武道カラテ稽古日記

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私見…競技における「型」の基準値

 まだまだ寒い日々が、全国的に続いています。
それぞれの地域で稽古に精進されている皆さん、くれぐれも無理のないようお努め下さい。
私といえば「左足小指中足底骨骨折」から一ヶ月と半分ほどが過ぎ、いろいろと気づく事が多くある今日この頃です。元々、左腰痛の持病(!?)をもっていたのですが、ふと気がつくと痛みが殆どなくなり、代わりに右の腰が、痛く張りが、ある状態になっています…どれだけ今まで左足重心だったことか、よく分かった瞬間でもあります。特にこの骨折した骨は、身体の重心に深く関わりのある骨だと聞いて納得しきりです。

 さて、引き続いて「競技」で行う時の型の判定基準について私見を述べておきます。
一般の観客の方、そして関係者の皆さんが、型の競技を観覧され、どこをどう観ればよいか。ふだんの稽古でどのような注意のもと行うべきか一助として頂ければ幸いです。
ただ極真の場合、型を習った(つまり現在、指導されている先生方)時期や教えて頂いた諸先輩、そして先生によって、幾分かの相違が生まれた事実がありますが、この件に関しては別項としたいと思いますので、その点ご容赦下さい。
あくまでも「競技としての見方」に焦点を当てさせて頂きます。

まず、大変観念的ですが「美しく見えるか」「見えない敵を実際に相手にしているように見えるか」が
基本にあります。その型を知らない一般の人たちが、観戦され、そう思われるならば一つの答えとも言えます。そこから私たち(審判)は、細かい視点に立って、出来る限り「客観的評価」を下していくことに腐心しております。

一、基本的なことが出来ているか。
 試合に出場してくる人たちですから、その点に関しては、ほぼ完全なはずですが、知らずについている「癖」が、ままあることがあります。あくまで実戦を想定している世界ですから「使えない形」は、どんなに論があろうと通用はしません。
例えば、拳がきちんと握れているか。手刀が正しい形になっているか。正しい「姿勢」で立てているか。その正しい姿勢をその時々に応じ、正しい運用(方向性も含め)が出来ているか。
どんなに力強く突いていても、どこを突いているか(方向)不明瞭ではいけません。
それこそ、どんなに簡単な動作でも、的確に出来ているかです。

立ち方にしても、力みすぎ不安定な立ち方になっているものを力で押さえ込もうとしている立ち方は、「居着き」といって武芸の世界では忌み嫌われる一つです。
無論、演武の最中の「ふらつき」は減点です。足先や膝の方向が、定められた向きになっていないのもそのうちの一つとなります。
 歩を進める際の腰の上下動は、定められた動きがあるとき以外減点となります。
又、歩を進める時に極端に足裏を見せる歩き方も、よくはありませんし、前屈立ちで後ろ足の足刀部が床から離れすぎている場合も、そうなります。立ち方は、ふだんの稽古が出てしまう所ですので、普段から留意しなくてはなりません。
又、突きや受け、そして蹴りにしても「腕だけ」「足だけ」で素早く行っているようではいけません。
全身を協調させ「全身を巧く使っているか」が、大変重要となります。そうでなければ、実戦での効果的な技は、生まれないモノだと心して下さい。
あくまで「実戦を想定した型なのですから…。

二、型に「流れ」そして「緩急・強弱」所謂リズム感が、あるか。
 型を稽古して得られるモノの一つとして「流れ」があります。力任せ一辺倒になりがちでは、倒せるものも倒せないのが、実戦の世界です。それを学ぶ術の一つとして「型」はあります。
単に早い遅いではなく、相手を想定した「緩急・強弱」でなければなりません。そのために瞬発力を活かし「全身」を使った技が、まず「全力」で出せているかどうか。そして、最低限の力を残しながらも、全身の「統一感」をもたせながら「ゆっくりと正しく技」が出せているかどうかを判定します。
 ただ「ゆっくり」とやっているだけとは意味が異なります。それに至る過程でどのような所作と勢いがあったかが、まず大事となります。
無論、途切れ途切れの動きでは、型とは言えなくなりますから、それこそ心身が覚えるほど一つ一つの動きをふだんから「練る」事が大切であり、その上で「型の全体像」を推量し、定められた動きの中で「演出」していくことが稽古の要だと考えています。
そのためにも「大きく正しい形」をふだんから作り上げる事を忘れてはならないと思っています。
 どんな世界の実戦でも、本当に強く巧い人の動きは「美しく」そして故に「威力」があるのです。
汚い技で威力が認められるのは「力技」の最下位の世界だと認識するべきでしょう。

三、型に込める「意」があるかどうか。
 簡単な判断基準として「気合」や「息吹」の大きさが上げられます。
これも、ただ「大声」を出せばいいというものではありません。適切な時に適切裂帛の気合いが真から
出ているか否か。身体全身を使っての「息吹」なのかどうか。
この二点に関し満足に出来る人たちを私は、あまり見かけないのが実情です。
というか、それほど真の「気合い」や「息吹」は難しいという事です。かくいう私も、満足に出来る時は、そう多くはありません。
 たった一分前後の「型の世界」で自身の「意」を表現することの難解さ…それは、型も何も、知らない普通の人たちが、観て「何か分からないけど、凄い」と、それこそ「感じて」くれるようになるまで型を希求し表演することなのではないかと思っています。

実際には、細かい判定基準もそれぞれに存在するのですが、私は「私見」として上記に述べたような観点において型を観るよう努めております。
そして、その「眼」を養う為に人一倍「型をやり込み」人の何倍も「他の人たちの型」を観るように努めています。人様を判定しようというのですから当然といえば当然ですね。
ふだんの稽古をより正しくやっていれば、自身が知らない型(結構、世の中にはあるものです)に出会ったとしても、要諦に変わりはありません。
ですから、私にとって「基本となる型・移動」とは、自身を顧みる為の欠かす事のない「手本」であり「基準値」でもありえるのです。
 
by katsumi-okuda | 2010-01-15 01:12 | 稽古日誌