武道カラテ稽古日記

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再考…極真空手における型の意味合いとこれから

 ここ数年、試合・大会ごとに再考が問われている「型競技」に関することについて私見として再度
述べておきたいと思う。

 はじめに型の競技をするなら少なくとも「誰もが納得出来るような」例えば「数値・点数化」された採点法が、その団体津々浦々に伝わっていなければならない。
型は、体操やフィギュアスケート・シンクロに代表される「技術点」と「芸術点」などによって競い合う試合であることは、否めない。
 そのため「明確な」点数化は、当然と言えば当然。
いつまでも、審判の「主観」に頼るような「曖昧・感情論的」な評価は、ただ悪戯に競技そして技術の歪曲化と混乱を招くだけであると推察出来る。


 私が若い頃、今から四十年程以前、極真会館総本部で型を満足に稽古した覚えはない。
審査が近いから「型もやっておくか」「知ってる先輩から習っておけ」というのが、当たり前の時代。何故こんなことが、普通にあったのかと言えば、とりもなおさず「組手が強ければ話しにならない」「型をやっていても組手や大会に勝てない」といった当時の思想、潮流がそれを押し進めていたのである。
 旧来の型からなる「組手」と一線を画した極真空手は、当時「ケンカ空手」と同じ空手の世界から異端視、揶揄されていた。
しかし、当時の極真空手は、進出に富みどうすれば人は倒せるか、どうすればそれらを競技化していけるかという簡単で難しい命題に直面していた。また、そうしなければ「極真」とは何をもって「極真」なのかということを世に知らしめなければならない時代とその背景が端然とあった。

 そのため旧来の組手スタイル(伝統派)から少しずつ逸脱・乖離し、新しい「カラテ」を築き上げるに至った。そして、その組手スタイルは、競技化が進むにつれ日進月歩の勢いで進化・発展していった。ただ、そのスタイルは、当然旧来の「伝統的な組手」つまり「型」からなったであろう一つの形からの離別でもあったのは当然の帰結である。

 時代は移り、創始者亡き後、各団体は自身のアイデンティティを鼓舞する意味合いと特に少年部の競技人口の増大と競技の多様性を求め「型競技」の選定と指導に重きをおくようになった。
しかし、今まで組手に特化した団体が、型競技そしてそのための指導にスムースに移行出来るはずもないのは周知の事実であり、それを急ぐあまり指導する側や大会を主催する者は、さまざまな問題に行き当たることとなった。

 型を教える先生や団体、そして型を教わった年代によって、その仔細が、変化してしまう。
これが現代の極真空手の現状でもある。
伝統派の世界からしたら笑われてしまう問題が、そこに横たわっている。
何故なら、未だ型の競技に至る時間(指導する側も含め)が足りなすぎるからに他ならない。
伝統派は、少なくとも明治以来型の研鑽に勤め、今でもその稽古の大部分を型稽古に費やしている。
翻って私たち極真は、型稽古に目覚めよく稽古した者でも、ここ良くても十年程ではないだろうか。
 無論、時間が長ければいいという問題ではない。
しかし、それに費やした時間と研鑽は無駄ではなかろう。
一つの型を団体で「すりあわせて」いくことだけでも、容易なことではない。
まして、それを持って競技化していこうというためには、合理的な研究が、多くなされたに難くない。

 それでも、型競技を進めていこうというのであれば、それなりの研鑽はあって当然。
また、その合理的な競技・採点法がなければ、ならないはずである。
まだ稚拙・発展段階とも言える我々の型を真に「極真の型」と言えるまでにするには、それら避けては通れない道理があろうと考ている。

