武道カラテ稽古日記

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カテゴリ:教育( 10 )

自立そして自主性

   久しぶりに休日。
少し汗ばむくらいの陽気…一日ゆっくり身体を休めたいところだが、貧乏性なので夜に「独り稽古」で体調管理。ここのところあまり稽古してない!?のでスタミナと筋力が、グダグダになってます(^^)

 さて、五日は埼玉県大会です。
ここから夏以降まで一気に日程が埋まっていきますので余計に体調管理をしていかなければなりません。大会に出場する選手のみなさんも、油断せず心身とも整えていきましょう。

 よくこんな光景を目にすることがあります。
とても厳しい親御さんとそうでない親御さん。
厳しい親御さんの特徴として(偏見かもしれませんねが…)昔、悪かったであろう(例えは゛ヤンキー風)と想像出来る風体の方々…総じて子供さんに対して「厳しい」ですね。
無論、礼義や一生懸命やることは、とても大切ですし、それを教えていくことは間違いではありません。

ですが…やり過ぎというのは、どうかと思いますね。
親の性格は、少なからず子供に影響するものだと思っています。
ですから、自分(親)が子供の頃、どうであったかをよく思い起こさねばならないと思います。
やんちゃで人の言うことを聞いてなかった当時、散々怒られり叩かれて矯正された経験が、自然、自分の子供に向けられているように思われます。

 親である以上「こうなって欲しい」「こうあって欲しい」と願うのは当然です。
ですが、その前にその子の性格やご自身の有り様を客観的に見つめることが必要だと思っています。
まずは「褒める」そしてその上で「修正点を述べてあげる(こうしたらもっとよくなるよ)」
難しいでしょうが、それが子供の自主性・自立を助ける一助
だと私は、思っています。
誰だって例え大人だって褒められていやな人は、いません。
同様に怒鳴られていい感じなんぞもてるはずは、誰もいないと思います。
怒鳴られ萎縮し卑屈になったり、はたまた反抗的になったり…

まずは、どんなことでも「楽しく」そして「厳しく」やっていくこと。
それも、自ら進んで行うことが大事ですね。
勉強でも稽古でも、自ら進んでやっている人は、必ず大成していることを私は知っています。

子供たちは、まず認められ、その上で自ら修正していける力を模索し続けられる環境が大切だと思っています。すぐに出来ることなど、世の中そうあるものではありません。
時としてとても長い時間をかけてやっていかなければ、ならないこともたくさんあると思っています。
だからこそ、大人の私たちは、子供たちの手助けになれるようにならなければなりません。

過度の期待や過小評価で子供の多くの可能性を押しつぶしてしまう愚は、避けなければなりません。
一つのことを長く続けていけることの難しさを褒めて上げる。
そして、それがこれからの自身にとってどれだけ有効なことか教え伝えてあげる。

過度の期待や過小評価する親御さんに言いたいですね。
では、今お子さんたちが、やってることを同様にやってご覧なさい。
どれだけ難しく過酷なことか。
出来るなら親御さん自らやりなさい。
同じ目線に立ち、仲間として語らって欲しい。
同じ大会を目指し共に稽古してください。
そして、自分がその多忙の生活の中でも、やりとげ優秀な成果を収めたのなら子供に教える「一つの資格」があると言えるでしょう。極論ですが、そのくらいの気持ちをもつことも親として大人として当然だと私は、思っています。



 ここで私の娘の話しをさせてください。
生まれた時から眼が弱く眼鏡をかけています。そのため外で遊ぶことに抵抗があり内向的な資質になってしまいました。その辺は自分も、そうでしたので…。
身体的な能力がありながら運動系には向いていません。
私同様、本を読むことを趣味としてきましたので当たり前のように文系となりました。
当然のごとく理数は、苦手ですね。でも、人当たりの良さなのかやさしい性格なので小さな道場生たち特に女の子たちにとって良きお姉さんとして人気があり、私の補佐を務めてくれてます。

「とんびは、鷹を生まない」
この格言通り、私は彼女に過度の期待は、していません。
しかし、彼女を過小評価もしません。
出来るところを伸ばしその中で有り余る可能性をこれから広げていって欲しいと思っています。
今は、人並みにJKなのですが、私と趣味が合うためよく話しはするほうですし仲は良いと言われます。
そのため説教くさくならないのは、いいことかもしれません。
ですから、コレからのことをある程度客観的資料と意見は、彼女に正しく伝えるようにしています。
そこから、何をどう導き出し何をしていくかは彼女次第。
彼女の人生なのですから。
私たち親は、そのほんの少しの手助けと有り余る応援をしていけたらいいなと思っています。


この年ですから、小さな道場生にとって私は「なんか早く動くおじいちゃん」だと思われてる(~~)
ですので、遊び相手であり、社会に出て初めて経験する「諭す人」なのかもしれませんね。
まずは、大袈裟なくらいに褒めて、そして共に喜んで時に悲しんで…少しの智慧を伝えられればと。
子供たちの無限の可能性を信じ共に稽古し続けられれば、何をどうすべきか意識せずとも学んでくれることを願うばかりです。
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by katsumi-okuda | 2014-05-03 17:11 | 教育

やる気、意欲とは

 少し私の仕事のお話しをさせて頂きます。
「仕事」は、簡単に言うと「塾&予備校の先生」です。
ですが、今では「カウンセリング&アドバイザー」そして様々な「分析」を担当依頼されることが多いです。ですので、純粋に生徒と向き合って「指導」するのは「道場生」の「塾生」だけになります。

 さて、一頻り「受験」は、終了。
中高校の受験もあとは、結果待ちの人たちがいるのみとなりました。
そして、私たちは早々に次の準備に取りかかることになるのです。
「今年の公立高校のテスト内容の傾向は…」
「そして、来期の傾向と対策は…」
つまり、ほとんど一年休む間はないですね(そして私には、カラテが…)

 新しい「生徒さん&親御さん」たちと出会うのも、このころからになります。
そして、その「相談」も…。

「やれば出来るのにやらない。」
さまざまな相談の中でも歴代一位は、これですね。
かくいう私も、学生の頃は(いや今も!?)そんなうちの一人でしたからね。
そして、それが克服出来れば、本当に世の中のことで出来ないことなんてなくなるんじゃないかと本気で思いますね。…それほど「難しい」ということではありますね。

