学ぶとは…

 長く教える事を生業としていると確信することも多くある。
数多くの学習法なり教材なりが、今では簡単に手に入る時代です。
しかし、出来ないことを出来るようにする方法とは、所詮、ただ一つだけ。

 それは「自分で練習する事」につきる。
初めに覚えなければならない物事(重要項目、公式、単語etc)を徹底的して覚えてしまう事。
この方法論は、長く勉強法の王道とされています。例えば、幕末から明治初頭にかけて国内外で活躍した多くの人たちは、この方法で活路を開いていた。数少ない教材をそれこそ頭から全て暗記してしまう。
そして、そこから応用を繰り広げていく。まるで頭という冷蔵庫に入りきらない程の材料を蓄え、必要に応じそれらを調理していく様に似ている。

 頭に物事が入っていなければ、次の一手は浮かぶものではない。
それらが、しっかり頭の中で定着しているからこその応用。なのに今の人たちは、そこのところを勘違いしているふうがみえる。確かに楽して物事を展開していきたい気持ちも、わからなくもない。楽しく物事を繰り広げていきたいのも、わかる。
 しかしだからと言って、大切な「初めの一歩」を疎かにしてはならない。
それこそ「基本が出来てなくて何の型か組手か!?」ですね。
強ければそれでいいとばかりに手足を振り回していても、所詮行き着くところは浅瀬だけです。
ブロークンな会話で英語が話す事も出来ます。
しかし、そこまでですね。
心の機敏や相手に対しての思いやりを簡単な言葉で表現出来るのは、やはり「美しい形」があればこそです。

私たちの組手も、それに等しいものがありますね。
強い上手い人の組手は、例え無数の打突の最中でさえ「美しい」ものなのです。
どんな物事でも、強く上手いものは「基本に則った美しさ」が伴うものなのです。
ですから私たちは、基本をそして型を重視しているとも言えるのです。

さて「学ぶ」とは、どういうことでしょう。
私見ではありますが、効果を見せている一例があります。
「教える事20%、練習に80%」という捉え方です。
沢山教えられて「出来た気」になっていませんか!?
本当に大事なのは、基本等の定着です。
知らない出来ないことを心身に定着させていくには、それ相当の時間と労力が必要です。

それを知っているはずなのに、人は楽をしようとします。
好きな物事や少し出来る事ならば、それも可能でしょう。
ですが、再度言います。
出来ない嫌いな事を出来るようにするのです。
そのための時間、労力は覚悟しなければいけませんね。

 そして「学ぶ」ために大事なことは、自信の「強い気持ち」です。
出来るようになろうとすること。そのために必要な心構えを整える事が肝要です。
出来るようにやれるようになろうとする人とそう出ない人とでは、その効果に大きな開きがあります。
それを第一に忘れないようにしなければならないでしょう。

 次に例外なく「出来るようになる人たち」は、素直です。
自分の確かな意見を持ちながらも、出来るようになろうとするとき、人の教えを正しく請い、そして正しく実行出来る素直さ真摯さを持っています。
(中には、天の邪鬼な性格や変わった人もいますね。でも、そんな人たちでもやはり、出来るようになる人たちは、素直・愚直なのです)

いくつになっても、そんな素直で愚直な姿勢を私たち大人も忘れてはならないと思っています。
「子供は、親の写し鏡」なのです。親や周りの大人が率先して懸命愚直な仕事、そして礼節を積むからこそ子供は、それを学ぶとも言えましょう。
出来る事なら、子供たちには辛い厳しいことかもしれませんが、大切な事は少なくとも三〜五年は言い続けたいと思っています。今日言って出来る大人はいないように、まして年端もいかない子供たちです。出来るまで心身に定着できるまで辛抱強く、そして丁寧に教え伝えていきたいと思っています。



  # by katsumi-okuda | 2012-05-25 16:44 | 教育 | Trackback | Comments(0)

よい経験を

 ここ二日ばかり、世の中は楽しく嬉しい出来事が続きました。
前日、早起きして(というか、前日帰宅が遅く二時間しか寝てない…)「金環日食」を!!
薄曇りの中、眼鏡のせいかオレンジ色に揺らめく太陽には、少なからず興奮しました。
あと18年後、北の地でも、観れるそうですが…
その時の自分の年齢を考えると…相当、複雑な気持ちになりますね。

 そして、今日は冬のような肌寒さと雨模様の中「スカイツリー」の開業に湧いていました。
墨田区の彼の地は、父方の親戚が住んでいますし、小中学生の頃、幾度が訪ね歩いた地ですので何気に馴染みがあります。東京に新たな観光地が増える事や地元が、賑わう事は嬉しいと皆言いますが、それでも、今までのある種長閑な下町の風情が、かき消されそうなのは、どうなのかなと人ごとながら、少し戸惑いもあります。
 しかし、ツリーに上れるのは、しばらく後になるでしょうから当分は、その周辺にある七福神巡りでもしようかと、考えています。ちなみに、私の地元から東京に車で向かうとツリーは、いつでも観られます。なんか少し得した気分でもあります(^^)

