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武道カラテ稽古日記

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稽古今昔…

  確かに…今から三四十年前、道場の雰囲気は今とは、似ても似つかぬ雰囲気だった。
池袋の総本部しかり、そして遠く離れた私たちの道場でさえである。
一言で言えば、厳粛静謐、悪く言えば殺伐暗澹としていた。

今でこそ昔話にその稽古風景の内外を話せば、たしかに「笑い話」になるだろう。
しかし、当時はそんな風ではとてもなかった。
 稽古前もその後も、ほとんど無駄口をたたくものは皆無。まるで屠殺場につれてこられた何かのように「これからの恐怖」に満ち満ち戦いていた。
 稽古後も、楽しげに話しているのは一部の先輩たちだけであり、下っ端の私たちは、そそくさと帰り支度に痛められた身体を引きづり階下に崩れ落ちていくだけであった。

 少しは満足に生き残れるようになってからも、その雰囲気にはとうとう馴染むことは無かった。
大会に出るわけ出れるわけでもなく、常に「街場の喧嘩で負けたくない」だけの願望だけを一つの目標にそこにしがみついていた。

だからか、自分の「道場」をもった頃、厳しくとも楽しくカラテいや武道を学べる場を提供したいと願っていた。しかし、その稽古内容は…やはり本部仕込み(?)のせいなのか、今ほど科学的なトレーニングが浸透していなかったせいもあり「厳しかった」そうである。
当時の自分は、それが最善の法だと頑に思っていたし、それしか知らなかったのだから…致し方ない。
基本の突きや蹴りを何本やったかなんぞ自慢にもならない。
それらが、さまざまな効用があることを知るには、まだ時が足りなかった。
その基本の一つ一つをいつか実戦で試す日が、くると真剣に信じるわけもなく、それでも基本と鍛錬に明け暮れていた。

…でも、それでも「例外」はあるものである。

私が、稽古に少し遅れて入るのが常であった。
その前にある塾の講義のせいで、少なからず遅れて入ることが多かった。
そして、時として私の機嫌が悪いことがある…どうしても顔に出ていたらしい(本人はわかっていない)
すると当時、筆頭で指導していた選手たちは、すぐさまピリピリとした雰囲気になり、それが全ての道場生に伝播する…結果、あまり、総本部と変わらない殺伐感が、漂うこととなった。
しかし、それでも、まだ稽古後、みんなと談笑はしていたし、そんな輪は、あちこちに見られたから、少しは健全であったとも言える。
 しかし、不審な見学者や体験者がいる場合は、当然、そうではなかった。
 
 まさか門前で「たのもう!!」などと時代劇のようなそれはない(あるはずがない)。
いたって健全に「見学、体験させてください」とやってくる。
多い月で二三人は、いた。
それでもまだ、近くにある大学生たちの場合は、まだ可愛げがあり、少し話しをし稽古に参加してもらうだけで十分納得してもらった。

 しかし、なかには、そうでない者も…
そんな場合のほとんどが、私が相手をすることとなった。
相手がまだ十代なら当時同じ十代の「師範代」らが相手をしたが…
どちらにしても、ものの数分として相手は、そこに立ってはいなかったが(大抵、回し蹴りか後ろ蹴りで落としていたが、当の本人は忘れている)

私は、相手にものよるが大抵「突き」で落としていた。
無論、顔面は叩かない。
地元での評判もある。

相手と対し、何気なくふと歩を進める。
ただ「突く」。それだけだ。
突く箇所は、どこでもいい。
多くても四回。
ただし、骨を砕く。
そして、必ず折る。
そのために容赦はしない。
自分の拳と腕が、変形するかと思う程「全力」で…
自身の「道場」であり、自身のカラテに対する「矜持」がある。

相手の多くは、羽目板に沈む。
そして、そのあと切々と話してきかせるのが常となった。
その「道場破り」の中の何人かは、後の私の弟子となり、当時の道場を影に日向に支えてくれた者たちである。今となっては、本当に…無茶をしたと思っている。
しかし、後悔はしていないが…。

 なんでも昔は、よかったなどと言うものではない。
昔日の後悔を胸にしまい、今のカラテを作り上げていかなければならない。
しかし、カラテである矜持は、これからも忘れることは決して無い。

…そう言えば、ここ暫く、そんな無謀な者は現れなくなった。
良いんだかどうだか…。
そんな元気のいい者を懐かしくも思う。
はて、やはり私も、そんなことを思い出すようでは年なのかもしれない…。
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by katsumi-okuda | 2014-05-11 23:03 | 稽古日誌