大会に寄せて…次を眼定めるとは

 今日、千葉県大会があった。
いつもなら私も赴く予定であったが、どうしても抜けられない仕事の為、選手他関係者に今回は一任した。そして、その結果は、昼過ぎと試合終了後、N指導員から聞いた。

 子供達や初めて大会に出場した壮年部の人たちは、よく健闘したと感じます。
千葉の大会、特に子供達の試合は、ある意味レベルは高く、勝ち上がるのは容易ではない。
その中で痛い辛い思いをしてよく皆戦ったと思います。
そして、その健闘を大いに讃えたいと思っています。
その貴い経験こそが、必ずさまざまなことに繋がることを忘れないでもらいたい。
そして、遠方から出場された選手とご父兄の皆様、本当にご苦労様でした。
またいずれ近いうちに一緒に稽古する時にでも、いろいろとお話ししたいと思っています。

 しかし、一般部の試合結果には、いつになく憤りが湧いて来た。
何故なら、試合に出て健闘すればいいという立場ではない。
今回、出場した本部の選手たちは、特に結果が、残せなければならない立場である。
十代の初心者ではない。後輩達も、その戦い方、勝つも負けるもその全てを見ているのである。
なのに芸の無い負け方を何度もしているようでは、先は望めない。

厳しい物言いになるが、大会に出る以上、道場そして団体の看板を背負っている以上今一度熟考してもらいたい。今のままでは「ただの地方の一流」でしかない。「中央の一流」になるには、それ以上に思考しなければならない。

 試合において体力・技量等に他の選手たちと彼らに大きな隔たりが、あるとは思えない。
違うものがあるとすれば、それは「意識」そのものでしかない。
自身に弱点があるのであれば、それを克服して臨むのが試合である。
同じ過ちを何度もしていることに本人たちも猛省していることであろう。

折角、高い技量があると公にも認められている選手たちである。
だから余計に声だかに叱責しなければならない。
まだまだ勝てる要素も、他を上回る能力もあると私は確信している。
だからこそである。
捲土重来をそれぞれの胸に抱いてもらいたい。

 体格、技量がほぼ同等の者達が、競い合う。
その中でいかにして勝敗は、決するのであろう。
そこにあるのは、強い思い。
そして、相手との違う「感性」を表現出来ることにつきる。
いつも通りとは、そのことも指すであろう。
いつものように100%出せるのであれば、試合は自身のモノになる。
それを出せるか否か、それは一重に「ふだん」にかかっていることを忘れてはならない。
無論、私たち指導者も、それは同じである。
負けは、指導者の責任でもある。
今回の結果を踏まえ、次を見定め腰を据えた取り組みをしていかなければならない。
例え、負けたとしても価値ある負けというモノは、あるものと信じている。
だからこそ、今回のことを大きな糧としなければ、負けた意味がない。



# by katsumi-okuda | 2012-01-29 22:05 | Trackback | Comments(2) 

それぞれの稽古

 持病の頸椎が…首そのものもそうだが、困るのは肩甲骨周りの鈍痛…。
こう寒さが厳しいと朝起きるのも難儀。
それでも、稽古となれば一応そんな素振りも見せずに動かねばならない。

激しく動いているうちに何とかならないかなぁ…
治らなくても、少しは緩和しないかなぁ…などと
本当に淡い期待を込めながら動いてみたが…あまり変化はない。
よって、まだ「重く、そして痛い」…。

 さて、日曜は千葉での大会である。
選手のみなさんは、それぞれに思いを胸に精一杯競い合ってもらいたい。
相手に勝つということは、まずは自分に勝つということ。
試合前、そして試合中、最善の心にて「一心」に戦ってもらいたい。
結果は、あとからついて来る。
それくらいの気持ちで皆、伸び伸びと自分を顕わして下さい。

