<  2012年 02月   >

  • 使える動きに
    [ 2012-02-29 01:55 ]
  • 続ける大切さとその辛さ
    [ 2012-02-26 21:59 ]
  • それぞれの目的に…たまには
    [ 2012-02-22 23:50 ]
  • それぞれを考える…稽古とは
    [ 2012-02-20 23:07 ]
  • 文武一致…これからの指標
    [ 2012-02-16 00:44 ]
  • 懸命から賢明へ
    [ 2012-02-11 01:40 ]
  • どんなことでも…
    [ 2012-02-08 01:27 ]
  • YOKOSUKA&YOKOHAMA
    [ 2012-02-05 22:00 ]
  • 如月…これからのために
    [ 2012-02-01 02:26 ]

 

使える動きに

 いつものことだが、この時期あまり調子は良くはない。
傍目に目立つ方ではないが、どうしても春先にかけて身体は、重く感じる。
…だからこそ、今とりかかっていることがある。

 よく私は人に話すことだが「元来、基本や型は、覚えようと思うだけならそんなに時間はかからない。無論、個人差はあるにせよ、正味一年も熱心にやれば、それなりに覚えられてしまうものだと思っている」ただ、それをしっかりしたモノにしていくのなら、それ相応の時間は必要だが…。

 古代、武芸にある「初伝(いわば初段に等しい)」を伝えるのに早ければ二年余ということを見聞した。勿論、見込みのありそうな者に伝えるのだから当然と言えなくもない。
あまりに時間をかけていては、失伝してしまう恐れのある時代ならではのことだが、基本、前述した通り「覚えるだけなら…」そう大して時間のかかることではない。

 但し、教える者が、正統でなけば意味が無いのは同然。
よくあることだが、少しカラテを聞き齧っただけで一派を成し教えている輩もいるが、そんな者に教えられていては、何も学ばなかったことに等しいし、害にしかならないとさえ言えるであろう。
少なくとも教え伝える者は、真摯に十年以上その道に向き合った者でなければならないのは、どの道であれ同じではなかろうか。


 そう覚えるだけなら…である。
では何故私たちのカラテで初段になるのに時間がかかるのか(通常五年以上)
それは「実戦」を旨としているため「強いこと」至上だからこそである。
「極真の初段は、他流派のそれ以上だ。誰にも負けぬようでなければ黒帯ではない。」とまで言われ、そのように稽古そして指導してきた。その金言は、ある意味正しく継承せねばならないとも思っている。

しかし、時代と共にその価値や有り様は、いろいろな側面を持つようになっている。
道場に集う者の殆どに強さだけを求めさせ続けた時代では、もうない。
それぞれの人たちの分だけ武道は、あると思っている。
そして、それを伝え教えていける武道でなければならないと思っている。

そのための稽古を、そして思考をしていかなければならない。
正しく教え伝えるために留まってはいられない。

何と言うこともないただの基本の型や動きの中にさまざまな人たちの求める「極意」はある。
壮健のための動き、競技で活きる動き、そして殺傷護身の為の動き。
例えば、古代の型が、競技に合わないのではない。
合わせようとしなければ意味がない。

そしてやはり、それらは共に稽古していなければ伝えられないものだと感じている。
そこにまた、人に伝え伝承していく難解さがあるとも言える。



  by katsumi-okuda | 2012-02-29 01:55 | 稽古日誌 | Trackback | Comments(0)

続ける大切さとその辛さ

 土曜日、クラブの男性会員さんが稽古に参加してくれました。
しばらく、遠ざかっていたのですが、これに懲りずに続けて稽古参加して頂ければと思うばかりです。
確かにクラブの稽古とは、質も量も違いますから戸惑い萎えてしまうことも、あるでしょうが…。
一人でも自分自身に沿う武道としてのカラテを見つけてもらいたいと思っています。
 稽古を続けていけば、きっと自分にとって得難いものを手に入れられることが出来るのですから…。


 正直、私は稽古鍛錬は、好きではない。

何を今更と言われそうだが、本心はそうだ。

若い頃、十代後半から本格的に「総本部」で稽古を始めた。
その頃は、何かにつけて稽古を休むことを考えていた。
授業があるから、バイトがあるから、母の看病があるから…どれも本当のことだが、しかし稽古する時間等ないわけではない。都合等というものは、つけようと思えばいくらでもつけられる。