やる気の出し方というのは、やはり人によってさまざまだとは思います。
でも、ある程度の解釈は出来ています。
そして、あとはそれを実行することです。
…その実行が難しいと感じてる場合は、その設定が初めから難しすぎるということでもありますから、様様な注意が必要でもありますね。

 まず、多くの方が「勘違い」されていることがあります。
「やる気が出る→成績・成果が出る」ではありません。その逆です。
「成果、成績が上がる→やる気が出る、増す」のです。

どんな教科でも、成績の良い教科は大抵当たり前のようにやる気もあれば、勉強もしていますね。
逆に成績の悪い教科は、はなから勉強したがりません。
何故なら、やれば自分が出来ないことが、自分にバレてしまうからです。
そのため積極的にそれに向き合おうとはしないものなのです。
「やれば出来るのに…」というのは、その裏返しの表現でもあるのです。
所詮、人は「失敗」は嫌いなのです。本能として避けようとするものなのです。


 さて、それでは、どうしたらいいのでしょう…。
一つの回答例として幾つかあげておきましょう。
「小さい成功体験を積み重ねていくこと」
「わからない、出来ないもののやり方、方法の基本を徹底的に身につけること」
「苦手なことを自分の興味の湧くことに置き換え対処する」

そして大切なことは、適切に「褒められること」です!!「絶賛」ならなおいいですよ(^^)

 何かが、出来て褒められる。
いくつになっても人は、けなされるより褒められるほうが嬉しいにきまってます。
思春期の特に男の子は、表情にこそあまりださないでしょうけど、やっぱり褒められれば嬉しいんですから。もし、叱らなければならないことがあるのなら、しっかりとお互い正座し直視し懇々と諭していければいい…のですが、それが難しいですね。
でも、親御さんも、其の点は「学習」だと思って対処して頂きたいと切に願っております。

 さて、その方法ですが
例えば、まず机の前に座ること。つまり「勉強」のための「習慣化」をつけたいですね。
初めは、本人のそれまでを考慮し絶対無理はしないことです。
さしずめ10分から始めましょう。
そして、勉強の環境を整える。つまり「整理整頓」「清掃」です。
これによって何をどうしていかなければならないか自然に意識出来るようになる第一歩です。
でも、これもあまり無理矢理はしないように…。

そして、どこがわからないか確認作業です。
そして、その教科の「基本」から徹底させましょう。
昔から言われる「読み書き算盤」です。
「何ページ、何問やったらOK」ときめましょう。
時間設定は、もう少しあとでいいでしょう。
そして、簡単な問題からやっていき、正解なら「褒めます」
不正解なら「おしかったね!!また頑張ろ」といって励ます!

私たちのカラテでもそうですが、試合から挑戦と失敗を繰り返しその「耐性」をつけているとも言えますね。
そして大切なことは、無駄無理を絶対しないということです。

 私は中学校一年のとき、成績はクラスで下から数えるほうが早いほどでした。
一応、言い訳ですが病弱で小学校の出席は半分も満たなかったから…当然出来るはずもありません。
でも、幸いと言うか、親は、成績のことに関しては何も言いませんでした。
それがかえって後ろめたいと言うか何と言うか…私の性格を知っていたかのようですね。

中二になり「さすがに出来ないのは、格好わるい。絶対女の子にモテるはずも無い。」という相当不純な動機で「勉強」なるものにとりかかることにしたのです。
ですが、暗記モノは何とかなったモノの、数学は…。
「お前、出来ないのに高望みしてどうする。だから点数のとれるところだけ初めはやっとけ」
と上二人の兄たちに言われ「確かにそれもそうだ」と妙に納得し、それだけに特化する練習に終始しました。ほめるのは当然自分です。責めるのも自分(^^)

不思議なもので簡単な計算(ものによっては小学生のもの)がモノになるようになってからは、授業もまともに聞くようになり、そこそこ簡単な文章題(方程式、関数など)ならその方法が、わかるようになりました。

「毎回の定期テスト…計算などの基本問題は教科書と学校配布のプリントとワークから出てるから、それをやりさえすれば…なんだ60から70点まで狙えるじゃん。あとは、やらん。今の自分の実力じゃ出来ないし時間の無駄だ。それより、得意になった社会や英語に時間をさいてそれこそ100点めざそう。そうすれば五教科合計で…これくらいだから…よし!!やろう!!」

このやり方は高校大学そして今でも変わりありません。
今出来ないことに時間をさくより出来ることに全力を出す。
そのために自分を客観的に観るクセをつける。

今30点しかとれないのに何故80点をいきなり目指す!??
いくら本当はいいヤツだとしても、素行も悪く内申書も当てに出来ないのなら何をすべきか考えたか!?
 自分が、この先何になるにしても、目の前のことが出来なくて大層なことは絶対出来ないだろう。例え失敗しても成果がでなくとも、納得いく練習そして勉強はやるべきなのです。
そうする行為こそが、それからの自分を育てていくものだということ
を忘れないで欲しいですね。

 どうしても出来ない好きになれない教科というものは、あるものです。
そんな場合は、その教科の全てを自分の好きなことに当てはめ考えてみることをお勧めします。
私たちの場合、カラテに関することでしょうか(^^)

「せいけんってどんな漢字、けりってどう書くのかな」
「カラテを放課後一生懸命練習してるって英語でどう書くのかな」
「身体が強くなる為の栄養って…突きや蹴りが強くなる為にどうやって身体が動くのか物理でわかるんだ…」考え出したら、それこそキリがないくらい一杯あります。それを子供たちが自分で見つけ出し喜んでたらシメタものです。
(あっ別にカラテに限らずです。私が中学校のときは、漫画であったり好きな外国の歌だったり…女の子受けするから(^^) 社会のノートなんか完全にオタクの世界でしたからね。先生に呆れられたのを覚えていますし、どうやらその遺伝子は娘に往ってるようで…。