 確かに試合だけが、全てではありません。
しかし、出られる環境や立場にいられるのなら最良の糧を得られる再考の機会なのです。
やった者にしか、わからないその実感を大切にしてもらいたいと願って止みません。
百回の稽古より一回の試合です。
そこから学ぶことは、大変多くあるモノです。
すぐには気がつかないこともあるでしょう。
ですが、それらは全て自身の血肉となることを忘れないで頂きたい。

 試合は、眼に見える目標としては最適なものの一つでありましょう。
では、試合に出ない人たちにとっての目標とは…。
よく言われることですが、その目標も人それぞれなのです。
そして、そのそれぞれの目標に合わせた「間口の広さ」を私たちは、提供していかなければならないと思っています。

 何も考えず、感じずに日々の稽古をただ踏襲していくだけでは先は臨めません。
伝統的な様式を正しく継承していきながら次世代に続く新たな取り組み方とその目標を見つめ直していかなければ武道とは、時代に取り残されかねないと杞憂しています。
革新的な競技化によって世界に広がった極真カラテも、それは同じです。
今どれほどに隆盛を究めていようが、先の展望を考慮しない動きは停滞、いや退化に等しい。

競技に邁進するのはいい。
しかし、ではその先に何があるのか。
このカラテを通して何が、自分にもたらされるのか。
特に指導に立つ私たちは、そのことを第一に思考し、明確な指標を立て実行していかねばならない。

子供達のその先の為に伝えねばならない大切なことを教え慈しむことも大事。
老齢に達しても尚、それをやる価値のあるものと伝えられるだけの本当の「武」がなければならない。
そのために無くしてはならない大切なものを正しく伝えること。
そして、そこから新たな試みを模索していくこと。
そのために私たちは、歩を止めてはならない。
稽古の一つ一つから、日々の行いの一コマから思考し実行していかなければならない。

今、私の頭の中の大目標は、それであり、そのことで一杯である。
そのためにまず、この身が壊れても、まず稽古ありき鍛錬ありきなのだと思い定めたりもしています。





# by katsumi-okuda | 2012-01-27 02:08 | 稽古日誌 | Trackback | Comments(0) 

身体を造る…稽古としての型

 一年の中で最も寒い時期になってまいりました。
この一ヶ月程が、山かもしれません。一年を過ごすだけの心身を練り上げるためにも大切な時期と私の中では、とらえています。…ただ、どうしても体調不安定になり易い時なので皆さん、注意して参りましょう。

 さて、これは私見になりますが…
「型競技に参加しないのであれば、一定期間特定の型に絞って稽古したほうが良い」
と実感しています。

 道場設立当初というか、ここ十年前まで稽古で指導・稽古する型は決まったものしかやらなかったし、やらせなかった。初段に至るまで「太極・平安・平安(裏)・三戦」が基本で、加えてせいぜい転掌・最破ぐらい。何故ならそれが、古くからの慣習だったからと言えなくもないが、何よりやり込んだことにより自身の「軸」を確かにしたり、知らしめる効果が大きいことに起因する。

例えば、平安の型は、確かに体育的な型ではあります。
それをもって武術・武道的とは言い難いという説も頷けます。
しかし、初心者から中級に至るまで、その動きの中で「カラテ」らしい「競技」としての動きの基本を身体に馴染ませるという効果は、大きいと思われます。

 また、その裏の型は、回転することによって身体の自在さと身体の軸の感覚を確かにする良い稽古鍛錬だと実感されます。それを多く稽古した後の組手の自在さは、やった者にしかわからないかもしれません。だからなのか、総裁はこの型を好んで私たちに指導されていたことを覚えています。
 支部長合宿のとき、一つの型最低20回以上で連続五つ計100回…やってる最中は、どんなふうに自分の身体があるのかさえわからなくなる…しかし、数を増していくに従い回転していくことに抵抗が無くなり、逆に楽になっていく。そんな感覚を味わいました。そして、その後の組手が楽なこと…当然ですね、始終回らなくて良いのですから…。
今では、やらない所も多くあるようですが、私たちの団体で特に上級者は必須です。