それでも、単調に続く稽古と厳しく束縛された「時間」が、疎まれてならなかった。
しかし、その反面「人より強くなりたい」と思っているのだからタチが悪い。
すでに一端の「理論」と「知識」だけは身に付けていただけに…。

そこで考えた稚拙な答えは「どうすれば楽に相手に勝てるか」である。
そして…それはある意味正解であり不正解でもあった。
自分が、人より優れているところがあるとすれば、どんなときでも、あまり精神状態が変わらないことである。相手がどんな者であれ、頭の半分はいつも平静にいられる。例え自分が、やられていようが、なんであろうが、そのときの状況を分析・修正出来る。
そのためなのか、いままで致命傷に至る大きな怪我を負ったことがない。

ある程度ならば、それも大いに通用した。
まして若い頃ならば…。

 
時が過ぎ、仕事に専念し道場も指導員に任せっきりになっていた。
ふとした時、このままでいいのか考えた。
武道でありながら、そこそこ三十路を過ぎたくらいで出来なくなってしまうカラテなんて…
そして、日に疲弊し萎えていく自分の身体を道場の鏡に映した時。
突き出た腹を揺すりながら昔の自慢話に華を咲かせ、下卑た話題に興じる「先輩」たちに自分もなってしまうのだろうか…。とてもではないが、耐えられなかった。

いろいろな経緯が重なった。
そして私は、日々稽古を続けることに決めた。
総裁が仰っていた「万日の稽古・鍛錬」を目指し…。
未だその期日には至っていない。
やると決めたその日から…あと少し続けなければならない。

そして、続けたからこそ解ることがある。
続けなければ見えないものもある。

…あと少し…もう一歩先を…

  by katsumi-okuda | 2012-02-26 21:59 | 稽古日誌 | Trackback | Comments(0)

それぞれの目的に…たまには

 そんな日も、長い稽古をしているとあるものです。

どうしたことか、というかこの時期何気に社会人そして学生は忙しくなるらしい。
そのせいか、道場生の集りにバラツキが、みられるようになる。
…なにやら季節の風物詩になりそう…。

 皆を待っている間、岩井のT野さんと今度ご自身が始められる「教室」について歓談しておりました。
ほどなく、女性の道場生お二人がお見えになりました。
いつもなら、それからケント指導員始め選手達が、集るのですが…


 結局、女性達と少し稽古をしました。
というのも、カラテの稽古、身体を動かすことに関して話し始めて、それに終始してしまいました。
たまには、そんな時間もいいものかもしれません。
ふだんあまり話せないことをお話し出来ましたのでよかったと思っています。

 そして、何より私のこれからの考え方も少しお話し出来たのは幸い。
女性だけに限らず、これからの稽古そして指導のあり方。
今やっていることが、どのように確からしさとして皆さんに感じ取って頂けるか。
これが武道だと言わんばかりの稽古そして様式美も、確かに必要でしょう。
でも、それ以外の道筋にも武道のあり方はあるものだと感じています。

これから新しく教室をもたれるT野さんにしても、それは同じことです。
お互い「強面」ですから、見た目と同じ厳しい「当たり方」をしていては、人はついてこない。
しかし、だからといって、武道からかけ離れた形では何も生まない。
難しいことかもしれませんが、現代の武道とは、そう考えるべきなのだと感じています。

よく言われることですが「極真の世界は、一つの文化」ということ。
独特な道場での立ち居振る舞いや様式美は、内にいる私たちからしてみれば、どうということも無い当然の有り様も、一歩隔てたところから垣間みれば、異様な世界に映ることもしばしば。

それをどう私たち指導者が、とらえ正しいものとして特に若い人たちや子供達に伝えていけるか。
それが、伝えることの難しい側面の一つだということを私たちは改めて認識しなければならないと思っています。

ただカラテの技術だけを伝えていくのであれば、そんなに難しいことではありません。
何故、それほどまでに厳しい稽古や形を身につけねばならないか。
それを今の人たちに正しく、そして何より平易に伝えねばならないと思っています。