 つねづね子供たちに言ってます。
「この頭一つでカラテも勉強もそして遊びも全部やってるんだよ!!だから、みんながやってることに何一つ無駄なことなんか無い。全てが一つのことに一つが全てのことに通ずる。」
さて、みなさんも新しい学年そして環境を迎えられる良い機会です。
いろいろなことに「挑戦」そして良い失敗経験を重ね自分を成長させましょうね。
何かありましたら、いつでもカウンセリングは引き受けますよ(^^ )
特に私たちの団体の生徒(道場生)たち優先です(^^)
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by katsumi-okuda | 2014-03-03 00:25 | 教育

大会思考…そこでしか得られぬもの

「試合が出来て、楽しかったです」
一般部の決勝戦後、ケントとアキヒロ君二人が、口を揃えて言っていた。
自分の道場生のケントは無論の事、福島門馬道場のアキヒロ君も良く知っている。
だから、二人が決勝に上ってきただけでも、正直ほっとしたし嬉しかった。
ここまできたら後は、お互い悔いのないよう全力で…

そして、その通りにお互い全力で相手を攻め立て、潰し合う。

「その一時の為」に、切磋琢磨してきた。
日々の生活の中や稽古そして指導の中で呻吟とした時を過ごしたからこそ生まれる。
本当の気持ち、そして言葉だったのでしょう。

全力で向かい合い真剣に鎬を削るその姿にこそ真に得られるものがあります。
特に若いうちや子供たちの時分に、その多くを経験してもらいたいと、こんな時切に思います。

勝って嬉しい気持ち、負けて悔しい気持ち。
一人て対峙するからこそ感じられる大きな「糧」を得てもらいたい。
そこから「人」としての「強さ」「弱さ」をしっかりと受け止めてもらいたい。
そうすることで本当の「優しさ」「思いやり」を見つめることが出来ることを知ってもらいたい。

試合の効用の一つとは、将にそのことだと思っている。
一人で立ち向かい、引き受けなければならない怖れ、焦りを…
一人で戦う事の辛さや厳しさ、そして、そこから得られる喜びも…
それら全てを体験してもらいたい。
そして、それが今は多く誰でも決意さえあれば体験出来る環境があるのだから無駄にして欲しくはないですね。

勝つにせよ負けたにせよ、そこから「次」を思考しまた新たな「悩み」を抱えるのです。
それこそが「成長」という名の「修行」なのだと確信しております。

今回、小学一年のハルト君も、準優勝でした。
性格そのままに真っ直ぐ相手に向かい、怯む事無く時間一杯全力で動き続けていましたね。
最後の決勝戦では、延長二回まで戦い抜いての惜敗でしたが、ともかく立派でした。
疲れただろうし負けて悔し涙を浮かべていました。
でも、それが本当の気持です。
勝ちたかったことでしょう。
そして、これからさらに本当に強くなっていく為に何が大切か考えていきましょうね。
(試合明けの次の日も、試合に出た子供たちは稽古をしていたそうです。本当に偉いですね。)

確かに今回は「勢い」で勝ち上がったといえるでしょう。
でも、その「勢い」とは、とても大事なものです。
それをなくす事なく、ふだんの稽古をしっかりと積み上げてもらいたいと思っています。

今回、惜しくも戦績を上げられなかったお友達も多くいました。
でも、なかなか勝てない難しさと悔しさを感じたことだと思いますが、それこそが大事な経験です。そのことを忘れず次に活かせるようにしましょうね。

少し勝つと大人でも子供でも「技に走りがち」になります。
なまじ「技」にとらわれると、試合そして組手の本質を忘れがちになるものです。

本当に強くなると言う事は、真面目に稽古に取り組む事も大事。
そして、それ以上にふだんの心がけが大事だと私は解しています。
ふだん相手の気持を正しく察し、心を動かし尽くすこと。
周りの状況・環境に即し自身を適応させる気持の柔軟性と集中力。
相手を慮る「心と気持の大きさ」を養う事。


ふだんの生活の何気ない「心遣い」。
それこそが、強くなる最良の秘訣
だと私は思っています。
相手の事を考えず我ばかり強くても、太刀打ち出来ない事は多いものです。
組手でいえば相手の攻防を考えず、我武者らに向うことばかり考えたり、技にだけ走れば足下をすくわれる道理があるということです。

ふだんに心遣いを整え、稽古で考え懸命一心に努力し、試合で無心に相手に合わせて戦うとは
そのことを指します。
それこそが、自身を鍛えるということに他なりません。
また、それらの行為こそが「自身を育てる」
ということなのです。

一時の勝ち負けに囚われず、次を見据え歩を進める。
その歩を止めぬ者こそが「強者」であり「成功者」なのです。
今、勝った者は、また勝たねばなりません。
そして、負けた者は、勝ちにいかねばなりません。
どちらにせよ、その行為こそが「勝者」
なのだということを忘れないで頂きたい。

最後になりましたが「神奈川県大会」を主催された釘嶋師範始め道場関係者各位の皆様方、並びに引率されたご父兄の皆様方、本当にご苦労様でした。感謝申し上げます。
そして又、次の大会に向け、どうか道場生そして子供たちの為、後押しを切にお願い申し上げます。
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by katsumi-okuda | 2013-07-09 01:59 | 教育

本当の「量の稽古練習」とは

 残暑…という言葉が、こんなに似合う時節もありません。
というくらい日差しが、厳しい。特に夕方の日差しは、堪え難いものがありますね。
皆さん、あと少しですので体調崩さぬよう勤めましょう。

 さて、そんな中、夏期講習中です。
私たちの講習の基本は「自主学習」です。
私たちの受験生(と言っても、その大部分が道場生)は、皆黙々と問題集に取り組んでいます。
極力、講義・説明は、必要最低限にして、練習量を多くしていく。
それによって「練度」を上げていく。

得意なものならいざ知らず、不得意なものを「それなり」にしていこうというのです。
練習あるのみなのですが、大切な心得があります。
「今日、やった分は覚えたつもりでいく。明日例え忘れても気にしない。まず、覚えようと心する」
出題頻度の高い問題は、何度でも繰り返し、その形に慣れ理解していくこと。
それが進んでこそ次の「応用」の糧となる。