 三戦の型は剛柔流系の伝統的な型です。
空手発祥の地でもある沖縄の数ある道場では、老いも若きも日々稽古鍛錬されているようです。
無論、その流派等によってそのやり方には差異は認められますが、その根幹は同じです。
動きに合わせた呼吸法と最小の動きの中で自身の身体を見つめ直し鍛錬に変えていく手法は今の競技にも使えるものと実感しています。というか、以前から選手達には必須にしていますが、それを正しく意識することによって接近戦での呼吸や相手の打突の捉え方に慌てなくなるという効果のあることが認められています。

三戦の型は、やる人の目的に応じ対応出来る優れた適応力のある型だと思っています。
例えば、壮年以上の方々には、呼吸法と正しい姿勢の取り方、力の抜き方が身体のあるべき姿を自然思い興させてくれるものです。無論、小さな道場生たちにも同じような効果があるようですね。
無理に身体を締めすぎないよう呼吸と身体のバランスを意識し行うことは、時に集中力と自分の身体の今の有り様を実感させてくれます。

そして、三戦の中で行われる「息吹」ですが、何も強くこれ見よがしに行うのではなく、例えば、忙しい日常や気持ちが不安定な時にも使いたい壮健法だと私は、思っています。
若い頃、仕事で約十ヶ月ほど全く稽古出来なかった時、立ったままや座った姿勢のママ「静かに息吹」を繰り返していました。結果、腹筋の力(無論見た目も)や腰の力は、殆ど落ちなかったと記憶しています。

ですから、この時期多くの道場生にそれをやってもらうこととしました。
特に壮年部そして少年部上級者には、これから必須とする予定でおります。
また、初心者の皆さんにも、覚えて頂きたいと思っています。
手順を覚えることは、そう難しいことではありません。
覚えて一つ一つ、体感してもらえれば良いと思っていますし、何かに応用してもらえればとも思っています。
折角ある型なのですから、使わないと損ですね。

# by katsumi-okuda | 2012-01-23 15:40 | 稽古日誌 | Trackback | Comments(0) 

徒然に…

 厳しい寒さが、続いています。
明日は、この地にも雪が、降るそうですが、それでも北の彼の地に比ぶべくもないことでしょう。
まだまだ、寒さ厳しい折りですので皆さん、どうか体調を崩さぬようお過ごし下さい。

 私も、当たり前ですが社会人です。
別に霞を食らって生きてるわけではないので、それなりに柵に苦慮、苦悶することもあります。

当人の力では、どうにもならないことというものは、よくあることです。
しかし、根が楽観的なのか何なのか、諦めが早い、良く言えば切り替えが早い。
駄目なものは、どう足掻いてもだめだし、いつまでも、それに引きずられたくはないと思う。
しかし、そこは、やはり人の子です。
いつまでも「ああでもない。こうでもない。あぁ、どうしよう…」などと人並みに悩んだりもします。

しかし、やるだけのことはやってみる。
あとのことは、その時になったら考えるように努めています。
…そうは言っても…と又無限地獄にハマってしまうことも侭ありますが…

そんな時、人というのは、つくづく弱いものだと実感してしまいます。
別に命を取られるわけでもないのに、見えぬことに思いを巡らし余計な事に杞憂を抱いてしまう。

だから私は、余計に楽観的に考えようとする。
口に出して、言葉にして「大丈夫!!私は運がいい!!」「こんなもんで済んだから良しとしよう!!」
と真面目な顔して言うようにしている。
ただの強がりなのか何なのか…しかし、それでも一条の助けに必ずなるのだから不思議なものです。
人とは、そんなことでも強くもなれるものと思うときでも、あります。

それも、私にこのカラテというものがあるからだと実感しています。
どんなに嫌なことがあろうと、子供達や道場生の笑顔や真剣な眼差しを身に浴びる時、自然「感謝」がそして「力」が、湧いてくるものです。

真剣に立ち向かう稽古だからこそ、それは私に力を与えてくれるものだと思っています。
私は、弱い。そのことを確かに受け止め、そこからどうしていくか稽古を通じて学ぶこと。
それこそが、修行だと思ってもおります。