 
 さて、中学生以上は「中間テスト」の期間中です。
試合と同じように頑張ってくれればと思うのですが…なかなか…です。
出来ると出来ないの中に好き嫌いを入れて考えない
出来ないから嫌いという気持ちは、わからなくもないが、それをいつまでも引きずっていては、出来るものも侭ならない。そして、それを振り切るのも、やはり「自分の強い気持ち」なのです。
しかし、それが頭でわかっていても、出来ないのも人間なのですが…。

 どちらにしても、試合にせよテストにせよ、負けていい気はしません。
しかし、その「負けた」ことをどう捉えるかが、大事。
負けた事は、いいことではない。
でも、それを「よい経験」にするか、しないかは、自分次第
なのです。

 何故、判定で相手に旗が揚がってしまったのか。
相手より何が自分が、劣っていたのか。また逆に何が、よかったか。
それを考えられるようにならなければならない。
そして、何より負けていつまでもくよくよしたり、投げ出したりしてはいけない。


試合もテストも、ふだんの「一葉」でしかない。
ふだんの「行い」が、その全てなのです。
そして、ふだん懸命に努力しても、なかなか結果がついてこない事も知らなければならない。
でも、それでも、平生にふだんを通さなければならない。
それらを知る事も、試合そしてテストなのだと知ってもらいたい。

 楽しい事や素晴らしい事を知る事も大事な経験です。
しかし、嫌な事辛い事厳しい事を知る事もまた、大事な経験ですね。
そして、それらにどう立ち向かっていけたか自身を顧みる事が出来るよう
努めましょう。

 本当にそれらが、理解出来た人たちは、瞬く間に「次の階段」を上がっていける事を知って下さい。
そして、それは誰にでも出来る唯一の「技」なのです。
人というものは、やれると思った瞬間からもう出来るようになるのです。
明るいと信じたその時から周囲は、一気に明るくなるものなのです。

 長く教壇にいると本当にそんなシーンを見かけるものなのです。
それこそ、次の瞬間からその人は「出来る仲間入り」をしているのです。
まずは、自分に何が足りないか何をしていくべきか自分で探しましょう。

総裁に言われた事を思い出します。
相手だって人間だよ!!手足だって同じ本数しかないんだから!!相手が二倍やったら四倍やんなさい。
それでも駄目だったら何倍でもやんなさい!!きっと出来るよ!!」

無茶なように聞こえて、なんと含蓄のある言葉でしょう。
そうですね。今の少なくとも二倍やりましょう。
絶対、成果は出てくるものです。
例え苦手な勉強でさえね!

かく言う私も、ある時まで全く出来ないヤツでした。
でもある時、閃いたのです。
教科書、全部覚えりゃ何とかなるかな…いや、きっと何とか成る!!
かくしてこの無謀な挑戦は、ある教科に限って劇的な成果を上げる事が出来ました。
つまり、暗記すれば次の日からTOPに並べる教科です。
そして、その自信を糧に他も、何とかやれるまでになったのです。

そして、中学時代の貧相な身体をも、それで突き動かしたのです。
二十回もできなかった拳立てを朝、昼、晩、三セットずつ…
一年も立たないうちに100、300、500回と出来るようになっていきました。
すると、そんなに筋肉はついていないにも関わらず、当たり負けのしない身体がいつの間にか出来上がっていったのです。

何でもそうですが、出来ないなどと考えないことです。
また逆に強く出来るようになろうなどとも考えないことです。
実は、それに成るまで「何も考えない」ことが大事。
つまり、くよくよ考えたり悩む暇なく、やり続ける事が大事。


なかなか覚えられなくともいい。
全然、上手くならなくとも気にしない。
ただ丁寧に淡々と進める事。
そして、少し出来るようになると…景色が変わってきます。
出来ると感じたらシメタものです。
そこからは、加速度的にやれる自分がいますから調子に乗って頑張らせましょう。


 私は、今になっても、そんなふうに稽古そして勉学に向き合っています。
まずは、何も出来ない自分をしっかりと見据えましょう。
そして、そうだからこそ出来る自分が、眠っていることを知りましょう。


  # by katsumi-okuda | 2012-05-23 01:03 | 教育 | Trackback | Comments(0)

あえて「基本」回帰

 少し次までの試合の間隔が、空く事となる。
そのためでもないが、思うところ、というか感ずるところがあり…
「基本」もしくは「基本的な動き」を整理している。

 若い道場生に比べるべくもなく、体力・筋力の低下は否めないし、年齢に抗うにも程度がある。
体力で立ち向かうにも、限度というものが明確になりつつあることを認めざるをえない。
しかし、何も、それに抗うことばかりが能ではないし、それだけを追い求めていて「武道」は成り立たないと自覚もしている。
 いずれ、この筋力を捨てるときが、やってくることだろうとはっきりと自覚もする。
しかし、まだまだ稽古にそして鍛錬に費やさねばならないのも事実。