得意なものは、それ以上に高見を目指す。
不得意なものは、まず「基本点」を確保出来るように努める。

大体、このことを厳守出来る者なら容易に成績の向上・成果はあるものなのです。
そして、その結果として「勉強の量や時間が増える」ということなのです。

 数や時間を競うのが、勉強そして稽古ではありません。
努々(ゆめゆめ)そのことだけは、稽古・勉強する者として忘れてはならぬ
ことです。
何事も、どんなに簡単な事でも意識して行わなければ無駄になるのが、世の常。
「慣れ」に流されぬよう「質と密度」の高い稽古そして勉学に励まねばなりませぬ。
限りある時間、何の為にその稽古をしているのか熟考しながら臨む事が肝要。
そして、その結果「時間」そして「量」が多くなるだけの事を思う。

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by katsumi-okuda | 2012-08-18 00:53 | 教育

八月…その過ごし方

 昨日の午前中、娘の三者面談があった。
高校受験を控えての担任の先生からのアドバイスと現状報告。
なんか…変な感じであるし、少し緊張しました。
というのも、いつもなら立場が、逆です。面接をする側ですから何か不思議で興味深い感覚でした。

 当日、校内の古びたペンキ剥がしを先生・職員総出でやっていました。
加えて校外の除染作業も…先生方も大変なことです。もう少し余分な作業が、少しでも減り、本業に時間が割ければいいのにと思ってしまいました。

 さて、二三十分の面談でしたが、総じて娘への「叱咤激励」で終始していました。
どうやら先生は部活(多分、野球だと思われます)の方法論を勉強に持ち込み、クラスの指導に当たっているようです。「夏休み中、少なくとも四百時間は勉強するように」「まずは量をこなせ」と…

 わからないでもないのですが…
口は挟みませんでしたが、私の意見とは相違があります。

勉強にせよ何にせよ、結果が出なければならない。そのため自分にあった方法論をとるべきだ。」
「単に時間の長さや量を競った練習は、自己満足に陥り易い。大切なのは、その深さであり、結果、学習時間が、延びていくに過ぎない事を忘れてはならない。


まずは、自身の強いところを徹底的に伸ばすこと。そして次に、欠点を熟知客観視し臨む事が大事。
30点しかとれない教科をいきなり80点にするのは無理がある。ならば確実に50点以上をまず目指す練習を心がける事が必要。


点数そして成績を上げるとは、例えば受験する選択の幅を広げられることに等しい。加えて自身の可能性の幅を無限に広げられることを意味する。」

 これは私見ですが、当たり前の事なのですが目をそらしている現実があります。
それは「受験校選び」についてです。
「あの高校より、こっちの高校の方がレベルが高いから…」などとよく耳にしますが、本当のところを観ていないように感じてなりません。
例えば、隣の県のトップの公立高校を知っていますか!?
いや、同じ県内でも遠い学区で、どこがトップかも定かでない事が多いのではないでしょうか。
まして、大学受験に際し実は、高校の名前は、どうでも良いとさえ言えるのです。
要は、大学受験や自分の希望する道に到達するために最適な高校を選択することが重要であって、ましてや親の希望などは、二の次三の次でも良いのです。高校に行くのは生徒達自身
なのですから。

その生徒の資質・性格等に最適な学校を選択することが第一です。
そして、そこに正しい情報と適切なアドバイス・サポートをするのが、親そして先生の役割だと思っています。過去に無理強いし、自分の意にそぐわぬ選択をし結果、その学校を早々に止めてしまった生徒達を何度となく観ています。また、決して点数的に高い高校ではないにもかかわらず、自分に合う環境と友達そして先生に恵まれ、目標をもって立派な社会人になった生徒達も数多く観てきています。

 周りに流され何となく選んだり、親の虚栄心のためにする最悪の選択だけは、決してしてはならないのです。あくまで「行って勉強する」のは本人なのですから。
そのために今出来る事の最善を尽くせるようにしなければなりません。

 難関の大学を目指すのなら、それに相応しい指導体制の整った高校を選択し勉学に勤しむべきです。
また、自分の可能性にまだ漫然とした迷いがあったり自分の趣味や部活に励みたいのなら、それらの選択の幅の広い指導がほどこされる高校がよいでしょう。
高校とは、次のステップの為に大変重要な役割を担っているのです。
ですから、方向違いの選択にならないよう注意しなければならないのです。

どちらにせよ、この夏をどう過ごしていくかによって、その方向性は定められていく事になるのです。
そして、それらと自身を良く客観視し勉学に励んでもらいたいと願うばかりです。

ちなみに、私の道場生のうち受験生は何人かいますが、上級者特に黒帯の連中の心身の集中力は、改めて目を見張るものがあります。一芸に秀でるとは、こういうことだと思っています。
それぞれの実力を良く客観視し、それを補い向上させるべく一日五時間以上の「勉学」に励んでくれています。その成果は、遠からず出る事でしょう。否、出させてみせましょう。生徒たちが、頑張ってくれているのに指導する私が、手を拱いている場合ではありますまいて…。
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by katsumi-okuda | 2012-08-01 03:34 | 教育

物事の起こり

 梅雨の戻りのひと時、相当肌寒い。
昨日までの気温差が、十度以上とは…
来週からは、夏本番。少し身構えてしまう。

 どうしても、書かねばならない。
市井、私塾そして道場を持つ者として、また一人の親として。
どうしたことか、世の中には何事も「流行り」のようなものがある。

ここ一ヶ月の間に見聞きした「イジメ」による自殺とそれに対応する大人の不甲斐なさ、そして小学生を暴行した中学生達が、その様子をネットで流す。そして、2Fから飛び降りを強要し重傷を負わせた…。

そんなことを聞くたびに「何をしているんだか…」と暗澹たる想いに苛まれるのは、私一人ではない。
一人の親として大事な子供達を預かる大人として深く心を砕かねばならないと思う。