相手と直接拳を交える「直接打撃制」だからこそ、ふだんに備える体力と精神性の強さ、耐久性を稽古の内外に求めなければならない。そうしていかなければ、本当の姿、人と殴り合う蹴り合うとは、どういうことか。本当の実戦(例えば、本当の護身とは)とは、どんなものか知る由もありますまい。

実際、打突にさらされたとき、身体は激しい衝撃と共に強く揺さぶられる。
心身は、思いも懸けず膠着や強ばり、そして萎縮する。
その本能と抗い、理性をもってその打突に対処していく。
言うは簡単だが…その感覚は、やった者にしか絶対わからない。

そして、その厳しさと辛さを知っているからこそ、私たちの世界そして文化があると感じてもいる。
定められた形(礼義、姿勢、挨拶等)の中から私たちは「自在」を知る。
その一見「不便」「不条理」な世界に心身を投じたからこそなし得る術を知ることが出来る。
「型を知らねば型破りもできない。型を知らないものは形無しでしかない」とは有名な話しである。

人と切り結ぶ世界とは、何も旧き武士の世界だけのものではありますまい。
人と接し今に活きている私たちもまた、それを体感しているはずなのです。
人や社会の中で生きていく以上、自身の心の強さや弱さを知らなければなりません。
その一つの法として私たちは、このカラテに出会った。
だからこそ、それを活かさねばならない。
現代に活きる武道、そしてカラテとは、そうしたものであるに違いないと思っています。


  by katsumi-okuda | 2012-02-22 23:50 | 稽古日誌 | Trackback | Comments(0)

それぞれを考える…稽古とは

 合理的で効率の良い稽古も、良い。
だが、たまには「旧鍛錬」もやらなければわからないものもある。

 今では、「独り稽古」のときにしかやらないが…
鏡の前で淡々と「基本」を繰り返す。

やっている最中ふと気がついた。
「五十本いや百本蹴るのに、どのくらい(何分)かかってるんだ!?」
時計を見やり勘定してみると…
五十本でぜいぜい30秒、百で大体一分。
…そんなものだ。大してかかっていない。

だから15分、基本の前蹴りをやっていても苦にはならないのかも…。
時として30分蹴ることもある。
以前試しに二時間蹴ったことがあるが、大体10000本前後だった記憶がある。

若い頃は、数を競っていたこともあった。
しかし、今は自分の身体が納得出来ればという感覚が、強い。
だから、百も蹴らないこともままある。

しかしやはり、時として修正の為か「量」をこなさなければ駄目だと思っている。
特に私たちのような年長者は、若い者に比べ力もスピードもあるはずもない。
そのため全身の協調性や形によって技をいつ何時でも、出せるようにしなければならないと感じている。

数をこなすことによって、余分な力みも癖も、削り取られていく。
その果てに滑らかな動きを体感出来る。
このまま組手で蹴れたら良いのに…と幾度となく思った。
そして、その感覚を忘れない為にも、私にはやはり、量の稽古は必要だと思った。

以前は、すべての道場生にそれを課していたが…
それも武道という意味合いでは正しい道なのだが、それに皆がついて来れるかと言うと
…すべてが、そうではない。

ただ武道である以上、今に即した量の稽古のあり方を提示していかなければならないとも思っている。
量の稽古があるからこそ、高い質の稽古が生まれ、そして実戦に活きてくるものです。
この一つの稽古のあり方から、新しい形を創造していくこともまた大事。
それこそが次代に繋ぐ一つでも、あるのですから…。

さて、明日はどうせ選手ばかりかもしれない。
少しは「量」をやってもらいましょう。

  by katsumi-okuda | 2012-02-20 23:07 | 稽古日誌 | Trackback | Comments(1)

文武一致…これからの指標

 案の定…昨日の「鍛錬」が…。
少し時間が、あったので近々のスーパー銭湯に行ってきました。
ここのところ寒いこともあり、身体の強ばり不調から、流石にからすの行水と言われる私も、足しげく通うようになっています。

 昼すぎだというのに大勢の人たち…の多くはやはりご高齢の方々が多い。
でも若い人たちも、ちらほらいるので少し気安い。不意に時間が空いてしまうのも自営業ならではだが、
時として場を変えていろいろ考えるのに良い所だと最近つとに思うようになってきました。

