2013年 10月 23日
帯が変わるということ…今昔
武道を修練していく過程でその修得に見合った「昇級」「昇段」が執り行われます。
私たちのカラテも、それに相応しい技量・体力が、整ったと認められた場合、「昇級・段審査」が、執り行われます。 しかし、それを受審する者、そしてそれを見定める私たちの考え方に今とそう遠くない昔では、大きな隔たりがあることに気づきます。 審査にあたって、その規定は道場・団体のそれぞれの規定に因ります。 それも今では、少年・女性・一般・壮年そして選手のそれでは大きく規定が異なることが、少なくありません。それぞれの年代や資質に見合う「審査規定」は、あって当然ですし、そのほうが理にかなっているとも言えます。 但し、こと「武道」という観点から見た場合、今のそれと昔のそれでは大きく趣を異とします。 昭和初期の武道界の審査を繙いてみると「実力」による昇級いや昇段が多勢を占めていたことに気づきます。何故なら武道を嗜む者の大部分が若人であり、強さを希求することが第一義であり、そこに生死を賭けた武士の佇まいを感じられます。 ですから、力と技量に「抜群」に秀でていれば中・高校生でもざらに三段以上が存在したと聞きます。確かにその「先生」「師範」たちは、それ以上に強かったのですから、それでも妙な逆転(生徒が先生より段位が上になる)は、起こらなかったようです。 しかし、それも戦前までで、その様相は、時代と共に変貌していったのです。 例えば、多くの武道界では、一年以上白帯を締め、先輩や先生たちの許しを得て「審査」を受ける。 そこで「ある程度」の戦績を残せば「初段」としたそうです。 そうでない場合は、また一年以上、機会を待つ…。 戦前、明治の気風の残滓が色濃く残る武道界にあって、それは当然のことだったのでしょう。 ですが、戦後、物事のシステム化が導入されるとともに「色帯」が導入される。 何故なら、そんなに時間をかけて稽古・修行に勤しむ者が、激減したことと武道の裾野を兎も角広げなくてはならないという団体の存亡をかけた経済論からなるものでした。 それでも当初は「茶帯」のみという団体が、多かったと聞きます。 私たち極真会館も、その例外ではなかったと聞きます。 しかし、それでも、多くの人材を取りこぼしてしまうことに危惧した団体は、「級の細分化」を図り、現在に至るのです。 それでも、私の時代は、大体「黄色帯」からスタートが一般的でしたから、今より稽古の内容やそれに向ける意識は、今と相違があったとも実感しています。 一般的に私たちの時代、そして古株の道場生たちの談 先輩や先生から、次審査受けろと言われて素直に返答した者は、少なかったのです。 「今度、受審して茶帯になったら…あの先輩と同じ…いやまだまだ自分なんて遠く及ばない…」 「まして昇段なんて、とんでもない!!」 大抵の者は、そんなふうに思っていました。 私も、そうでしたし、師範代や古参のK指導員・N指導員辺りもそうでした。 師範代やK指導員の茶帯時代は、長かったのを覚えてます。 いくら受けろと言っても、中々受けてくれなかったことを…。 本人たちにそのことを話すと今でも苦笑していますが…。 ともかく、そんな風潮だったことは事実ですし、それだけ「昇級・段」のもつ意味合いは、重かったのだと思っています。 ここで私の考える「昇級・段」に関する私見を述べます。 「審査とは、次のことをきちんと出来るその受審者の体力・技量が整ったとき執り行うもの」と考えています。ことさら「抜群」の体力と技量を有しているという項目を厳守していたら…正直に申しまして「誰も私の審査は、通らなくなる」ということです。つまり、古の「武道の観点」からの「審査」は概念としては、存在していても、それを規定として尊守するということは出来ないのが現状なのです。 人を育てるという武道の「教育」という側面が、熟成されつつある現代の武道にあって、その審査規定とそれを見守る私たちの考え方のそれは、古との融合・共生にあるといっても過言ではないのです。ですから、今の審査を通じ、何を感じ何を次に学ばなければならないか指導者も、そして道場生も、心して欲しいものだと思わずにはいられません。 受かったから、それでいいのではありません。 黒帯になったから、お終いではなく、そこが初まりだと言うことを忘れないでもらいたい。 初まりだから「初段」とも、言うのです。 何ものにも、染まらない強い意志が、あると認められたから「黒の帯」を締められるということを今一度、忘れないでもらいたいですね。 そして、子供たちにあっては、その体力・技量もそうですが、年齢との兼ね合いもあるということを忘れないで頂きたい。年齢と共に学ぶ姿勢も意識も変わっていくものです。 いくら試合で成績を残したからといっても、すぐ昇級に結びつかないのは、そういう側面もあります。試合は、稽古の一葉でしかありません。無論、強い、勝つことにこしたことはありませんし、各種の行事・合宿に参加することも大切な「学ぶ時間」です。 それらを通し、先生方は、その「ふだん」を見られているものだと思って下さい。 いくら強くても、粗暴で協調性のない人に「昇級」まして「昇段」は認められないのです。 一般的な例を上げておきます。 小学生低学年から始めた場合、卒業時に大体「茶帯」 中学生時代に「初段」…但し「中等部初段」という扱いになります。 その後、規則正しく高校時代を経過し「一般初段」に認められるのが慣例です。 そこまでいくと「本当に強い真の黒帯」となるのです。 残念ですが、中学までで止めてしまった場合、あくまで「仮の黒帯」という見方をされてしまうのが実情だということを忘れず続けて頂きたいと切望します。 武道という人格形成は、一朝一夕に出来上がるものではありませんね。 本来なら少なくとも、十年以上その道にかけてみなければなりません。 そこで肌身を通じ、何を学び経験していくか。 少しでも多くの人たちに、少しでも長く体験してもらいたいと思っています。 今という現代だからこそ…です。
by katsumi-okuda
| 2013-10-23 23:20
| 稽古日誌
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プロフィール
武道歴四十余年。主たる武道極真カラテ。昭和の名人・達人に薫陶を受け現在、私塾教育経験を活かし新たな指導法を展開。自らも日々稽古を続け、理論と実践の合一を目指しています。
道場指導以外にもスポーツクラブでのカラテ普及に努め、今まで空手に縁のない人たちに空手や武道の良さを知ってもらっています。 カテゴリ
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