 これは、私見である。
どんな文献にも載ってはいない。
しかし、子供を持つ親は、そして私たち大人は、あることに気がついているはずである。
子供は、どんなことにせよ純であり無垢である。たとえ、それが大人から見て悪であっても」
「子供は、教えられ続けない限り社会の成り立ち(決まり事、礼節)を使えない」
「子供の道徳教育の要の第一は、親そしてその周囲にいる大人にある」


 例えば、二三歳児は、小さな虫を平気で踏みつぶしていく。
例えば、教えられなければ自分の本能・欲求の趣くまま相手構わず行動に出る。
例えば、「氏より育ち」は、確かにある。音楽に造詣の深い家庭では、それに準じた環境と何気ない教育が施され、それに呼応するようにその子供は、他の子供たちよりも、遥かに音楽に親しくなる。
また、親が熱心にそのことについてその環境と教育を整えていく場合も、それに近い。
ただし、そこに親の性格・客観的見方による行動規範がなされなければならない。
例えば、どう見てもその競技に向いていないのに頑に勧める大人や自分の言動のいい加減さを棚に上げ子供に辛く当たる親。そのどちらも、子供たちからしたら理不尽であり反発の火種にしかならない。

 卑近な例えで申し訳ないが、自身のことと自分の娘について述べたい。
私も、低学年の頃、当時珍しかったバイオリンや美術の個別指導に行かせられていた。
しかし、全く興味を覚えず瞬く間に止めさせてもらった記憶がある。
その後、病弱だった私は、ただ漫画を読んだり書いたりすることで日々の慰めとしていたが、親はそれを許容してくれたし応援してくれた。それが何になるともわからないが、子供が喜んでやっていることなら認めよう。ただし、決まりは守ろう…そんな感じの教育を受けていたように思う。
親は、古いタイプの方達だったせいか、礼節・規範・決まり事を厳守することに厳格だった。
当然、親本人もそうなのだから子供は、従うしかない。
そして、それが私自身の行動様式となるのに、そう時間はかからなかった。

そして、その中に「決して弱いものイジメはするな。弱い者の味方をしろ。」があった。
身体が脆弱だったころは頭を使った。長じて体力がついてきてからは無論喧嘩もした。
しかし、当時私に限らず子供たちの多くは、弱い者や下級の者との喧嘩は、なかった。
無論、そんなことをする輩もいないではなかったが、どこかに社会の規範があったように思えてならない。確かに昔の事を良き思い出にしようというノスタルジックな感性なのかもしれないが、それでも、そのことについて当時の子供たちは、今ほど頭そして心を悩ませてはいなかったのではないだろうか。

 娘は、生まれた時から目が悪く眼鏡をかけ、ましてアレルギーがある。
当然、運動経験が落ちる。ただし、生まれもった体格と体力指数は高いものがある。
そのため、それに囚われない水泳と空手だけは続けさせた。
無論、空手に関しては娘であることを割り引いても、私のようにせよとは言わない。
個人の意志を尊重する。そして、私が絶えず書籍に向かっているものだから娘も、幼い頃から読書を良くすることとなり、今では俗にいう「歴女」であり「アニメ」に傾倒している。そんな彼女の姿からこれから何になっていくのだろうと想いを巡らさないでもないが、所詮彼女自身によるしかないと思っている。ただ、そのためになる術は、準備させておこうと考え実行している。
つまりは、人との関わりの中で生きていく以上、礼節であり規範尊守であり物事の有り様をその都度伝えてはいる。幸い争いごとの嫌いな性格で普通の受験生に育ってくれている。
あれが出来ないこれがどうしたと言いながら苦闘している姿は、やはり私の昔を見ているようでもある。


 イジメに始まる様々な問題に関して未だ有効な策は講じられていない。
そして、その最前線にいて子供たちの救いになれるのは、やはり学校の先生でしかない。
友達や親には、言いにくい。それを察してあげられるのは現場の教師でしかないと思っている。
現場で身を粉にし戦っている諸先生方も、多くいることは知っている。
だからこそ余計に学校や法の整備を充実させてもらいたいと切に思う。
多忙過ぎる、点数主義に陥る今の教職の世界では、その力は決して活かしきれない。

 そして、私たち親も絶えず自戒し学ばなければならない。
日々の生活の中で子供たちとの接点をどのようにもっていくかは、難しいものがあることはわかる。
それでも、子供たちとの何気ない会話や共に行動する中でさまざまなことを伝えてあげて頂きたい。
加えて私見を申せば「今の子供たちは、幼すぎる」ということ。
何がいけないことで、やってはいけないことかは小学校に入学する以前に教えられていなければならないはずである。そこに無策な自由・奔放主義は、いらない。例え厳しくとも、それだけは過たず甘やかさず教え諭さなければならない。

 私たちはその稽古の特性上、そのことを尊守し厳格に伝えている。
「殴られたら、どんなに痛いか。蹴られたらどんな気持ちか。それを試す場は、道場もしくは試合しかない。痛く辛い思いをして学ぶ事で本当に成すべき事、やってはならぬことを学ばなければならない」
「本当の思いやりとは、自分が強くなければ育たない。心身共に強さがあればこそ人に何をしてあげられるか余裕と真剣さをもって応えられるものである」

幼い子供たちには、難しい話しかもしれない。
しかし、このことが本当に理解し実践し身に付くまで私は、説き続ける。
つまりは、教え伝える側の信念がなければ、ならないと思っている。
子供は、いつでも親をそして大人を見ている。
その大人たちが、曖昧な道徳観をもっていてはならない。
親や近々の大人の道標こそが、子供たちの規範となる。

では、子供たちがイジメにあったり、したりした場合の対処はどうすべきなのか。
それらは、その時々と場合によっても大きく隔たりはあることだろうと思う。
しかし、どんな場合でも親は毅然とし冷静、客観的に、それに向き合う姿勢があらねばならないことだけは事実である。それらは、どんな些細なことであってでもである。
親や大人が、一々ぶれていては話しにならない。


だからこそか、私は思う。
親御さんや教職につく皆さんにこそ、私たちの武道をやってもらいたいと切に願う。
自らを厳しい場におき、自らを省みてこそ人と真摯に向き合う事が出来ると確信している。