少なくとも人様の上に立ち、某かの影響を与える立場です。
そのことが私の支えにもなっているのですから。

毎度々思うことがあります。
何にせよ「覚悟」をもって事にあたらねばならない。
些末なことであれ、何であれ。
そして、毎日の稽古もしかりです。
それが、これからの全てを生む力となるのですから…。

さてさて、明日はどうなりますやら…
これ以上、寒いのだけは…流石に若い頃とは違いますね。



 

# by katsumi-okuda | 2012-01-20 00:27 | Trackback | Comments(0) 

想いを型に…

 暫く稽古と体調の不安定さに悩まされている。
正直、身体とは時には抗えないものです。
例えば、今の自分は十代の頃のそれでは絶対にありえない。
なのに人は、その時の思いをたぐり寄せようと時として醜悪に足掻くことをやめない。

 それは、自分に正直な分、代償を伴う。
稽古そして鍛錬を積めば積む程、壊れていく自身とのせめぎ合いを余儀なくされるもの。
…だからこそ、今の自分の稽古の有り様が問われる。

人によく言うことだが
「稽古とは、鍛錬、そして十分な心身の休息と栄養から成るもの。」
ただ闇雲に邁進出来る若き時を過ぎたならば、それを今一度顧み実行しなければならないと。

「無理はしても無茶はいけない。」
人によく言うことのもう一つだが、これは自戒でもあります。
頭で道理・理屈を解した上で行うこと。単に力任せや感情に流される行いは何も生まぬか怪我の元。
そろそろ、それを銘として日々を過ごさねばなりますまい。


 疲労の蓄積は、人それぞれ千差万別。
ただその根幹は、同じだと思っています。
それは力の源が、足腰そして背中から伝わる以上、そこに懸かる負担は想像以上です。
そこを完璧に制御もしくは「緩める」ことが、出来ればといつも試行錯誤しています。
しかし、その理屈がようやく融けてきていますので、まだこれからの「伸びしろ」はありそうだとも思っております。

 ふだん日常の姿勢や立ち居振る舞い、そして稽古の基本が「蔑ろ」にしていては始まらない。
そればかりか、これからの自分に害を成すと今は感じている。
確かに同じ歳でも、頑強な人は多くいるものです。
また、歳以上に若く見られる人、そうでない人といろいろです。
では、その差は、どこから来るものなのか。
生まれ持ったものも、確かにありましょう。
ですが、それ以上に今を作る自分の「心」そして「心がけ」があるように思えてなりません。
一つに「身を慎む」とは、そういうことだと感じています。

 形から、または力から入ることも大事です。
しかし、歳を重ねるということは、多くの経験を積むことでもありましょう。
ならば、時として形から力からではなく「想い」から入ることも大事と心得なくてはならないと実感してなりません。

 例えば、人と会い挨拶をかわす。
ただそれだけのことでも、同じこと。
正しく明るく笑顔で交わす挨拶は、万能の効き目があると思っています。
想いが人に伝わるとは、そういうことです。

形ばかりの礼節は時として傲慢不遜にしか見えないものです。
心から相手を長じ素直な心を開く要として礼節は、あるものです。
それが無用な軋轢を避け、相手に自身を知らしめる手立てともなりえましょう。
人に媚び諂うために礼節が、あるのでは断じてありません。
人を重んずる心の顕われとして、自身の誠の姿を見せるために…。

何事もそうであるように「想い」の入らぬ振る舞いは、何も生まない。
ならば、その想いを大事に活かしてこその「武道」としなければならない。
この齢だからこそ、そう思うのかもしれません。

ですが、だからと言って手を抜いた稽古・鍛錬に意味はありません。
想いから入るとは、そこに新たな「力」を得る一法として至るものと思っています。

自身をよく制御することは、次を生む。
それは今よりも、必ず大きな力となって…

さて、その前にこの身体を「新しいやり方」で一時休ませてみましょう…。



 

