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武道カラテ稽古日記

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新しき人達に…「感性と気配り」

  卒業式を終えてそろそろ新学年へ向けて慌ただしくなってきました。

 この季節になると「入門者」が増えてきます。
この前も申しましたが、ともかく「常識」のない人が眼に付きます。この春中学生という子が、見学に来ました。ものの5分もしないうちに座っていたソファでゴロリと横になってしまいました。呆れて少々厳しく注意しました。注意されるとびっくりして座り直したのですから、悪気はないのでしょうが…。少なくとも人の家を訪ねてきてすぐに横になる奴もいないでしょうし、もし体調が芳しくないのならそのようにすべきなのではないかと考えてしまいます。申し訳ないですが、親御さんは、どのような礼儀を常識として教えられたのでしょうか。ささいな礼儀が、できなくて世間で余計な軋轢を生むこともあるのですから、もうすこし考えられてはと思うのですが…。

 
  このところ特に子供達にカラテをやる意義を話しています。
カラテを通していろいろなことが、出来る身体と「頭」を造っているのだと話します。
一つ難しいことを出きるようにしようとしているとき、頭はフル回転します。いろいろなことに一生懸命使っている人の「頭」は、結局すべてにおいて「頭のいい使い方」が出来るものだと思います。勉強だって遊ぶことだってすべてその「頭」でやっているのですから、ふだんからフル回転させる訓練をすべきなのです。
 
 先生の話を真剣に聞き、物事をやろうとする時に人によって差がでます。
それが「感性」の差だと思います。物事をどのようにとらえどう咀嚼していくかには個人差があり、その差こそが、技のこまやかな差や組手において相手との「間」の違いに出てくるのだと解釈出来ます。すべてにおいて一つの見方にとらわれるのではなく、いろいろな見方が出来る「力」を養うことは、古今知られていることです。

 相手を思い遣る「気配り」もそうです。
相手が、いま何を考えどう思っているか、その場の雰囲気などから掴み判断をすることは、相手を「読む」ことに通じ、その大本も「感性」だといっていいと思います。
そのような感覚を日本人の私達は、さまざまな経験を通し身に付けていきます。それこそが、日本の独特な「阿吽の呼吸」であったり「言葉で説明しなくても理解し合える」という文化そのものなのです。
 ですから「内弟子」制度という一見不合理な制度も、師の一言や動きを見て瞬時に多くの事を理解出来るようにしようという観点からすれば、大変合理的なシステムでもあったわけです。ふだんの所作にこそ「技」は、表れるものです。道場だけでは伺いしることの出来ない世界を間近で見ることが、出来る「内弟子」。そこでは、下の者が上の者に対してどうすべきか社会の常識の範疇で語りつがれ体験として受け継がれてきました。ある意味、そこに教育の原点の一つを見る思いがします。


 「感性」とは磨かれるものです。また逆に使わなければ衰えるものだと感じます。
さまざまな事象に触れいろいろな感覚を養い、多岐に渡り勉学を勤しむ姿勢こそが、結果的に柔軟で瞬発力のある「頭」を作り上げるのです。これは、年令に関係ありません。やらなければ若者でも「頭」は衰えます。結果、私達の世界では、「頭の悪い戦い方」にしかならない、出来ない「頭」が造られてしまうのです。
 たとえ失敗しても自ら学び自ら考え、そして行動を繰り返すことによって成功は、生まれます。どんなことにも学ぶ姿勢を忘れず「頭=理性・感性」を造らねばならないと思います。そうすることが、自身のカラテを飛躍的に伸ばす秘訣でもあるのです。
 真に「頭の言い奴」は、組手でも強いものです。単に体力に頼らず「頭」を含めた全身でカラテを修養すべきだと考えております。
by katsumi-okuda | 2005-03-20 14:02 | 稽古日誌