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by katsumi-okuda | 2012-07-20 17:00 | 教育

特に若い頃には…

 昨日、中学の娘が修学旅行に行った。
今の修学旅行は前日に大きな荷物を学校でまとめて宅急便で送るそうな…帰りも、同じく。
まぁ確かに大荷物抱えた元気な団体さんは、車中でも何かと傍迷惑だからか。
効率と利便性を考慮すれば、それもアリなのかもしれないが…
なんか、釈然としないのは、それこそ歳のせいなのか…。

 私が中学の修学旅行の時は…って今から…四半世紀前ですが、品川から東海道本線で十時間近くかけて奈良に出向いた。その車中、停車する駅の風景(工場地帯とか漁港とか…)を事細かに車中でレポートさせられた。まさに「修学」の極み…帰りは、大荷物抱えて「夜行」で帰ってきた。
それはそれで良い思い出だったが、今とはやはり、何もかも違うことに感慨も一入(!?)。

 さて、そんな彼らも帰宅するとすぐに一学期の期末考査。
そして、三者面談と続き、いよいよ「受験」も本番になる。

 そんな子供達を観ていていつも思う事がある。
歳に関係なく、いち早く「あること」に気づいた子供達は、おしなべて「大人の感性」に近づき、物事の収束に対応出来るようになっていく。

 その「あること」とは、「気付き」
例えば、いつまでも「勉強が嫌いだから出来ない」「あの教科は嫌だから…」「あの先生がやだから」
などと、子供じみたことを言っている人たちは、なかなか成績も上がらずに苦労することが多い。

確かに好きになれるよう、教える側も創意工夫は施してはいるが、いつまでも、それに「甘え」ているようでは、先がなかなか開けないもの。

 それに比べ「嫌いだけど、あるものは仕方ない」「やるだけやろう」「この教科は苦手だから、この点数まではとろう」という「積極性や客観性」なり「ある種の義務感」を自分で見定めた人たちは、往々にして成績が安定または向上することが、多い。

 つまり、いい大人が、自分の今の仕事に「嫌だから今日は行かない」などと「駄々を捏ねる」ような真似はするはずもない。当然ですね(たまに、そんな大人もいないではないが…)

ではそれは、どうしてそんな感性を持つに至ったか。
とりもなおさず、小中学時代にやらなければならないことを自然に身に付けていたということ。
そして、それらが、例え理不尽であっても、耐えて自身の糧とする術を知らず知らずに学校という「社会」で身に付けていた
ことに起因もする。
無論、親の考えや育て方も、大いに関係していたことだし、その時代背景もそうだったのかもしれないが、ともかく、その意味でも、今の子供たちには、その耐性を身に付けてもらいたいと願うばかりである。

 無論、これらは私の私見でしかない。
しかし、そのことを事実として見聞してきた者として私は、子供たちや若い人たちに伝えたい。
勉強して良い学校に入った。いい会社に入ったから素晴らしいのではない。
では何故勉強するか。
それは、その過程を懸命にやったことに大きな意味がある
ことを知ってもらいたい。
一見、無駄な勉強に見えるものも、事実。
こんな勉強やったってと思うのも、やはり事実。
だが、それでも、その無駄な事を丁寧に正しくこなせたという事実も、あることを忘れないでもらいたい。その一見無駄な事を精一杯出来る者こそ社会に出て、臨機応変に頭と心そして身体を使いこなせるものだと考えてもらいたい。生来、何もせずに頭と知恵を駆使し社会を渉っていく強者もいないではない。しかし、それは全体から観れば、やはり少数であり、彼らは彼ら也に頭を使っていることを見逃してはならない。

 本来大多数の人たちは、そのような「勉強」を通じ、社会に適応出来る「頭」と「感性」を磨いているのである。それを完遂出来るか否かが大事だと思い定めてもらいたい。
「下足番なら日本一の下足番になってみろ。そうすれば、そんな君を誰も下足番になんぞしておくものか」とは有名な格言であり、その通りだと私は確信している。

「若い頃は、一途に一つのことを追求しなさい。必ずそこから次のものが現れるのだから」
総裁も、そんなことを私たちに仰って下さったことを覚えている。
一つの事に確信を持ち、迷わず、突き進むことも時に大事。
特に若い頃は、それでいい。
例えば、黒帯を目指すのもいい。
大会に出て優勝を目指すのも、またいい。
それらは、若い今だから出来ることかもしれない。
確かに歳をとっても、いろいろなことで達成も出来よう。
しかし、やはり若い頃にやるものと、それとではその密度や大切さは大きく異なる。

今与えられた物事に対し、最上級の努力をすること。
それは、当然至難のことでもあるかもしれない。
しかし、それが出来るものは、その先が、自然に見えてくる。

そして、手にする事が出来ることを忘れないでもらいたい。

私は、あまり座右の銘というものがないが…
あるとすれば「一意専心」かもしれない。
つの事に嘘でも良いから自分に確信を持たせ、突き進む。
一見、無謀とも思える算段もでさえも…。
私は、自身の稽古や鍛錬によって得たものがあるとすれば、その「自信」であり「確信」である。


…続けていく事で凡人の自分でも、必ず何かが見えてくるはずだ。
きっとそうに違いない。
今は負けていても、続けていれば相手が負けるかもしれない。
いや、この勝負の世界からいなくなるかもしれない。
そうすれば「生き残り、続けた私」は、勝つに決まっている。
ならば、この稽古と鍛錬を何も言わず、ただ「続ければいい」
絶対そうなると確信している以上、続けない道理は私には、ない。
…これが、私の稽古を続ける一つの理由でもある。





 
by katsumi-okuda | 2012-06-23 02:48 | 教育

学ぶとは…

 長く教える事を生業としていると確信することも多くある。
数多くの学習法なり教材なりが、今では簡単に手に入る時代です。
しかし、出来ないことを出来るようにする方法とは、所詮、ただ一つだけ。