# by katsumi-okuda | 2012-01-16 01:58 | 稽古日誌 | Trackback | Comments(0) 

日々、変わる心身

 普通の生活に戻りつつある一月ですが、身体はなかなか…。
いつもよりあちらこちらに筋肉痛が、顔を出しています。
それはそれで、いいとも言えるのですが…。

 一月下旬に大会を控えた選手たちのための稽古が、多くなっています。
通常の稽古も、それ相応に変更されるのが私たちの稽古です。
無論、一般の方々は分量や内容は変更されますが、私や年長者はそうも言っていられません。

選手たちが「元立ち」で30秒ごと代わる代わる組手の相手をつとめる。
選手達も最初はセーブしながら動いているもののセットを重ねていくと対戦相手が誰であろうと「落とし」にかかる。
いくらスタミナがピークであれ、そこは選手たちです。
そんな打突をまともにもらっていては、こちらも適いません。

相手をつとめていくうちに…
こちらも調子に高低差があることに、いつも気がつかされます。
あまり体調は芳しくなくても、動ける時…つまり相手がよく見える時。
また、調子はいいのに棒立ち気味になり、相手と打ち合ってしまう時。
…だから、面白いともいつも思います。

完璧に精神を制御する事は、不可能に近い。
ですが、最善を尽くせるよう努める。
そして、そこへ持っていけるよう、こんな稽古があるのだともいつも思います。

完璧な精神力…そんな強固な意志を持った「先生」を私は知っています。
それは極真会館初代師範代にしてキックの鬼と呼ばれた「黒崎先生」です。
今は、お身体の調子が芳しくないようで少しご無沙汰しておりますが、いつも年の初めにご連絡を頂いておりました(いつも電話口で私は、直立不動で受け答えです。ですが、先生はとても優しく気遣いをされてお話しをして頂きました…それはそれで怖いのですが…有り難い限りです。)

…私が「先生」とお会いし親しくさせて頂いたのは、もう十数年程前の事です。
当時、私の後援会長からキックの藤原敏男先生を紹介して頂いた伝からでした。
初めてお会いした時、それはそれは緊張致しました。
何せ、その武勇伝というか凄まじいまでの鍛錬や逸話は、幾度となく関係者から耳にしておりましたし、あの総裁でさえ認めていた「剛の者」です。

戸田市にある先生のジムまでの車中、緊張より怖さの方が先に立っていたことを覚えています。
ジムにつくとガラス戸越しに見覚えのある「あの顔」があります。
ふと眼が合う…今にも射すくめられそうな強烈な眼光が飛んできました。
本当に「眼からビーム」でも出てるんじゃないかと幼稚に思ったりしました。

玄関口で挨拶させて頂きましたが「俺は、極真は嫌いだ」とにべもない返答。
あ…やっぱり来なきゃよかったかも…心底思いました。
会長と藤原先生が取りなしてくれてなければ、どうなっていたことでしょう。
しかし、時が立つにつれ、いろいろとお話しさせて頂いているうちに、どうしたことか私を認めて頂いたようで、さまざまな訓話をして頂き、貴重な時間を過ごさせてもらいました。

あとで人伝に聞いたのですが、私の立ち振る舞いが気に入ったとのことです。
「アイツは、少しは武道をやっているよ。」
「極真は嫌いだが、アイツならいい。」
それを聞いて本当に嬉しかったことを覚えています。

その後、何度か先生の口述筆記を頼まれたりと幾度となくジムを往来するまでになりました。
そんなある時ふと「奥田くん…そこで前屈をやってみなさい。」と唐突に言われました。
背広に革靴なのに…と訝りながらも「押忍!!」の一言です。
構えて、いざ突いていこうとすると「…うん。もういいよ。」と優しげにニヤリと笑い仰る。
「よく稽古してるようだね。それを忘れず稽古そして鍛錬しなさい。」
「押忍!!」
何の事か、どこがどうなのかは、当時分かりませんでしたが、大層嬉しかったし、そのことを胆に命じようとも思いました。総裁亡き後、その当時、師と呼べる方からの言葉でしたから…。
それが、ひょっとして今の稽古鍛錬に繋がっているのかもしれません。

