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武道カラテ稽古日記

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思考…攻防の一体化

 外は、大分風雨が収まりかけてきています。
颱風直撃は、珍しいそうですが、あまり被害が広がらない事を祈ります。
そんなことで、ふだんの稽古そして授業はお休みとなってしまいました。
そこで考えていた事を書き留めておきたいと思います。
今秋の講習会のためでもあります。
また、これからの競技を思考し深化のためにも…。

 どんな試合を観ていても、見られる光景…
相手の打突に合わせてこちらも「相打ち」を重ねていく。
それが激しくなると、見た目はただの「殴り合い」そして「蹴り合い」に観えてしまう。
確かに選手達のその「間」では、高度な駆け引きが存在しないこともないが、大抵は胸と胸を真正面にしながらの「殴り合い」に終始することが、大部分である。
つまり、受けていては後手に回りかねない。
それなら相打ちで相手の攻撃を相殺し、その上でこちらの攻撃で押し切りたい。
事実そういう相関が、働くのが競技の一コマではある。

しかし、それだけが、すべてであろうか。
これが一流の選手達になると少し様相は違ってくる。
相手の攻撃に付き合う事無く、上手く自身のペースに持ち込みながら試合そのものを操作していることに思い当たる。
 つまり、激しい打突の最中にあっても、鍛えられた恵まれた身体によって、それを受けると共に子細な間合いの操作と打突の選択を行っている。
例えば、相手が、接近して突いてきたなら一端間合いを潰し、少しの膠着状態を作り、一瞬の隙をついて回り込み、自身の攻撃(この場合、膝蹴りが多い。)につなぐ。
相手が胸を突き押そうと試みた時、その突きに合わせて前蹴りを放つ、そして自ら間合いを詰め、突きや膝蹴りにつなぐ…。

この技術は、近年に多い戦い方の一つのパターンである。
そして、それは大いに有効ではある。
しかし、それは恵まれた体躯と豊富な試合経験からなるものと思われる。
つまり、良い悪いではなく、限られた者が手に出来る一つの技術である。

私たちのカラテの側面の一つが、この「競技としてのカラテ」である以上、それを絶えず思考しなければならないと感じている。

競技の世界というものは、進化はめまぐるしい。
例えば、去年有効だった技は、今年は通用しにくくなっている。
または、使えないなどという事例は、いくつもある。
そして、往年強かったからといって、ブランクを気にせず、ひょっと出てきて勝てるほど近年の試合は甘くない。私自身の感想ではあるが、近年の県大会レベルは一桁台の全日本クラスに有に匹敵すると実感している。それほどレベルは、上がってきている。

何故なら、今の選手を育てる環境やその陣容(指導者や先生は、往年の選手であることが多い)が、昔に比ぶべくもないほど洗練・高度化していると言って良い。
ただ逆に画一化されているのではないかと思う事もないではない。
つまり、どの選手を見てもあまり代わり映えがしない。
そのため、どうしても最終的に「体力勝負=スタミナ・筋力等」に陥る傾向が強まると感じている。

「出来る限り人と違う事をふだんから考えてやるように」
これは、私がいつも選手達に言う事の一つである。
同じ事をやっていては、勝てるモノも勝てやしない。
結局、体力勝負では身も蓋もなかろう。
(ただ、敢えて体力勝負に進み出させたり、身体の大きさにモノを言わせる選手を送り込むこともある。
何故そんな事をするか、その答えは…のちほど)

その一つの試みとして古にある「受け返し」「攻防一体」が唱えられて久しい。
だが、その体現化は、難しいとされている。
一つに感覚に頼るその修得の難しさと近代競技に至る不合理が上げられる。
つまり、出来る者は、出来るという不条理と競技に当てはめてもあまり有効ではないのではないかという声がある。曰く、手数勝負の世界で、その技術は使えるのであろうかという疑念と確信が、選手達にあることは事実。

だが、だから敢えて私は問う。
ならば、カラテでなくてもいいではないかと。
私たちは、極真カラテの徒である。
武道の徒であるということを忘れてはならない。
何も精神的なことだけで武道を標榜してはならない。
その徒にあって、合理も武でなければならない希求し続けなければならない。

敢えて私は、その攻防一体を競技に持ち込むことを思考してやまない。
特に競技においても「手」の使い方は、重要であると確信している。
ただ攻撃だけでは半解である。
相手の攻防を「受けて」「崩す」そして、自身の威力の助けとバランスの要が「手」である。
無論、その「手」を最大限に活かす為の下肢の鍛錬は、言う間でもない。

そして、最大限に活かせる為にあるのが、実はふだんの「稽古」だと実感している。
あくことのない反復練習は、どの競技でも要ではある。
しかし、だからといってただのコンビネーションだけでは「自在な手」を自身のモノにすることは適わない。また、単に技術の鍛錬だけでも、それを手にする事は適わない。
万全の稽古・鍛錬のもと盤石な「意」を操れなくてはならない。

相手に合わせる意は、すべての元である。
しかし、それより半拍速く作動する「間の手」もある。
遅く感ずる手もある。
そして、その緩急、幻惑させられるのが、その「手」であり、それによって他の攻撃が活きる。

因に私の攻防一体の要は「刹那同時」にある。
受けてから返していては、遅い。
受けと同時に攻撃が作動しなければ…いつ何時であったても…。

 さて、その競技の為の方法論とその実際については次項に譲りたい。
ただ、それは一法であり、その創意工夫は個人のそれにより数多生まれる事を忘れてはならない。
by katsumi-okuda | 2011-09-21 23:13 | 稽古日誌