「…文武両道…いや文武一致
ふと思い至りました。

これから私塾としての道場のあり方を目指して…。
武道としてのカラテ。
競技としてのカラテ。
教育としてのカラテ。
全てが「一如」でなければならないはず。

武道としての稽古鍛錬を通し、培った「力」をすべてに活かさない手は無い。
ただお題目のように精神性を唱えていても始まらない。
私たちは、現代に活きている。
ならば、そのすべてが活きてこなければならない。

高い競技制と合理的な稽古から紡ぎ出された強いその「集中力」を若い人たちには勉学にも活かさなければならない。無論、私たち社会人もそれは同じである。
いくつになっても学ぶことは、あるものである。
その意欲をなくし、ただ無為に日常に流されてはならない。

 春に向け、本当の意味での「新しい道場」のあり方を明文化出来るよう。
そして、実践していけるよう、ここから始めることとしよう。



…やっぱり…あまり長湯すると…すぐに湯当たりするんですが…。

  by katsumi-okuda | 2012-02-16 00:44 | 稽古日誌 | Trackback | Comments(0)

懸命から賢明へ

 寒いのにもほどがある。
もう暦の上では春ではあるが、北の各地では記録的な豪雪。
くれぐれも用心してお過ごし頂きたいですね。

 私の地元千葉では、来週早々に公立高校の入試が始まります。
それ自体いつものことなのですが、昨今の社会的な成り行きで試験内容等が大幅に変わりました。
そのため私たち指導者も、いつも以上に神経質になっています。
なにせ初めての試みもありますので…

そして、受験生達もそれは同じです。
今までのセオリーが通用するかどうか、これまでの勉強のやり方が正しかったかどうか問われる時です。
しかし、あと数週間後、その結果は出ます。
それが出てから私たちの分析が始まりますので…これからが本番です。

特に高校の試験の場合、そこに集る受験生達の能力にそう大きな実力の隔たりはありません。
例えば、A校の偏差値が50。応募人員が360名の場合、その点数に見合う子たちが大体400名受験します。そして、合格は360名前後となります。では、不合格になった残りの子たちに大きな過ちがあったと言えるか…というと、その殆どが、そうでないことが多いのが実情なのです。
無論、学校間による細かな裁定基準がありますので、それに合致しなければ同じような点数をとった者同士でも、合否は別れることはあります。しかしそれでも尚、不可解な落ち方をする子たちはいるのです。

それを指して「当日、実力が出せなかったから」と一言で片付けていては済まないのが私たちの世界。
しかし、そして、これらは私たち競技の世界、試合でも同じことが言えるのです。
いくら実力があろうが、人知れず努力をしていようが勝たなければ何もならないのが私たち競技の世界
であり、そこに横たわる「不可解さ」は試験であれ試合であれ、人と競い合う以上生まれる「業」なのかもしれません。

ですが、それで諦めていては、いつまでたっても勝てやしません。
では、そのために、それに打ち勝つ為に何をしていかなければならないか。
その答えは、人の数だけありましょう。
ですが、それでも、ある程度の「考え方」は整えて事に臨むべくことだと私は思っております。

「一流はだれでもなれる。超一流になるかどうかが問題だ」
それが、一つの鍵だと思っています。
ただ漫然と稽古をし試合に臨んでいるようでは、先がない。
絶えず「思考」した稽古をしなければならない。
それは「懸命から賢明」に至る稽古そして考え方でなければ、ならない。

確かに稽古量は多いにこしたことはない。
しかし、誰もが出来ることでもない。
限りある時間をどう活かすか。
稽古の質をどう高めていくか。
懸命にやる時期は、初心でしかない。
少しでも心得のある者は、賢明に動かねば成果は生まれないと知らなければならない。

そこには「絶対にそうなるんだ」という強い意志が必要である。
さまざまなことに耐え忍ぶ爆発力が必要だと思っている。
すべてに満ち足りて臨む者は、どうしても腰が弱い気がしてならない。
全てを懸けて臨む気概とふだんの強い意志と共にある稽古そして鍛錬が大事であろう。

結果、心弱い者が落ちる。
それが、世の摂理ではなかろうか。
例えば、世界の弱者に無償の愛を授け続けたマザーテレサも、その強い意志がある。
人とは、失敗から負けたことから学ぶという。
そうした者が、真の勝者であるという。
負けたことに学ばぬ者は、すべてにおいて後塵を浴びてしまうのではないだろうか。

