2012年 04月 24日
先と後の稽古の違い
一雨ごとに春は、初夏へと向かっていくのか…
にしても、ふいに肌寒いのは勘弁だ…ここ二三日の頭痛は、ひょっとして風邪!? 先週の金曜日、委員会の会合でそれぞれの指導法やこれからの取り組み方について歓談しました。 それぞれに真摯な姿勢の先生方の意見は、大変貴重なものです。 これからの自身の取り組み方の良い刺激となりました。 私たちの競技の特性から考えた場合、武道の世界で言うところの「先・後」はどう稽古し、試合で使いこなしていけるでしょうか。 「先の稽古」とは… 私たちの競技の特性上、原則「前へ出る」組手を行う。 そのための体力・突進力、そして技術が必要となり、そのための稽古鍛錬を工夫する。 私たちが、よく行っているミット稽古は、その一例。 攻撃に特化し、前進してくる相手(ミット)を突きや蹴りで押し戻す様は、「先」に等しい。 相手の打突に合わせ「相打ち」または「合わせ」を行う。 そのためには相打ちに相応しい体力と打たれ強さは、必須となる。 加えて、相手の打突の勢いに負けぬ「勇気」も、欠かせないものとなる。 また、どんなに激しい打突に際しても対処出来る「平生さ」も欠かすことは出来ない。 そして、その「意」は、どんな策にも必須となる。 次に、その「先・先の先」の精度を高める為に相手と対峙して行う「相対稽古」でその意識と集中力を養うこととしているが、それに至るまでには、それ相応の稽古又は経験が必要だが…。 その意識に至る道場生は、未だ数名という厳しさ。 また、それらを常に高めていける為に「基本の稽古は欠かせない」と実感している。 基本の移動の間の取り方と早さ、型の中での立ち方の変遷と体軸の自在さ。 それらを怠りなく行うことで相手に悟られない出入りが、容易となる。 ただ何にしても、意識がなくては宝の持ち腐れ、やり損というものだと常に自戒せねばならないが…。 ここでいう「先又は、先の先」とは、対峙し相手と交互に織りなす打突の隙間を見いだすことが肝要。 打突の逢瀬に刹那空白が、現れるものである。 それは、やっている本人達よりも部外で観ている者の方が気づくことがある。 それは例えば、ふいに双方の打突が、一瞬止むことを指す。 そこを逃さず、打つことを「先」と考える。 又は相手が、動けない瞬間というものが、組手の最中には存在する。 そこに入り込むことを「先の先」というが、これは難解かもしれない。 時に選手たちは、不思議と経験の多さに比例し自然身につけていくようでもあるが、まだ「身を切らせて」という感覚が、あり過ぎる嫌いは否めない。 もう少し洗練されれば、相手の打突も最小で済むのだが…。 「後の先の稽古」とは… これは、よく見受けられる「受け返し」に代表される稽古である。 カラテに先手無しの誤った解釈ではあるものの、相手の打突を正しく受け流すか捌き、相手の体勢を崩し、自身の攻撃を最大限に活かすこと。または、そのキッカケとすること。 但しこれは、初戦や若く勢いのある手数の多い選手には、難しい面も多々ある。 つまり、それををやっている暇がないという実感を選手達は、体感している。 そのため、どうしても格下の相手か後半、相手も疲れ痛めてきた局面での使用が多い。 元来、この手法は「火のような堅牢な構え」から相手を「気」で押し込めるくらいの姿勢が出来上がってなければ実戦では、役に立たないものである。 そして、それを使いこなすだけの選手は現在、そう多くないと実感している。 それを激しい打突の最中に使いこなす為には、それに相応しい「形」で稽古に臨むことである。 私の提唱している「実戦に限りなく近い受け返し」を道場生たちに要求するのは、将にそのせいである。正しい形を修める為にある程度の早さや強さで行うことも悪くはないし必要である。 しかし、それらが実戦で使えるようにならなければ意味がない。 ために、その強度・早さをより実戦に近づけ己の心身に刻み込ませる稽古そして鍛錬が肝要。 それらを自在に行えるところに私たちのカラテの醍醐味がある。 例えば、相手の下段に合わせて上段で迎え撃つ。 相手の突きに合わせ相手の弱い部位を打つ。 それらは「交差法」とも、呼ばれている。 そして、そのどれもが相手に負けぬ「意」を持って行わねば成り立たぬことを知っている。 そのどちらを行うにしても日々の稽古が大事。 ふだん稽古していないことなど試合で出るはずもない。 それを自身の体躯、性格、資質に照らし合わせ作り上げていくことも大事。 闇雲に稽古していては、成るものもならない道理を知らなければならない。 折角、貴重な時間を費やし稽古に勤しんでいる皆さん 一つ先の高見を観る為に又無んかいな稽古に挑むことこそ稽古だと心して下さい。 そして、子供達や若い道場生たちに伝えたい。 「ここである程度のレベルに行けないのなら、何をやっても半解半端であると知りなさい。一流になれなくとも、自分也の一流を目指すこと。そうすることで次は必ず見えてくることを忘れては成らない」
by katsumi-okuda
| 2012-04-24 00:41
| 稽古日誌
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プロフィール
武道歴四十余年。主たる武道極真カラテ。昭和の名人・達人に薫陶を受け現在、私塾教育経験を活かし新たな指導法を展開。自らも日々稽古を続け、理論と実践の合一を目指しています。
道場指導以外にもスポーツクラブでのカラテ普及に努め、今まで空手に縁のない人たちに空手や武道の良さを知ってもらっています。 カテゴリ
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