 現在、我々が競技で行っている「型」の大部分が伝統派のそれに追従している。
それ自体どうのではないが、どうも勘違いしている人たちがいるので一考したい。
例えば、平安・ゲキサイ・セイエンチン・サイハ(その他の型は、アレンジが強過ぎ、ここでは再考からは除く)などは、伝統派から言わせれば「初級の型」もっと有り体に言えば当時の中学生や初心者にカラテの抑揚を知らしめるための「基本型」に他ならない。
よって、難しい解釈は一先ずおくことにしていたと伝え聞く。

 そして、その型の出来、不出来は「正しい順番」を覚え、「正しい形」が出来ているかによった。
つまり、技の強弱はいいとしても「緩急」や「居着き」「実戦性」は求められていなかった。
何故なら「どうして初心者に緩急が、わかります!?ただの速いと遅いだけになってしまう。居着いているってどんなことを言うの!?いや、何秒そこに止まってたらいけないのなどと聞かれてしまいますし、それらを体現するのなら、もっと稽古しなければ…」…これは、若い頃、伝統派の重鎮と言われた先生から言われた言葉である。それでも、それらの型を良くすることによって得られる効用も、私は聞いているし、今でもそのつもりで、それら「初級」の型の稽古を疎かにするつもりは毛頭ない。

 型の「表現力」とは、悪くすると「見栄え」の良さにすり替わるものである。
見た目、格好よければいいとなれば、少なくとも「舞踏」の心得のあるほうが有利になってしまう、それこそ笑えない現実がある。
そして、それを評価する我々も、いつまでも、それら「主観」に甘えていると大切なモノを見誤ることになることを自戒して止まない。
 どうしても、それらに「実戦性」と「表現力」を問うならば、我々こそが稽古し続けなければならないはずである。そして、一つの型の動作から「実戦性」が汲み取れる指導とそのカリキュラムがなければならない。

 人は、闇雲に力一杯叩いても倒れるものではない。だから、人との呼吸の狭間を縫う「緩急」「強弱」そして「技の正確性」が必要なのである。
曲がった手首やぬるい握りからなる正拳で、実際人など倒せるはずもなかろう。
曲がった指先(抜き手)で人など制することなど出来るはずがない。
正しい体重移動のない突きや蹴り、技と技の切れ目のスムースさのない動きに人を翻弄する組手は体現出来るはずもない。
数え上げれば切りがない…。

つまり、その型に、どんな型であろうと「実戦性」を求めるのであれば、少なくともまずは「実戦の基本」となる「要諦」を満たしているかどうかではないだろうか。

例えば、よく組手でも「前に出した手を開いて構える」人たちがいる。
そのこと自体、間違いではないが、知っていてもらいたいことがある。
その構えは、相手を掴み引き回し技をかけてよかった昔の構えであるということを。
つまり、それを今の競技につかうというのは…少々難解だということを知ってもらいたい。
と同様にわずかに手を開いてから握り込む拳の技の決め方も、私たち今の競技には不要であり、あまつさえ危険でもある(特に初級や子供たちで指の裂傷をおうのは、往々にして正拳の作り方が甘いのが要因、また叩いても効かない突きというのも、それに当てはまる)ということを…。


 あえて「型の競技化」を行っていくのであれば前述した手順は不可欠だと考ている。
子供たちは子供たちなりの、上級なら上級なりの点数評価をしなければなるまい。
そうでなければ、いつまでたっても「あっちの大会で勝てたのに、ここでは初戦も勝てない」「同じ同門でどう見ても上手い子が、負けている」そんな不条理が、あとを立たない。
 そして、組手至上主義に偏るあまり、いつまでたっても我々の型は、日陰者扱いされ続け、それ以上の進化発展は、望むべくもないと知らねばならないだろう。

そんなことをしていると謂わば勝手に「型」の形を変え、これこそが極真の型なんだと海外から言われてしまう最悪の始末になりかねない危惧を抱くのは、私ばかりではあるまい。
現実問題、とある団体の型の元は「欧州」からのものだと聞いたことがあるが、なんとも情けない限りであろう。
by katsumi-okuda | 2013-04-11 16:11 | 評論