そのことは私の一つの座右でもある。
負けたことに悔いるのは、良い。
しかし、それから学ばなければ次はない。

…ただ後が無い受験生達は、負けぬ気概を持ち続け臨んでもらうほかない。
そのことだけを私たちは、切に、寒空に祈るばかりである。
毎度のことだが、受験生以上に「胃が…痛い」
出来ることなら…
私の教えた全ての子たちに朗報があることを…祈るばかりです。

  by katsumi-okuda | 2012-02-11 01:40 | 稽古日誌 | Trackback | Comments(0)

どんなことでも…

 冷たく寒い…この身には相当「応え」ます…。
夜半、大分暖かく感じましたから、少しはマシでしたが、今日は一日全然駄目な一日でした。
子供たちの中にも、インフルエンザにかかったり風邪をひいたりする子たちが、目立ちます。
もう少しの辛抱だと思います。
皆さん、注意して日々を過ごして参りましょう。

 さて、稽古では地道な鍛錬にとりかかってもらっています。
体幹を意識し鍛える稽古、自身の軸をいろいろなシーンで感じてもらう稽古などが、そうです。
しかし、どんなことでもそうですが、すぐに出来る、そして効果の見えるものではありませんね。

稽古にしても勉強にしても、結局は地道にやり込まなければなりませんね。
人ですから、どうしても好きな稽古は積極的に取り組むし、苦手な稽古や地味な稽古は後回しに…
まるで中学生時分の「自分そのもの」で、ふと笑ってしまいます。
でも流石に少しは「大人」ですから、やり込んではいます。

そして当然のことなのですが、日々身体の使い方を考えています。
歳と共に使える筋肉とそうでないものというものが、あるものです。
例えば、筋力の殆どない赤ちゃんが寝返りをする時、身体の中の筋骨を使っているといいます。
それと同じことを私たちも、するべきだと思っています。

無論、鍛えられるだけの筋力は鍛えねばなりません。
しかし、それだけで抗うことが出来るものというものは、たかがしれていましょう。
自身の筋力と意識をもって使える全ての筋骨を活かし、事にあたるべきだと思っています。
…ただ、これもすぐに出来るというものではありません。
ふだんから意識し、その果てに意識せずとも使いこなせるまで、やはり稽古あるのみなのでしょう。

また、これらを通し「道場の間口」を広げたいと思い研鑽している最中でもあります。
今の齢に達し、これから「何をもって壮健につなげるか」も道場の一つの役割だと考えています。
この武芸を通し、老齢でも壮健強化そして維持が出来る「形・動き」を作り上げたいと思っています。
緩やかな動きや武道の姿勢の取り方の中にその鍵の多くが含まれているものです。
それらをより判り易く多くの人たちに伝えられたらといつも思っています。
ただ、まだまだ力任せに動けてしまいがちなタチですので、一つの形になるのは、もう少し先なのかもと思ったりもしていますが…

「極真」である以上、強くなければならない。
武道である以上、人格形成の一助足りえねばならない。
しかし、それ以上に武道とは年齢を超えるものでなければ意味が無い。
私は、そう考えております。
そのどれもが内包されてこその「武道」だと思っています。
強い弱いも、その時々では大事。
しかし、それだけでは先が無いことを知らねばならない。
その応えを希求するならば、やはり「稽古・鍛錬継続」の語彙しかないと思っています。



さてしかし、駄目なときは何をしても駄目…。
まだ今月に入り、調子が出ない…なんか「壁」なのかなぁ…。
仕方ないというか何と言うか…ともかく日々の稽古と指導、それに全力を尽くそう。
解決は、それしかない。

  by katsumi-okuda | 2012-02-08 01:27 | 稽古日誌 | Trackback | Comments(0)

YOKOSUKA&YOKOHAMA

戦艦「三笠」です。横須賀にある三笠公園まで家人と行ってきました。以前から私は「坂の上の雲」を愛読していたのですが、ついにというか私の影響か…戦国から三国志そして戦争ものへと歴史オタクマッシグラの中二の娘が「三笠が観たい!!」という希望!?そして、それを叶えるべく今日、家人共々「横須賀&横浜巡り」をしてきました。
 艦内のいろいろな資料を前に二人して「凄いね!!ヤバいね!!」と暫く身入ってしまった怪しい親子。

