武道カラテ稽古日記

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極真カラテ;移動稽古の意味と重要性

  今回から極真カラテにおける移動稽古の意味とその重要性について述べていきたいと思います。
 その前に皆さんは、他の競技を観戦されますか。
私は、仕事柄(趣味でもありますが)専らTVで観戦しています。特にやはり「格闘技」は多いですね。昨日22日もTVで「プライド」をやっていましたのでビデヲに録画(そのほうが必要なシーンだけ見れますし時間の節約になります)して観戦しました。

 この「競技」を観ていつも思う事があります。それは、これも「競技」であり広義の「スポーツ」なのだなということです。ある一定のルールを設けた時点からそれはどう言われようが「競技」であり、競技者の身体能力を競い合う「スポーツ」なのです。それを悪いとは決していいません。私達も「試合」「大会」は、「競技」であり競い合う中からさまざまなものを見い出しているのですから。ただ観ている側が、ある種の「幻想」を「現実」のものとして取り違えてしまう恐さが、特にTVにはあります。
 私達の時もそうでした。
マンガやマスコミではやし立てられた「極真」という「幻想」は、大きな「夢」と同時にあり得ない「空想の産物」を生み出していきました。マスコミに取り上げられた頃、日に100人以上の入門者が、総本部の門を叩いてきました。そんな「空想」を「事実」だと信じて疑わない入門者から私達は、たびたび奇怪なとっぴょうしもない質問をよくされ困惑したものでした。(現実は、全然違うんですがねぇ…その話は又後日いたします)

 身体能力を競う「スポーツ」の場合、スピード・パワーそしてスキル(技術)が大切といわれますが、それを司るものの一つに持って生まれた「資質」そして「年令」が大きく左右されていきます。資質を膨大な努力によって変えていく競技者もいないではないですが、稀であり、まして加齢からくる身体能力の低下は、スポーツの場合、致命的と言わざるを得ません。
 ミルコとコールマンの試合がそうです。コールマンは、年令に負けないだけの身体能力は、見るからに維持はしてるものの残念ながら「反応速度」の低下が顕著に表れていました。彼のタックルは、ことごとくミルコに潰されいなされていました。画面上、不思議そうに頭を傾げるコールマン。確かに速いはずのタックル。しかし、初動から中間点に至る動作の緩慢さ・無防備さが見えていました。あれでは今がのぼり調子のミルコには勝てないだろうな…と思っていたらあっさりパンチを数回連打されダウン。一代を築いた彼としては、まだまだと思っているのでしょうが、どうなのでしょうか…。

 私は、常々言っている事があります。
それは、格技系競技の場合、その人の資質。特に性格に起因する事が多いということです。特に相手とコンタクトする競技の場合、相手を「倒す」ことを目的としている以上、相手より「強い性格」でなければなりません。相手のことを少しでも考えてしまうような「優しい・弱い性格」では中々勝てないということです。簡単にいうと「イジメッ子型性格」または「いじめられてキレる性格」の持ち主ということです。
 特に「殴り合い」の場合にその傾向が表れます。後天的に作られる事もありますが、やはり性格や民族性(経験上、肉食人種の白人系はそうです)によるところが大きいような気がしてなりません。
 柔術の技もさることながら、ここのところのプライドを見る限りこの傾向は、強くなってきているようです。残念ながら「競技」である「プライド」のルールを突き詰めていけばいくほど「一発を持っている気の強い奴」が勝ちを修めていくことになっていくのではないでしょうか。そこに私達が、感じる「武道」はありません。

 では「武道」ならどうなのか。
年令や性格を超越して相手を制圧することは、可能なのかといういつもの命題にいきついてしまうのです。その論は、また別の項にあらためますが、少なくともそれを「目標」とするだけの手立てや方法が、武道には残されていると私は、感じています。また、そうでなければやっている意味がありませんし、年令を超越して「強い」多くの武道家の諸先生方の有り様が、分からなくなります。

 実は、今回からお話する「移動稽古」とはあらゆる武道の要ともいえる「技」なのです。相手に対して何の前触れもなく間を詰めたり、相手のあらゆる攻撃をその「ことの起こり」の前後に躱し、いなす術は、まさしく「小が大に勝つ」要素を多く示唆しているものと言えるのです。
 次回、なぜ基本の移動が大切なのか、そして、実際にそれをどう活かすかを述べていきたいと思います。
by katsumi-okuda | 2005-02-23 15:44 | 評論