2011年 04月 23日
何故「量」、されど「量」
ふと、独り稽古の後、考えてみた。
「ここ三十年稽古し続けているとして、日に型を10回やったとする…一週間最低五日は稽古している、月に200回程度、それが1年12ヶ月で2400回、そしてそれを30年で72,000回前後…」 仮の計算だから、あまり当てにはならないかもしれないが、ともかく、考えてみるとやっているものだ 例え、それが、何も考えずにやっていたことが多かったとしても…。 やった数や時間を声だかに言うのは好きではないが、たまに来し方を振りかえ、これからを考えてみる手立てとしてみるのも、悪い事ではない。 そして、基本の突きや蹴りに至っては、それこそ数えきれない程やっていることに気づく。 今の自分が、あるのは、本当にこれらなのだと思ってしまう。 月並みだが、やらないよりはマシである…。 本当にそう思うことがある。 今回の子供たちの試合を観ていても、そう実感してしまう。 前日、型の試合で上位に入った子供たちは、おしなべて、次の日の組手でも上位に入っているか、健闘していた。全力で全身を使う事に何の変わりはないことの一つの証であろう。 組手だけの稽古では、底が浅い。 どんなに乱打戦になろうと、その刹那の心身の使い方や有り様は、稽古の全てが出てくるものであると信じている。全身をくまなく使う型。あらゆる方向での身体操作と意識。 折角、先人が残してくれた型を上手く使わない手はない。 型の一葉をもって今の組手に全て現す事は、不可能に近い。 しかし、その身体操作は、結びついているものである。 自身に沿う組手を思考すればするほど、その重要性は大きくなる。 特にある年代からは、いやがうえでも、その必要性は増してくるモノである。 …時として、型だけで一日の独り稽古が、終わってしまう。 幾度となく、ある程度納得するまで、一つの動作を繰り返す。 …どれだけ相手に悟られず動けるか、真に威力のある全身の力が、のった技が出せるか…。 今だからこそ、やることが多いと感じている。 来し方、訳も分からず数を量をこなしたからこそ、今、こうして考える事が感じる事が出来る。 願わくば、それが自身の「不変の形」になれば、それにこしたことはないが…。 …クールダウンしながら「一日で何回、型がうてるかなぁ…100回…いやそれ以上。でも、誰も付き合ってくれそうにないなぁ…」と独りで苦笑いしてしまう…。 ちなみに100回、一回2分として200分、時間にして大体3時間半…いけなくもない…。 そして、それを10回通し1000回を…。 いつか、近いうちにやってみよう…。
by katsumi-okuda
| 2011-04-23 00:30
| 稽古日誌
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プロフィール
武道歴四十余年。主たる武道極真カラテ。昭和の名人・達人に薫陶を受け現在、私塾教育経験を活かし新たな指導法を展開。自らも日々稽古を続け、理論と実践の合一を目指しています。
道場指導以外にもスポーツクラブでのカラテ普及に努め、今まで空手に縁のない人たちに空手や武道の良さを知ってもらっています。 カテゴリ
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