無論、今の三笠は復元されたものですが、当時の英国風の室内や調度品の格好良さは…。そして、東郷元帥始め数多くの直筆書跡…その静謐で丁寧な書き方と文体には凄みさえ伝わってきます。今の私と同じくらいの年齢なのに…なんか今の自分が、限りなく幼稚に思えてしまいます。明治の人たちは本当に「武士」だったのですね。

昼前に横須賀を出て次は、横浜にやってまいりました。旧暦正月「春節」ということもあり中華街は人でごった返しておりました。あまり食に興味の無い私ですが、流石に本場です。どれを食べても美味しい。ここで暮らしていたら確実に太りそうです。ちなみに横須賀に行く道中、少し手前から街道で行きました。金沢文庫を始めとし瀟洒な町並みと街道…人気がある地域だということがわかります。そして、ここ横浜もそうですね。

近くの広場で催し物をやっていました。
その最後に「獅子舞」!!地元の学生さんたちがやっているのですが、なかなかどうして愛らしく凄いものでした。初めて見ましたが、とても好感がもてました!!

たまにこうして出歩くのも、いいものですが、どうしても人ごみは慣れません。
さて夕闇が迫る頃、さすがに人ごみも解消されてきましたので私たちも帰路に…
しかし、こうした所の駐車料金は…高い!!!確かに四時間近くいたのですが4000円って…

  by katsumi-okuda | 2012-02-05 22:00 | Trackback | Comments(0)

如月…これからのために

 大会が、終わり、それぞれに思いを巡らしていることと思う。
悔恨、憔悴、そして次への期待か不安か…
そのどれもが、正しい。
そして、そのどれも自分の糧としなければならない。

 毎年のことだが、二月の節分を境に自身の新年としている。
いつも初午の時に願掛けをして、一人新たな思いを巡らすこととしている。
柄になく信心深い訳でもないが、何か一つの「決まり事」としてやっております。
特に今年は、昨年のことを思い、いろいろなことを感じながらとなりましょう…。

 さて、試合も一区切りですが、すぐに次の試合の稽古が開始となります。
今日も、ケント指導員と岩井のKくんが、試合明けすぐに稽古に参加でした。
その心がけは、大事です。
ふだんが、万事なのです…何事も。

 二人とも、今一つの結果に終わってしまい忸怩たる思いだと察しられます。
稽古内にて、試合に臨む「気概」を伝えました。
両人とも、よくわかってくれた様子。
そして、それをどうこれからに活かしていくか否かは…本人次第。

 人というものは、ふとした事で「変わる」ことがある。
そのために「ふだんの行い」は、大事であると思っている。
何気ないふだんの稽古の中からつかむことも、ありましょう。
自身に質そして量の稽古の中から掴み得るモノも、あることでしょう。
そのどちらにしても、やり通すのは自分。
やるのも、諦めるのも自分一人。

そして、それこそが「修練・修行」の最たるものだということを忘れてはならない。
一流は誰でも、なれる。
難しいのは、超一流になることとは、よく聞く言霊。
地方の一選手で終わるか、中央の一流になれるか、勝ったときより負けた今こそ考えるべきことである。

 昔の私の弟子達の多くが、伸び悩んだときがあった。
そして、その壁を乗り越えた時、皆中央で名を馳せた。
その誰もが、そのことに気がつき、どんな状況下であったも「勝ちにつなげる試合」をやった。
落としていい試合なんぞありやしない。
どんな試合でも、どんな勝ち方でも貪欲に勝ち進めようとする「気概」が、そこにあった。

 体力、技量にそんなに大きな差があるものではない。
では何故、そこに勝ち負けが存在するのか。
今一度、自身に問いかけること。
それを通し何が、自身に足りないか、何を持たねばならないか自問しなければならない。
それに気づいた時、その者は勝敗を越えた自負を持つことが出来ると信じている。
そして、必然として勝利を掴むことも…

 このことは、私にしても同じこと。
いくら考えても悩んでも解決のつかぬこともあるものである。
だからこそ、私には稽古に問うしかないと思っている。
新たな年を迎え、今一度私自身、稽古を通し考えなければならないと思っている。


  by katsumi-okuda | 2012-02-01 02:26 | Trackback | Comments(0)

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