人気ブログランキング | 話題のタグを見る

武道カラテ稽古日記

ブログトップ

思いの力

  週末、久しぶりに肌寒く感じられた。
二週間になるのか風邪が、いや咳が治りきらない。
こんなところに年は、出るものなのか…

 不意に気管支のあたりが、痛くなり、次の日の朝、唐突に声が出なくなった。
もともと、喉は弱く風邪をひくと咳が、長引いてはいたが、今年に入り風邪と共に声が出なくなっていた。

夜中に咳き込み、苦しい微睡みの中…
「もう身体が、ついてこないかも…」
「どうして、こんなにまでなっても稽古しなきゃならないんだ…」

正直、ろくなことを考えていない。
弱気一色である。
人とは、そんなものだと思っている。

弱気になり、投げ出したくなるのが人情ではないだろうかと考えてしまう。
でも、次の朝になり正気を取り戻すと…
それこそ現金なもので痛む身体も、そこそこにいつも通りに過ごそうと大層な「新たな決意」を新たにする。



 ふと若い頃を思いおこす。

春の日差しが、暑く感じられる総本部の道場で午前の稽古が終わり一人座り込んでいる。
道場生は、誰もいなくなった。
少しの時間、一人で占有出来る時だ。

重い身体を引きづり、拳立てを始める…
…みんな…同じ年代の連中は、今頃いろんなことをしてるんだろうなぁ…。
…なのに自分は…なんでこんなことをしてるんだろう…。

悶々とした思いが、頭と言わず身体中を這いずり回る。
それは、見ず知らずの同年代への妬み嫉みである。
自分に対する不満であり焦燥…
その様々なものが綯い交ぜになり一つの、大袈裟に言えば「情念」と化していく様をヒシヒシと…

それらの思いすべてを真正面から嫌でも受け止めなければならない。
ただ、そんな思いも、稽古が熱をましていくと何も考えられなくなる。
口から心臓の音が、聞こえてくるというが…それを通り越すまで…。
何度となく気が遠くなるまで稽古した。
すべてを忘れたいために。
すべてを肯定したいがために。

 選手と呼ばれる古今のものたちは、多かれ少なかれその「情念」を身の内に秘めている。
また、それが、なければ他者とそして自身と競うことなど出来るものではないと感じている。
純に一心に取り組める者も、いるであろう。
それはそれで否定もしないし大したモノだとも思う。

試合とは、実力差というものは、そうあるものではない。
同じ年代なら尚のことだ。
確かに対格差や力の差は、ある。
しかし、それでも、それを乗り越え勝てる「小さな選手」たちは、大勢いるのも事実である。
では、そんな選手たちは、何が違うのか!?

やはり、そこには「あと一つ、もう一歩で相手に勝つ」という俗にいう「強い気持ち」というよりも
「あれだけ辛く苦しい思いをしやってきた。」という「強い情念」
ではないかと思う。
無論、戦っている時にそんなことを思う間もありはしない。
しかし、確かにその「心」の違いは、試合場で見て取れることがあるものである。

ふだんの稽古でも「やらされてる稽古」を何時間やろうと、いくら効率の良いトレーニングをやろうともそこに「気」が、のっていなければ無駄以外の何ものでもない。
逆にどんなに忙しかろうが、ほんの少しの時間だろうが、稽古鍛錬に臨もうと心ある者は、必ず「強者」になることを知っている。

どんなにやろうと必ず勝てるとは、限らない。
しかし、やらなければ勝てる道理もない。
そして、稽古だけが、稽古ではないことも知らねばならない。
ふだんの時間をいかに過ごしているか。

ふとした時間、思い出した時に「カラテ」のこと「組手」「試合」のことを思い姿勢を呼吸を正す。

その「思いの力」をどれだけ続けられたかである。

長く続けていくということは、自然に無意識のうちに「その力」をつけていくということに他ならない。
そして、その「力」は、何もカラテに限らず全ての事柄に昇華出来ることを知ってもらいたい。
単に子供のうちに勝敗だけに血道を上げ、厳しすぎるトレーニングを課している者、黒帯さえとれたら早々に止めてしまう者、学年が上がり部活や勉強が、忙しいからと言って足が遠のく者たちに今一度問い質したい。

 そんな中途半端なことで良いのかと。
私たちのやっていることは「武道」である。
武道とは、一生をかけて取り組むことの一つであり、より良い生活を進めていく為の一助に他ならない。私は、常々「今の時代、武道の技術など社会で使うこと等ありはしない。使うのは、厳しい鍛錬に耐えられた心身を日常においては礼節をもって人を思いやる気配りを身に付け、また火急のとき、本当に人様の為に使うことを言う。そのために出来る時分に出来る限り、日々、心身を非日常に置き、鍛え続けること。それこそが、現代の武道ではないのか。」


 今の人たちは、身の回りに楽しいこと、そして多忙なことは重々承知している。
しかし、せっかく初めたことなのだから
是非「もったいない」ということを忘れないで頂きたい。

例えば、子供の頃からやっていながら、あっさりと止めてしまう。
これからだというのに…である。

 私は道場で三十余年、三千人以上の人たちを指導してきた。
世界大会、全日本等に上り詰めた者も、少なくない。
しかし、その者たちよりも才能あふれた者は、星の数程いたのである。
それでも、最後に残り成果を上げた者とは、愚直に続けられた者であり、さまざまな情念という「強い思いの力」を手にした者たちなのである。

そして、それは、誰にでも出来ること。
弱い自分と正直に向き合い、それと格闘するような日々を送れる普通の人たちだからこそ
絶対に「強く」なれるものだと私は、確信して憚らない。

…私は、弱い人間だと自覚している。
だからこそ、それを認めたくない一心で稽古している。
日々の稽古鍛錬からなる「私」が、あるからこそ、私は、人と接した時、
心底、相手を思いやり、礼節を尽くすことが出来ると感じている。

弱い自分も情けない自分もすべて認めてこその「思いの力」だと私はそう実感している。
思いの力_a0026020_09128.jpg

by katsumi-okuda | 2014-04-21 00:09 | 稽古日誌