 それは「自分で練習する事」につきる。
初めに覚えなければならない物事(重要項目、公式、単語etc)を徹底的して覚えてしまう事。
この方法論は、長く勉強法の王道とされています。例えば、幕末から明治初頭にかけて国内外で活躍した多くの人たちは、この方法で活路を開いていた。数少ない教材をそれこそ頭から全て暗記してしまう。
そして、そこから応用を繰り広げていく。まるで頭という冷蔵庫に入りきらない程の材料を蓄え、必要に応じそれらを調理していく様に似ている。

 頭に物事が入っていなければ、次の一手は浮かぶものではない。
それらが、しっかり頭の中で定着しているからこその応用。なのに今の人たちは、そこのところを勘違いしているふうがみえる。確かに楽して物事を展開していきたい気持ちも、わからなくもない。楽しく物事を繰り広げていきたいのも、わかる。
 しかしだからと言って、大切な「初めの一歩」を疎かにしてはならない。
それこそ「基本が出来てなくて何の型か組手か!?」ですね。
強ければそれでいいとばかりに手足を振り回していても、所詮行き着くところは浅瀬だけです。
ブロークンな会話で英語が話す事も出来ます。
しかし、そこまでですね。
心の機敏や相手に対しての思いやりを簡単な言葉で表現出来るのは、やはり「美しい形」があればこそです。

私たちの組手も、それに等しいものがありますね。
強い上手い人の組手は、例え無数の打突の最中でさえ「美しい」ものなのです。
どんな物事でも、強く上手いものは「基本に則った美しさ」が伴うものなのです。
ですから私たちは、基本をそして型を重視しているとも言えるのです。

さて「学ぶ」とは、どういうことでしょう。
私見ではありますが、効果を見せている一例があります。
「教える事20%、練習に80%」という捉え方です。
沢山教えられて「出来た気」になっていませんか!?
本当に大事なのは、基本等の定着です。
知らない出来ないことを心身に定着させていくには、それ相当の時間と労力が必要です。

それを知っているはずなのに、人は楽をしようとします。
好きな物事や少し出来る事ならば、それも可能でしょう。
ですが、再度言います。
出来ない嫌いな事を出来るようにするのです。
そのための時間、労力は覚悟しなければいけませんね。

 そして「学ぶ」ために大事なことは、自信の「強い気持ち」です。
出来るようになろうとすること。そのために必要な心構えを整える事が肝要です。
出来るようにやれるようになろうとする人とそう出ない人とでは、その効果に大きな開きがあります。
それを第一に忘れないようにしなければならないでしょう。

 次に例外なく「出来るようになる人たち」は、素直です。
自分の確かな意見を持ちながらも、出来るようになろうとするとき、人の教えを正しく請い、そして正しく実行出来る素直さ真摯さを持っています。
(中には、天の邪鬼な性格や変わった人もいますね。でも、そんな人たちでもやはり、出来るようになる人たちは、素直・愚直なのです)

いくつになっても、そんな素直で愚直な姿勢を私たち大人も忘れてはならないと思っています。
「子供は、親の写し鏡」なのです。親や周りの大人が率先して懸命愚直な仕事、そして礼節を積むからこそ子供は、それを学ぶとも言えましょう。
出来る事なら、子供たちには辛い厳しいことかもしれませんが、大切な事は少なくとも三〜五年は言い続けたいと思っています。今日言って出来る大人はいないように、まして年端もいかない子供たちです。出来るまで心身に定着できるまで辛抱強く、そして丁寧に教え伝えていきたいと思っています。
by katsumi-okuda | 2012-05-25 16:44 | 教育

よい経験を

 ここ二日ばかり、世の中は楽しく嬉しい出来事が続きました。
前日、早起きして(というか、前日帰宅が遅く二時間しか寝てない…)「金環日食」を!!
薄曇りの中、眼鏡のせいかオレンジ色に揺らめく太陽には、少なからず興奮しました。
あと18年後、北の地でも、観れるそうですが…
その時の自分の年齢を考えると…相当、複雑な気持ちになりますね。

 そして、今日は冬のような肌寒さと雨模様の中「スカイツリー」の開業に湧いていました。
墨田区の彼の地は、父方の親戚が住んでいますし、小中学生の頃、幾度が訪ね歩いた地ですので何気に馴染みがあります。東京に新たな観光地が増える事や地元が、賑わう事は嬉しいと皆言いますが、それでも、今までのある種長閑な下町の風情が、かき消されそうなのは、どうなのかなと人ごとながら、少し戸惑いもあります。
 しかし、ツリーに上れるのは、しばらく後になるでしょうから当分は、その周辺にある七福神巡りでもしようかと、考えています。ちなみに、私の地元から東京に車で向かうとツリーは、いつでも観られます。なんか少し得した気分でもあります(^^)

 
 さて、中学生以上は「中間テスト」の期間中です。
試合と同じように頑張ってくれればと思うのですが…なかなか…です。
出来ると出来ないの中に好き嫌いを入れて考えない
出来ないから嫌いという気持ちは、わからなくもないが、それをいつまでも引きずっていては、出来るものも侭ならない。そして、それを振り切るのも、やはり「自分の強い気持ち」なのです。
しかし、それが頭でわかっていても、出来ないのも人間なのですが…。

 どちらにしても、試合にせよテストにせよ、負けていい気はしません。
しかし、その「負けた」ことをどう捉えるかが、大事。
負けた事は、いいことではない。
でも、それを「よい経験」にするか、しないかは、自分次第
なのです。

 何故、判定で相手に旗が揚がってしまったのか。
相手より何が自分が、劣っていたのか。また逆に何が、よかったか。
それを考えられるようにならなければならない。
そして、何より負けていつまでもくよくよしたり、投げ出したりしてはいけない。


試合もテストも、ふだんの「一葉」でしかない。
ふだんの「行い」が、その全てなのです。
そして、ふだん懸命に努力しても、なかなか結果がついてこない事も知らなければならない。
でも、それでも、平生にふだんを通さなければならない。
それらを知る事も、試合そしてテストなのだと知ってもらいたい。

 楽しい事や素晴らしい事を知る事も大事な経験です。
しかし、嫌な事辛い事厳しい事を知る事もまた、大事な経験ですね。
そして、それらにどう立ち向かっていけたか自身を顧みる事が出来るよう
努めましょう。

