武道カラテ稽古日記

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型の一つの意味…

 特に日本武道の場合、型(または形)が稽古の要諦を成す場合が多い。
無論、型には、いろいろな意味合いがある。
ただ現代にあって、その意味は画一化しつつあることに私は、どうしても疑念を抱く。

「型のように戦う」「型は実戦である」と声だかに言う者もいる。
それも、一面当たっているとも言える。
しかし、どう考えても、自在に動き回る実戦の最中、それをそのまま体現するということに不可能ではと思う方が、普通の感覚であろうし、事実、そのまま使っている場面を見た事はない。

それでも「型そして基本が、組手の命」と言われる。
それは、いかな理由からか。

若い頃、多くの諸先生方に師事していたことがあり、そしてその稽古のどの場合にも同じ事を聞いたことを思い出す。「形通りにやりなさい。正しい姿勢と技を修得しなさい。」
当時、言われるがままやってはいたが、それが、自分の組手にどんな効果があるのかも分からず。
ただ何となく感覚的に良い事だというのは理解は出来た。
そして、それを理解するために多くの時を費やした事も事実。

ある時、合気道の塩田先生から言われた一言が、その多くを物語っていた。
「本当の実戦のとき、型の通り(合気道の型)投げられりゃ、それにこしたことはない。だが、そんなことは稀だよ。それより、どんな形でも、相手を倒さなくちゃだめだよ。」
「今、あんたら若い人たちが、やっている型は、あくまでも形(基本)であって、それはそれで本当に大事な事だよ。それが、なければ次は、生まれない。」
「基本があるからこそ、いざというとき心身が一つになって動くんだよ。」
「型は、いざというときのために動ける基本的な心身を造り上げる大事なモノだよ」

型とは、心身を造り上げる手立ての一つ。
型によって、真に動ける身体操作の要を学べるもの。
型によって造り上げられた心身を使い、火急の時、過不足なく動ける自在の心身を会得すること。

確かに使える型の動作も、ある。
しかし、その大部分は、特に現代の競技では使えない。
ただ、その動きの要は同じであると知るべきである。
どこが、どう繋がっているか、結びついているか、それを知る事は難しい。
それでも、やり込むことによって明らかに動きの一つ々が、変わるものである。

例えば、正しい握りを基本によって、また動きのある型によって造り上げた者は、どんなに身体が軽かろうと「重い・倒せる突き」を成す事が出来る。
これは、私が幾多の試合を主審として目の前で裁いてきた経験からも、言える事である。
勝ち上がる者の多くの突きは、どんな打突を繰り広げても、決して手首は曲がらず「正しい突き」になっている。どんなに激しくバランスを崩しがちな動きの中でも、基本の出来ている者の蹴りは、決して、その威力と速さを失わない。これは、何も身体能力の高さばかりではない(ウェイトによって造り上げるばかりが能ではない)動きの中で造り上げた「技」こそが、使えるそして倒せる「技」であると知るべきである。

 何事もそうであるように一足飛びに「上達」することは、そうあるものではない。
だからといって、先に挑む気概がなければ、ならない。
そして、それに沿うだけの「基本」が、なければ上達は望むべくもない。

 故に「技」を至上とする「武道」の場合、それを一義とするのである。
時代と共に生死を賭す戦いから乖離し、そこに高い精神性を内包しようとした武道は、その本来の技の意味合いを隠匿することとなった。それを知らず、上っ面で「型を実戦で…」と見当違いの論を張ることの無用・無謀さを知るべきであり、真摯に尚、それに向き合わねば現代の武道には成り得ない。

あくまで現代に生きる武道である以上、その用法を高め深化させなければならない。
型による心身操作を完璧を目指して行う事によって、自身の組手の質も高めていく事。
型競技のように、ただ「奇麗」ではなく、実戦の「美しさ」を体現出来るよう努めなければならない。

…まずは「組手のような型」が、一つでも行えるよう精進致しましょう。
難しい話しや理屈は、その後からで十分…いや、真の型が行えれば理屈はいらないのではないか…。
論より稽古あるのみです。
by katsumi-okuda | 2011-06-18 00:57 | 評論