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武道カラテ稽古日記

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競技としての組手のあり方

 現在、競技としての組手のあり方の変容は、著しい。
去年まで通用した戦い方が、効果が薄くなることが枚挙に暇がないと言える。
そんな中で選手そして私たち指導者は、頭を巡らさなければならない。

 いつも感じていることだが、試合に出てくる選手たちの力量に大きな隔たりはそうあるモノではないと感じている。
例えば、流石に試合に出てくる大部分の選手たちの基礎体力(スタミナ・筋力)に大きな隔たりは見当たらない。誰も片手で100㎏を挙げられるわけではない。息一つ切らさず、殆ど心拍数が変わること無く、7分を戦いきる事は、不可能に近い。無論、それに近づくことが選手たるものの理想ではあるが…。ともかく、それほどまでに体力の差が(日本人同士の場合に限るが…)あるとは思えない。

 だからこそ、相手よりも「特異・特化した事」をやることに選手達は腐心することとなる。
相手の考えている事の範疇を越えることをやっていかなければ、相手の隙をつくことは難しいとも言える。しかしだからと言って、小手先の技では通用しないのが、私たちの世界でもある。

そして、ある者は、一つの技に磨きをかけ「唯一無二」の「自信」を作り上げ場に臨もうとする。
例えば、下段蹴りに特化し、それに磨きをかけ成果を上げる。
しかし、それとて何れ攻略されたり、効果がなかったりする。
その時、その先その選手は、どうしていくか。
より以上に蹴りの威力を上げるのか。
それとも、相手に悟られぬ蹴りを磨いていくか。
そのどれもが、確かに正解と言える。


 
 このことは、何も私共特有(もしくは秘匿)のものではない。
どんな競技、特に格技に関して言えば、普通に古来より言われているものである。
つまり、「作り」であり「崩し」といわれる「技」の一つ。
それを私たちの競技の上で明確に編み込む事を私は、提唱したい。

ただの「殴り合い・蹴り合い」だけの体力勝負では、その勝率はそう上がるものではない。
ならば、その勝率を上げられるよう、つまり自分の「パターン」を構築する事が、これからは必須となることだろう。どんな局面にあっても、「自身の形」を発露出来るようにすることが、新しい組手の一つの形になる
のではないかと思う。

事実、そのような戦い方をしている選手達をある程度、観る事もあるが、まだまだ明文化されているとは言い難い。
私は、今一度、稽古の中でそれらを思考することを推奨していこうと思っている。
確かに言う程容易な事では、決してない。
しかし、それを可能にしてこそ次世代のカラテが、再構築されると確信もしている。



 …このことに関して今日稽古終わりにケント指導員と話しをした。
難しい事だとは思うが、その必要性を彼も感じていたようだ。
自分の形にハマれば、それこそ体重差をもろともせずに押し切れる組手を敢行出来る彼だが、相手のリズムにハマってしまうとたちまち弱さを露呈してしまう軽量級の性は、否めない。
ならばこそ、余計にそのことに時間を割いてもらいたいと願う。
 そして、それが出来た時、彼は必ず「常勝」出来る器があると確信している。

 要は、戦いとは、頭を使う事である。
乱暴に言えば、頭のいいヤツが、強いと言う事である。
ただ力があればいいとか、体重(筋力)があればいいという次元ではない。
今ある体力と技量をどう最大限にその刹那に発揮出来るか否かである。
そのために「意」そして「胆力」を持ち合わせる試合が、出来なければならない。
折角有り余る体力と技量があろうと、的確に出せなければ「負け」である。
それを試す場、それこそが「試合」であると言われる所以である。
「ふだんの稽古通りにやれれば…」という悔恨の言葉は、誰も口にしたくない。
ならば、それを払拭出来る組手をその場で敢行すべく心して今の稽古に専念するしか道はない。

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by katsumi-okuda | 2012-08-22 02:00 | 稽古日誌