そして当時私たちの団体は、極真でも最小規模と言われていたときでした。
それでも秋に千葉で「全日本大会」を開催した時の事、突然「先生」が会場に姿をお見せになられたのです。その時私は、実行委員長として奔走していたのですが、その一報を聞き急ぎ玄関口へ向かいました。その報は並みいる師範達、諸先生達にも伝わり一気に慌ただしくなり入り口近くに出迎えの列が作られました。
 車から降り、こちらへ歩いてこられる先生へ師範達全員、訝しげにも「押忍」という挨拶。
そんな師範達に一瞥をくれ私に歩み寄り、ぼそっとおっしゃいました。
「奥田くんが、大会やるから来たんだ。…極真の大会に来るのは、これが初めてだ。」
また、いつものようにニヤリとされ先を促され、惚けている私に先導を頼まれる…いやぁ…でも、師範達の手前が…とも思いましたが、それより先生の機嫌を損ねる方が何倍も怖いので、先陣を切らせて頂きました。そのときの師範達の訝しげな表情は、今でも忘れられません。
結局、あとからお叱りの言葉よりも、何故???という質問が多く困惑しきりでしたが、この件以降、私は団体の中で何につけ「浮いた存在」であり続けたのは事実です。

先生からは「必死の心」とその精神性の高さを学ばさせて頂きました。
しかし同時に人としての優しさや子供達に向ける武道の大事さを多く諭されたことが、とても大きく印象に残っています。身をもって武道の厳しさから己の弱さを知り、それを見据え精進してこその武道。

どんなことにも動じないあのお姿とあの声を…またいつか挨拶にいかなければと、年の初めになると思い起こされてしまいます。いまでもお元気でいられれば良いのですが…。
いつかそして、私も、そうなるのでしょうか。
いや、あのオーラだけは、私には纏えそうにもない。
そう私には私なりのそれを纏えるようにしなければならない。
またいつか、今の「前屈」を見てもらいたいと切に思っています。


# by katsumi-okuda | 2012-01-14 02:42 | 稽古日誌 | Trackback | Comments(0) 

水戸少年部稽古始め

 一月初めての祝日、水戸で少年部稽古となりました。
これが少年部にとっての「稽古始め」ということ。
みんな、時間前に元気に集合してくれました。

そこから二時間余、楽しく全身くまなく「動いて」もらいました。
師範代と補佐にS場さんにも参加願い、ともかく私たちも楽しく動くことが出来ました。
子供たちにとって稽古は、何にせよ楽しく興味深くなくてはなりません。
時に厳しいこともありますが、それも明るく楽しく乗り越えられることを忘れないでもらいたいですね。

これから出来る限り(月に一回ペース…多分日曜とかになるかも)一緒に稽古していきたいと考えています。そして、ここの道場だけではなく、いろいろな場所で一つの催し物としてやってみたいと思っていますので、道場生みなさんのお力添えをお願いしたいと思っています。
これは、水戸に限らず本部や岩井でも実施していきたいと考えております。

稽古後、三人で新年の話し(道場としての所信表明!?)を致しました。
「これから毎年が勝負の年です。あと何年出来るかではなく、その結果としてやり続けられる事を願いたいと思ってます。」
単に稽古に没頭することもいいでしょう。
しかし、私たち指導に携わる者、そして年長者は稽古することがただの自己満足悪くすれば自己陶酔に陥ってしまうのは、大きな間違いだと考えています。
私たちが出来る事を後に続く子供達や道場生たちに道を示したり、その環境を整えていく事も、大事な一つの責務だと思わねばなりません。

今、そうしなければ、このカラテが武道として後世に残らなくなってしまう。
そんな危惧を私は抱いています。
いくら私たちが、懸命にカラテに精進し、よいものをやっていたとしても世間に認知されなくては意味がありません。ただ極真の看板に頼るだけでなく正真正銘の武道としてのカラテが、どのようなものであるか。さまざまな人たちの要望に応えられる武道の新しいあり方を正しく提示していきたいと願っています。そのためにも、今まで以上の稽古を自らに課し、新しい稽古のあり方と効果を示していかなければならないと思っています。

