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武道カラテ稽古日記

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理想の組手…弐

 眼前に身構えている相手がいる。
 対峙し、自分がそこにいる。
 そして、打突が…。

身構えている者は素人ではない。
幾千もの場を経験した者である。その者に思い切り「打突」をし果たして効果のほどは…
言う間でもなく、例え顔面に拳が当たったとしても、早々人という者は、倒れてくれないものである。
まして、倒れない身体を持った者にその効果とは…。
ゆえに、競技者は創意工夫を凝らすこととなる。

試合時間一杯に動ききれるスタミナしかり、技の精度しかり、また全体的な筋力しかりである。
しかしまた、当然相手も、それをやってきているのである。
ならば、勝敗とは何によって決せられるのであろうか。

一つの邂逅が私にはある。

早くに逝ってしまった私の次兄。
彼は少林寺拳法の使い手として並外れていた。
多人数の喧嘩をまるで演武かのように切り抜け、次々に相手の関節を破壊していく。
防具であった剣道の胴を蹴り破る。飛んでくる煉瓦を一撃で切る。
跳んで蹴りかかろうとする私を同時に、飛び上がり加えて虚空で捉え投げ落とす。
…それでいて普段は、温厚この上ない紳士であり勉学家であった。
今思い出しても…未だ次兄の足下に及ばぬやもしれない。

その彼は、いついかなる時も泰然としていた。
憤るでも勢いも無く、平生淡々としていた。
そこに真に強さを私は感じ取り畏怖していた。

また、本部でも名も知らぬ同輩の一人がいた。
本当にたまにしか会わないその彼もまた同じであった。

基本までの稽古ではさほど目立つふうもなかったが
一端、組手になると雰囲気が変わる。
相手に対してまるで「散歩のように」近づき突然殴る、蹴る。
ただの数発…ただし、これでもかというくらいの「全力」であった。
相手が、反撃しようとするとふらりとすり抜ける。
そしてまた、気がつくと自分の間合いから打突を繰り出す。
ただ、先輩とやる時は、完全に「猫を被り」負けてやり過ごす強かさ。

興味が湧き、個人的に接点を持ってみた。
よく聞くとどうやら「喧嘩師」であったらしい。
当時の池袋、いろんな家業が蠢いていたせいか、よくそんな家業の者と「友」になった。
しかし、しばらくして彼は姿を見せなくなった。
その後の消息はわからないが、今でもその独特な間の取り方を覚えている。

そしてまた、全日本に出場していたある選手にも眼が止まったことがある。
その選手はたしか芦原道場の門下生で当時まだ色帯だったが、抜群に組手が強いということで茶帯を締めさせ出場させたMという選手である。
準決勝にあがるまで巧みなフットワークを駆使し相手を翻弄し勝ち上がる様は、異様だったことをTV越しに観ていた。流石にそれ以上の強豪には、技の威力が及ばず敗退したが、旗判定での負けであり一切強豪の技をもらっていなかった。つまり、相手選手による「名前負け」である。
その証拠に負けて試合場をあとにする彼にダメージや疲れは認められなかった。
現行の判定基準ならと考えてしまう。

ちなみに彼の身長は170前後、体重は65㎏前後であった。
のちに彼は乞われてS会館に移籍し、用心棒的存在として恐れられていたと聞いている。

このどの実例にも共通点がある。
それは、自身の「気持ちの強さ」である。
「平生さ」と「剛胆さ」そして「冷淡さ」であると解せる。

少しは私も、持ち合わせてはいるが、そこまで達しているかどうか。
はたまた指導者として必要か否かは、意見の相違があろう。
しかし、忘れてはならない。
相手に勝つ以上に自身に勝つとは、よく聞く言葉である。
そして、本当の意味を理解している競技者は果たして幾人いるのであろうか。

対峙して相手を本気で「壊すこと」が出来る気概があること。
実は、それこそが第一義ではないかと考えている。
海外勢の多くは、それをやってくる。
例え道場の組手の場でさえもである。

どうしても勝ちきれなかった外人が幾人かいる。
その一人が、後に南ア代表となったB・アンソニー。
彼とは同期だったが、その組手の激しさは、白帯の頃から尋常ではなかった。
いくらか経験者だった私は、なんとか凌げたが、その打突の回転と思い切りの良さに驚いた。
私と同体格だったせいか、世界大会では上位には惜しくも届かなかったが、それでも確かベスト8入りしていたと記憶している。その彼は、いつも「全力」で気持ちいいくらい、そして全身で突き、そして蹴ってきたことを思い出す(彼の勇姿は現在もDVDで確認出来る)

 そして、当時の道場の組手と試合の組手に差はなかったようにも感じられる。
否、どちらかと言えば道場の組手の方が殺伐としていた風景を思い出す。
どうしたら効率よく相手を倒せるか。
いや壊すことが出来るか。そして、それが実戦(喧嘩)で使えるか。
本気でそんなことを考え実行していた時代だったように思う。
良い悪いではなく、その気概を私たちは、忘れてはならない。

一つに理想の組手があるとするなら、平生を保ったまま組手の場に臨み、打突のときのみ「全力渾身」でいけること。そして、それ以外は、必要以上に憤らず体力そのものを使わぬこと。
端から見て、まるで「弛緩」しているかのごとく、言わば「脱力」していることである。
必要なその刹那に最大限の力を出せればいい。
そのためスタミナという概念が希薄となることも侭ある。
しかし、それを埋められるだけの「意識」のコントロールが出来ていること。
例え相手の打突を真正面から受けていてもである。
胸や腹で受ける刹那、打突箇所だけ締め切る。
そしてまた、瞬時に緩め回復させ、自身の打突の威力に転換していく。
全身が緩んでなくては、真の瞬発力そして威力は、決して伴わない。
リラックスした状態からしか、真の力は発揮出来ないことは全てのスポーツで証明されている。

力み過ぎ、相手の打突に負けまいと全身を硬直させてしまっては、スタミナはいくらあってもきりがない。
そして、そんな状態からの打突に速さは無く「重さ」だけであり、怖さの欠片もない。

相手を下がらせる威力とは、総じて「痛さ」であり「怖さ」である。
一発の痛さやその打突に込められた「自分を壊そうとしている意志のある打突」こそ嫌なものはない。
そして、それを造り上げる元こそが、辛く厳しい稽古そのものであると言って良い。
同じ年代の者が遊んでいるとき、一人道場に籠り稽古をしている。
その辛さや忸怩たる思いが、人としての強さをも産む元となる。
それが、どうしても今の若者には少ない気がしてならないのは老婆心か。

楽しく明るく厳しい稽古をすることに異論はない。
それによって仲間と共にモチベーションを上げていくことも良いことではあろう。
しかし、その反面、それ以上になるためには必要なことがあるのではないか。

「人と同じことをしていて勝てるはずがない」
私は道場生によくそう言うのは、技量も含め、そのことを指すことを忘れないで頂きたい。
何も長時間稽古に明け暮れろというのではない。
少ない稽古時間であろうとも、その意識があれば良いのである。
少ない稽古量と限られた体力は、確かに不安を呼ぶ。
しかし、それを支えて余りある「心」を持つべきである。

そして、私の言う「心」とは「頭の使い方」である。
言葉は悪いが、その意味で「頭の悪い者は、いくらやっても勝てやしない」ということである。
負けても腐らず折れずに続けられる者ならば、それは必ず叶うとも確信している。
それこそが、頭をそして心を使った証であり、真の鍛錬の始まりであると特に若い道場生に伝えたい。
by katsumi-okuda | 2011-11-08 01:55 | 稽古日誌