 本当にそれらが、理解出来た人たちは、瞬く間に「次の階段」を上がっていける事を知って下さい。
そして、それは誰にでも出来る唯一の「技」なのです。
人というものは、やれると思った瞬間からもう出来るようになるのです。
明るいと信じたその時から周囲は、一気に明るくなるものなのです。

 長く教壇にいると本当にそんなシーンを見かけるものなのです。
それこそ、次の瞬間からその人は「出来る仲間入り」をしているのです。
まずは、自分に何が足りないか何をしていくべきか自分で探しましょう。

総裁に言われた事を思い出します。
相手だって人間だよ!!手足だって同じ本数しかないんだから!!相手が二倍やったら四倍やんなさい。
それでも駄目だったら何倍でもやんなさい!!きっと出来るよ!!」

無茶なように聞こえて、なんと含蓄のある言葉でしょう。
そうですね。今の少なくとも二倍やりましょう。
絶対、成果は出てくるものです。
例え苦手な勉強でさえね!

かく言う私も、ある時まで全く出来ないヤツでした。
でもある時、閃いたのです。
教科書、全部覚えりゃ何とかなるかな…いや、きっと何とか成る!!
かくしてこの無謀な挑戦は、ある教科に限って劇的な成果を上げる事が出来ました。
つまり、暗記すれば次の日からTOPに並べる教科です。
そして、その自信を糧に他も、何とかやれるまでになったのです。

そして、中学時代の貧相な身体をも、それで突き動かしたのです。
二十回もできなかった拳立てを朝、昼、晩、三セットずつ…
一年も立たないうちに100、300、500回と出来るようになっていきました。
すると、そんなに筋肉はついていないにも関わらず、当たり負けのしない身体がいつの間にか出来上がっていったのです。

何でもそうですが、出来ないなどと考えないことです。
また逆に強く出来るようになろうなどとも考えないことです。
実は、それに成るまで「何も考えない」ことが大事。
つまり、くよくよ考えたり悩む暇なく、やり続ける事が大事。


なかなか覚えられなくともいい。
全然、上手くならなくとも気にしない。
ただ丁寧に淡々と進める事。
そして、少し出来るようになると…景色が変わってきます。
出来ると感じたらシメタものです。
そこからは、加速度的にやれる自分がいますから調子に乗って頑張らせましょう。


 私は、今になっても、そんなふうに稽古そして勉学に向き合っています。
まずは、何も出来ない自分をしっかりと見据えましょう。
そして、そうだからこそ出来る自分が、眠っていることを知りましょう。
by katsumi-okuda | 2012-05-23 01:03 | 教育

自分という力を信じること

 大方、受験も終わり、それぞれに進学する所が決まりだし、少し落ち着きを見せてきた。
志望するところに晴れて合格する者、そして、そうでない者も、等しく春からは「新しい年」の始まりとなる。

 さて、いつもそんな時、話しをすることがある。
「例えば、私たちは千葉の北西部にいる。そこで千葉の南端にある有名公立高校を知っているか!?また、隣の県の有名公立高校の名前を知ってるかな!?」
「大抵は、知らない。よほどのことが無い限り、少し距離が離れたところの高校名などは知らないのが当然。これは、私立にしたところで同じこと。」

 ちなみに私も大学に入った時、新しい友達に自分の出身校の話しをしたことがある。
千葉では当時も今も、進学高として有名なはずなのに、誰も知らなかったことにびっくりした。
そして、友達の他県の高校名も分からなかった。というか知らなかった。
その時、お互い気まずい雰囲気になったことは、いうまでもない…

 なのに何故では、あそこの高校に行きたいとか。成績の上位の高校が、いいとか言うのかな!?
無論、その高校に入りたいという確かな希望動機がある場合は、いいし、そのための努力は素晴らしいと思う。でも、ただ何となくだとか親や先生が、受けろというから受けたというんじゃ意味が無い。

大切なのは「学校名」ではない。
それよりも、大事なのは「自分の気持ちで選んだ」ということ。
入学して頭角を顕わしていく生徒達は、皆そうだ。確かな目的もと、勉学や部活そして交友関係で輝いているのを目にする人たちは、そんな人たちなのです。

名前等に惑わされること無く、確かな目的や目標の為に精進することは何にまして大事。
今の時代、名前だけでやっていけるほど甘くはない。
どうやって自分に実力をつけていくかが、大切。
勉強にせよ何にせよ、そこに自分がなければ何にもならない。
大切な時間を大切に過ごしてもらいたいと思う。

自分という力を信じ、その可能性を広げること。
そのための一つの方法論として受験が、あると思っています。
だから、出来る条件がそろうならば、迷うこと無く、あえてその苦難の道を進むこともまた正しい。

何も、身に沿わない背伸びをしろと言うのではない。
自分の今を知り、その中での精一杯の努力をすることが大事。
その先に自分の器が、広がるならばまた先を目指していく。
人とは、そうして成長していくものと知るべきなのです。

小さな目標一つこしていき、そして先を観て、また一つ目標をこしらえ挑んでいくこと。
その繰り返しこそが大事。
確かに幾度となく挫折や苦悶もあることでしょう。
でも、それを乗り越える、乗り越えられる自分を毎日の営みの中で造らねばならないと知りましょう。

例えば、志望する学校に入れなかったとする。その時、どうするかどう考えるかが大事。
大切なのは、その先である。
他の学校に入って何をするか。何を達成出来るか考える。
そして、挑んでいくことが何より大事。

一つの試合に負け、悔やんで腐るようでは半人前も甚だしい。
負けたからこそ、次に挑むことを止めない姿勢。
そして、そのために何をすべきか必死に考え実行していくこと。
それを幾度となく繰り返すこと。
本当に「強くなる」とは、そういうこと。

出来ることなら、入った学校で「何かTOPになろう」と考え、そして実行してもらいたい。
それが、進学していく人たちへの私の餞の言葉…。

…春は、もう近い…

…まだ寒いけどね(^^)

笑顔で、まずは残り少ない「今の制服」と楽しんで下さい。
by katsumi-okuda | 2012-03-10 03:14 | 教育