奇異な事をやれというわけでは、決してありません。
しかしだからと言って基本や型だけに「逃げている」ような稽古も本意ではありません。
普く効果のあるもの。そして、武道とは何かを誰もが実感出来ることを私たちは、伝えていかねばなりません。


私たちの年代になれば、残念ながら逝ってしまう方も珍しくはない。
そして、もっと残念な事は身内以外、その方が、どんなことをやり、何を世に残したか忘れられてしまうことが多いことです。
幸いな事に私たちは、このカラテに身をおいています。
ならば少なくとも、後に続く子供たちや道場生にさまざまなことを教え残していく事が出来るのですから、やらないわけにはいかないですね。

例えば幼年からやってるOちゃんやRくん、そしてEVたちは、その幼い頃の事を細かくは覚えてない。
でも、何かを習ったことを感じた事を覚えてくれています。
それこそが、後に残せた「証」だと私は信じています。
ですから、人を教え育てる事とは、ひとえに自身の技や心を映す、そして思いを残すでもあるかもしれないと思っています。

これからは、今まで以上にいろいろなことを表していきたいと願っています。
そんなことを子供たちの稽古の最中に本当にふと思いました。
そんなとき、ふと「自分も、こんなときは年相応なんだなぁ」と思ってしまいます。

しかし、私は断じて自分から口が裂けても自分が歳だと言わないつもりでおります。
というか、道場内でそんなこと考え攻撃に手加減加えるような遠慮者は、誰もいませんし。
そして、それはそれで「有り難い」と思うのですが…。
私やS場さんは最年長の一人です。
しかし共に稽古を通じ自分の心身が老けているなどと考えもしません。
年齢は単に戸籍上のことと思っています。
女性のみなさんが、いつまでも美しく奇麗でいようと努められるように私たち男性も、いつまでも壮健で若々しくいかなければならない。
そのために私たちは、出来る限りのことをするだけなのです。

…いいんです。
カラ元気でも…
いつまでも子供たちや若い道場生と楽しく稽古していけるのであれば…

# by katsumi-okuda | 2012-01-09 20:09 | 稽古日誌 | Trackback | Comments(2) 

いつも通り…稽古始め

 例年通り五日から道場の「稽古始まり」
少年部そして中等部と流石に参加者が、まだ少ない。確かにまだ冬休み中だし、仕方が無い。
その後、一般部の稽古開始。

 いつも通りの内容でいつものように始まる。
その何気ない「普通」が、なんとも心地よくもありました。
参加された皆さん、いつものように元気で頼もしい限りでした…特にクラブの女性陣。

「いつまで稽古出来るのかしら…」
そんな声をよくお聞きします。
私とて人ごとでは、ありません。
カラテは武道である以上、年齢を言い訳に歩みを止めるわけにはいきません。
ただ、その年齢や目的に沿った稽古の姿が、あるべきだとも思っています。

ここ数年思考してきたことですが、今春には、その一端を公表しようと考えております。
ただ普通に基本や型だけに逃げていては、芸がない気がしてなりません。
もっとふだんの生活に即した効果的な「形」を提示していけたらと思っています。

日本人は、やはりどこまでいっても日本人です。
別に偏見の言葉ではありません。
どう考えても骨格や筋肉のそれは、他の国の人たちと相違があります。
それが例え同じ東洋人であってもです。

例えば太極拳や西洋のダンスをやられている方々がいます。
素人目に見て、そのどれもが素晴らしいのは分かるのですが、なんというか「やはり本場の人のそれとは何かが違う」良い悪いではなく、根本的な何かが違う気がしてならないのです。
それはそれでも、いいのでしょうが、普く効果を生み出すというのなら、やはり日本古来の「武芸」の動きをなぞる方が、より適切ではないだろうか。
そう思い当たり、ここ数年工夫を続けております。
それは単にカラテだけに限らず、ふだんの生活様式や立ち振る舞いから、その道筋を思考しています。

