそうだが、阿吽の呼吸の中で互いに技の精度を上げていることに勤しんでいたのである。

ただ、それだけを磨いた。
その結果、後から続く後輩(全日本に出ようという選手たち)に彼は、一切遅れをとることを知らない。いくら現代的なトレーニングやらスパーリングやらを彼等が、やっていても、である。

何がどう違うのか?

「相手に合わせる」
相手が、例え蛮勇をふるっても、それを諌める心の「しなやかさ」と「ゆとり」がなくてはならない。道場の中で出来ないことが、何故、実戦や試合で出来ようか?
否、決して出来るものではない。

相手が、子供なら女性なら、そして、一般の選手が相手なら…全て変えて当然。

なのに時として何故それに至らないのか?
「つい熱くなって…。難しいですねえ…」
などと言う者がいるが、ハッキリ言って失格である。難しいのは、ハナから分かりきってること。

例え、相手に反則である顔を殴られたとしてもである。顔を殴られるのは、単に「自分が未熟」なだけで自らのその未熟さを知らねばならない。

ルールだから、相手が反則を犯したから⁈
だから報復していいのか⁈
自分の未熟さや本能に負け、手足を振り回しているのなら、今すぐやめたほうがいい。
ふだんの稽古鍛錬で何も学んでないことになる。
相手が自分より格下なら尚のことである。

相手が10でくるなら精々三程度でかわせなくてどうすると強く言いたい。10でくるから10で返せば、相手は、それ以上になるかもしれない。
そんな「力比べ」に何の意味がある。

そんなことをやっていては永遠に「大きくて強い相手」に勝てるはずもない。
相手を制するに等しい体力、力量を日々備えること。そしてその上で相手を推し量る「ココロ」を養うことを常に意識し稽古鍛錬せねばならない。
特に上級者、指導に携わる者は、必須である。

何をするにせよ、頭を遣い、そして「ココロ」を遣うことを常に意識しなければ私たちのやっていることは、武の道にならないと強く思う。
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by katsumi-okuda | 2016-07-10 07:44

頭を使うこと

「型をやるには、まず何も考えずに出来るまでやること。それが出来るようになったら、今度は、色々と考えて、そして感じながらやること。出来るようになったからと言って、気を抜いたり疎かにするようではいけない。」

子供の頃に言われたことを今でも、稽古の不文律としております。
そして、それを特に子供達に伝えております。

子供達は、大体どんなことでも特に興味があれば大人の何倍ものはやさで物事を習得していきます。型の手順だけ覚えて無邪気に喜んでいるのは、微笑ましいですが、それで良しとしてはいけないことを絶えず言い伝えております。

簡単に出来てしまったことは、存外簡単に忘れたり惰性で流され、やってしまいがちです。

自転車に乗れるようになるまで、あんなに苦労したのに乗れるようになり楽しくなっていくと注意が、散漫になり転んで怪我をしてしまう、そんなことは普段の生活の中で沢山あるものです。

ですから、いつも私は言います。
「これは何もカラテだけに限ることではない。この頭と身体で全部やってるんだから、どんなことでも、いつでも、そうしなければならない。」

何も考えずに言われたまま、やってるようでは決して、進化も成果も出るものではない。

何も考えず稽古鍛錬してるものに大きな深化変化は、見られない。
ただ言われるがまま、目の前にある物事をこなすだけで本当の強さも巧さも、うまれるものではない。

だから上級者、そして指導に携わる者は、例えば組手の稽古の時、相手のことを考えてやることが第一。相手の巧さ強さを引き出してあげられる「相手に合わせた組手」が出来なくてはならない。しかし、だからと言って、ただ軽くダラダラやったり、突っ立てるだけの組手の相手(特に子供達や女性、壮年の方々に対し)になっては、ならない。

子供の早さに合わせて、こちらもそれ以上に動く。女性や壮年の方々の間や柔らかさに添う。

稽古で様々なことに対応出来ない者に大成した者は、いない。稽古で出来ないことが試合や実戦で出来るはずが、ない。

頭を使うとは、そういうこと。
上級者や指導に携わる者は四六時中そのことに腐心しなくてはならない。
それが、出来ない者は上級者でも指導者でもないと常に私は、言う。

加えて自らが、道場生の規範であるなら道場生のそれをいつでも凌駕していなければならない。
決して口先ばかりの者に成り下がってはならない。
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by katsumi-okuda | 2016-07-05 19:47

一言申し述べたい

「…まただ」
この時期(選挙)になると、何がしかの会合や集まりの折、その話になることが、ままある。

大抵、分別と常識を心得ておられる方々ならば、あまり明らさまな話は、しないしならない。

無論、個人の主義主張は当然あって然るべきだし、侵すことのない権利だとは承知している。
しかし、それも「場と自身の立場」を鑑みて貰いたいと常に思う。

例えば、そんな政治的なことに何の関係もない会合や楽しい集まりの折に酔歌の果てなのか何なのか、唐突にそれこそ「議論」を吹っかけられることが、ある。
大抵は、笑ってごまかすが、どうにもならない時や腹に据えかねた時は、相手を論破する。

例えば、私達のような市井の「指導者」「教育者」は、人に何がしかのことを伝えることを生業としている。
その為に私達の言動は、少なからず「影響」があることを常に意識しなければならない。
時に私は「私塾の先生」であり、時に「地方の一道場主」そして「武道団体の関係者」である。

その私の何気無い、それも「本業に関係のない」言動が、多くを揺るがしたりすることを厳に慎み意識しなければならないと考えている。

例えば、本業の「武道」「カラテ」のことに関してなら私は、夜を徹してでも話す。その理由の一つは、その普及であり研究研鑽であるからに他ならない。武道を志した者の心得は、四六時中そのことに腐心し探求して止まぬことと考えて久しい。

確かに個人として世の中の様々な事を思うことは、当然ある。
しかし、それを発信していい「場と常識」はなければならないと常に意識している。こんな私の意見でも、少なからず影響があるとしたら…いや誤解されたり誇張され正しく自身の考えていることが、伝わらなかったとしたら…こんな嫌なことはないし私の思う武の道では到底ない。

どんな人たちでも、社会人であれば一定の「立場」を有する。例えば、学校の先生、お医者さん、会社員の方々、農家の皆さん…
そのどれもが、一人で成り立つものではなく他者との交わりや「団体」としての意思の元活動をしているはずである。その枠組みにいる限り、その中の「流れ」を完全に無視することは、出来ない。

なのに団体としての「私」を忘れ、個人として発言したいから発言する「たった一人の我儘」から団体全体が、まるで世間からそうであるかのように見られてしまう危うさを私たちは、忘れてはならない。私たちが、まだ「若手」ならそれも許されよう。しかし、立場ある年代になったら、そうもいかない事を考えて然るべきではなかろうか。

あまり特に政治的なことは、述べたくはない。
何故なら、ここは私の武道、そして稽古鍛錬の日常や考えを書き留めるところだから。

歳のせいもあるが、そのような臭いのある「人達」が、いる所は、今後立ち寄らないし出向かない事を宣する。たとえ、それが重要な宴であろうが何であろうがである。
折角、楽しい集まりなのに、そして私を呼んでくれた主催者に申し訳がない…何故なら、私は、そんな方々が、正直疎ましく言動に出てしまう為に。
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by katsumi-okuda | 2016-07-03 07:05