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武道カラテ稽古日記

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それぞれの相違

 よく同業(武道・格技関係者)の諸先生方とお話しをする機会が、あります。其の席上、その話しの流れに思わず「?」と思う事があります。
 それぞれの見解の相違ですから、笑って聞き流しますが、自分の本心としては、何か釈然としない事が、間々あります。

「試合を離れれば、選手でもカラテの技をもって私は、倒す事が出来る」または、極端な話しになると「路上なら選手でも倒せる」とか、かなり物騒な壮大な話しをされる方が、多く見受けられる。

曰く「カラテの目突き、金的、逆技を駆使」することを言っておられるようなのですが、何か変です。
何故なら、あくまでも戦いは、同じ土俵の上でするものであって、相手の考えの及ばない、違う事をことを行うということでは、評価に値しないのではないか。

試合では、勝てないが、路上では勝てる…では、まるで負け犬の遠吠えにしか聞こえないのは、私だけでしょうか。
ちなみに路上の戦いでも試合でも、強い者は強い…当然です。身体能力に勝れた者を相手にそうおいそれと勝てる道理は生まれるものではありません。

その高名な先生(?)方が、どれだけの身体能力を持たれているかは、伺い知れませんし、どれほどの技を有しているのか解りません。ただ、見るからに脆弱・貧相な体躯(中には、一般人にきっと負けるだろう体力の持ち主も…)から、名だたる選手を倒している姿が、想像出来ない、否出来る筈も無い。
…その「皆さん」と私が、実際に戦ってみれば良いのでしょうが、そのような展開には、未だなっていません…幸か不幸か。

 弟子との「予定調和の約束事」や「組手」において師である者や上級者は、それだけで優位です。
 弟子は、知らずに加減し、師は、弟子の少なくとも動きが理解出来ている等、精神的優位、余裕がある。そこに上の者の勝てる道理の一つが生まれる。全てではないが、少なくとも道場組手において、その現実は、存在する。

 そのことを上級者は、たえず意識し、組手の相手を務めなければ何の向上も双方に見られるものではない。
私は、選手と同等の相打ちが出来なくなれば、一戦から退くつもりで日々の稽古に務めている。それこそ、今日がその日かと…いつも「覚悟」しながら…。

  例えばグローブ(防具)をつけたスパーにしても、厳に戒める構え…相手の攻撃を受ける際、自分の腕を胸と腹の前でガッチリ密着させてガードする方法。ダメージを避けるための一方としてないわけではないが、それでは「試合」の最中そんな姿勢をとり続けたらどうか…相手は、ここぞとばかりに連打してくるだろうし、すぐさま反撃するにせよ「二の手」「後手」になり、判定の印象は、至極悪い。また、相手を反撃する攻撃は、限りなく薄くなる。つまり、倒せないし、勝つ事の難しい組手になってしまう。
結果、押し合いへし合いの「力任せ」が、顔を出す。

 腕は、攻防の為にある。
そして、構えは自身の「制空権」を作る要であり、全身のバランスの鍵である。何故、ふだんシャドウ(私達は、相対であるが)や型で自在に振り回している腕を使えなくしてしまうのか…一重に自身の身体に「自信」がないから、「打たれ弱い」からという事になってしまう。

何も相手の全弾をまともに胸や腹で受けろとは、言わない。
防ぐ、捌く過程で、相手の攻撃を「潰す」意味合いを持って身体で「受け流す」ことを旨としなくては、私達の競技としてのカラテは成り立たない。

 それを実戦で行う為に「稽古」があるはずである。
基本・型そして補強、そのどれをとっても、自身の組手に反映されなければカラテにはならないはずである。

 年老いても「勝てぬまでも負けぬ組手」とは、創意工夫。
若者よりも、冷静な判断力と技量を少ないまでも満たし続けた体力を適時に使い分けること。型の本義を実戦で使いこなそうとする試行錯誤…そのために若者より多くの辛酸を余儀なくされる事は承知。そこに私達の矜持があるのですから、敢えて「相打ち」になる「気構え」は、忘れたくはない。

そこから逃げる事が、訳の解らぬ「師は最強論」に走る。
私も、若い指導員達が日に日に強くなっていく事を実感している。ただ、それを指をくわえて待っている気は毛頭ない。
差を詰められれば、其の差を維持するか広げられる「何か」を稽古で掴むようにするだけである。

そのために若い人の倍は「痛い」思いも、しなければと、いつも思っている。
だからか…人一倍、身体を作る事に腐心する。
そして、技を…人知れず「錬る」だけである。
そこに理屈は、存在しない。あるのは、流した膨大な汗とそれ相当な痛みと苦しさのみ…人の上に立とうとするなら、実戦を自身が標榜するなら、至極当然。
しかし、何故か此の世界、そのことが歪曲されるフシがあり、可笑しくも物悲しい「先生」が出来上がることとなる。

 幸い、私達の道場、年長者の皆さんは、そのことに関し真摯に向き合っておられる。だからこそ、下の者も敬愛し、互いの真の信頼を築き上げ、互いに切磋琢磨出来るものだと思います。
ということで、私も、もっと「先」を目指さなければ…。
痛い身体を引きずってでも…。
by katsumi-okuda | 2008-11-16 22:17 | 稽古日誌