昔の日本人は、無理な体勢から力を使う事を良しとはしていませんでした。
そのため姿勢一つとっても、さまざまな工夫がなされていた。
まして動きを伴う「芸事」の場合、それはより顕著に顕われています。
しかし、やはり現代人の私たちが、それをそのまま模倣するのも又違いがあると考えられます。
何故なら、時間と共に骨格も生活様式も西洋化してきた現代にあって、古来そのものの要諦を今に押し込めてしまう事は、やはり無理があります。

どんなことでもそうなように、その姿形そのままを模倣すれば済むというものではありません。
確かにその道に殉ずるのならば、それも貴いことですし、行う一つの法でもありましょう。
しかし、私たちがこれから思考していかなければならないこととは、あくまで普通の人たちが、この動きや形を通し、壮健でいられる一助となるものでなければならないと考えているからです。

鍛えられる限り鍛えておく事に相違はありません。
ですが、それも間違った観点の鍛錬だけでは、肉体は疲弊してしまうばかりでしょう。
十分に緩め、瞬発として力を一点に収束させていく動き。
それを基本として考えています。
一つの力を使うのではなく、全身の力を無理・無駄無く使いこなしていくことです。

…ただ私だけが、出来ても仕方が無い。
それをどこまで体系化し、洗練させていけるかが鍵となりますが…。
これは私の武芸の一つの顕われだとご理解して頂きたい。
またそれも、カラテの武道の有り様だと解しております故。

これから私のカラテは、「次」を指向しているのかもしれませんね。
しかしだからといって、今の稽古そして鍛錬に手を抜く事は、当分ないと言えましょう。

# by katsumi-okuda | 2012-01-06 00:21 | 稽古日誌 | Trackback | Comments(0) 

神宮巡り

毎年恒例になりました正月の「神宮巡り」。昼前に「鹿島神宮」に到着し、いつものように参拝。三が日ということもあり、人手はいつも通り…ですが、やはり昨年の痛手は、ここにもあったようです。その痕を見やりながら、いつも以上に感謝の心と自身が、成さなければならない責務をヒシヒシと実感しました。

昨年は夕刻過ぎということもあり参道の出店も閉まっていた「香取神宮」も、今年は午後早くにつきましたので、賑やかで華やいだ雰囲気でした。どちらかというと、こちらのほうが庶民的なのでしょうか、近くの街「佐倉」の小古都の趣も、相まってとても良い雰囲気です。
ですが、どこへ行っても人で一杯です。当然なので諦めも、つくのですが、どうも「人酔い」しやすいタチですので…。
 いつか静かな時に訪れたい街、そして神宮の一つです。

さて、明日からは「授業」が始まります。
そして、明後日からは、普通に「稽古」が始まります。
何気なく当たり前のようにすぎていく…
そのことにまずは「感謝」です。
そしてまた、一つ一つ「懸命愚直」に取り組みたいと…帰宅は、いつものように渋滞にハマりながら、そんなことを考えてまいりました。

# by katsumi-okuda | 2012-01-03 23:26 | Trackback | Comments(0) 

謹賀新年…新しい年を迎えて

新年、明けましておめでとうございます。本年は皆様にとりましても必ずや良い年になりますことお祈り申し上げます。

 「大事を成すものは才に走らず、愚直なること」海舟老
身を引き締めて今年も、後れを取らぬ精進をそして「自分自身のカラテ」を希求実戦していきたいと誓いたいと思います。また、今年も昨年以上により多くの人たちとお会いし多くを物事を学びたいと思います。

…さて、少しは動かないといけません。
この年になると本当に…動けなくなるから…
いつまでも出来る事なら…傍迷惑かもしれないですが…動いていたいと切望してます。
 では、また後で…。

# by katsumi-okuda | 2012-01-01 11:34 | Trackback | Comments(0) 

< 前のページ 次のページ >