 この前の東日本大会での一般部の敗戦を踏まえ、特にケント指導員と言葉を交わした。
そして、出てきた結論の一つが「今一度、基本の立ち方の確認」ということであった。
どうしても、軽量の体格では少しの立ち方、腰の落とし方のズレが、勝敗を左右することとなる。
無論、相手の打突に負けぬ筋力を相応に強化していくことも大事ではある。
しかし、それだけでは勝てぬ道理が、競技には横たわる
ものである。

 そして、その理は、相手の体格に勝っていても顔を出すものである。
腰が浮いてしまえば、こちらの打突の威力は半減してしまい相手に押し込まれ後退に追いやられることとなる。では、それをいかに克服していくか。
そのためには、確かに「強固な意志」も重要ではある。
がしかし、それだけでは、どうにもならない側面も競技の特性上生ずるものと理解し、ふだんの稽古で修正していかなければならないと位置づけた。

 そこで丁度、ふだんの道場生たちが、型稽古に勤しんでいるのを指導していて、ふと立ち止まることとなった。型を善くする者とは、どういうことか。
何も今ある型そのものを組手に活かせるなどとは、思ってもいない。
今ある型は、あくまで基本的に空手の伝来の動きを体育的にまとめたものであり、それをもって今の競技にそのまま活かせるなどとは、思ってもいない。

 しかし、それでも、否だからこそなのかもしれないと感じた。
簡単で体育的・簡潔な動きだからこそ、自身の動きが明確に知れるという側面もあるということ。
型の技そのものではなく、着目すべきは、その動きである。
つまり、俗にいう「体軸・自重の移動」である。

例えば、前屈立ちの場合、上手く前膝そして爪先付近に自重を簡潔且つ迅速に移動するとき、そこを起点として放たれる打突の威力は、最大とならなければならない。
…上手く自重が乗りさえすれば、その打突の一点例えば正拳に全体重を集約させる事が出来る。
そのために必要な筋力は、さほどいらないと感じている。
極論すれば、打突を刹那支えられるだけの筋力と正しい骨格の位置が、定められていればいい。

また、両の脚に均等に体重が、かかっていて、適正な腰の落とし込みが出来ている時、相手の攻撃に際し、苦もなく去なす事が可能となる。加えて相手の打突を受け止める、または受けながらこちらも打突を繰り出していても、安定性に優れていることを感ずる。

 しかし、これらを確実に実行するためには、当初、不断の努力による鍛錬は欠かせないのも事実。
そして、それらの「先」に切り詰めた「体力」のみで対抗しうる「形」が出来るものと推移される。
今、私の取りかかっている「基本」とは、そういうものであると言える。

鍛錬とは、よく言われるように「量と質」の双方が織りなすものである。
それらが、交じり合う「点」を探すのが私の鍛錬そして稽古なのかもしれないと思ってもいる。
ただ、まだ若い人たちには、それらを探す余裕はないし、敢えて探す事もないと思っている。
それより、数多くの体験を通し、いわば「本能」として感じてもらうことのほうが大事だと思っている。何にせよ若い人たちには「百回の稽古よりも一回の試合」である。

私や私より先輩の師範達が、持っているものがあるとすれば、将にそれなのかもしれない。
数多くの修羅場を直に体験した「凄み」を自家のものとしているとも言える。
百回の試合より一回の実戦、そして何より一回の白刃は千回の稽古に久しい

それによって会得した心身の動きは、身体がいや心そして意識が、忘れない。
そのためにその動きは、自然となる。
歩くように相手を倒すとは、そのことの顕われ。
体力ではなく、動く骨格の正しさと自重の巧妙な操り方が、自身の威力を最大足らしめる。

型を指導している時、努めて分かり易く「ゆっくり」と動く。
そのために自身が、考えていた感じていた以上の「気付き」が生まれるものである。
ただ、そう意識してやらねば、何にも感じず何も生まれはしない。
つまり、そこに「量の稽古」「力の稽古」は、必須となるのである。
散々、量と力を使い果たした上での稽古でなければ、ならないと感じている。
そのため、私は型に入る前に「身体を苛める稽古」を皆に課しているのかもしれないが…。

…遊びではあるが…
相手の両の腕を持つと、不思議と相手の重心を感じることがある。
人によってさまざまなのが、おもしろい。
胸の上辺りの者、背中まん中より少し下の者、腰の辺りだが偏りのある者…
その中でも、一番おもしろいのが、年端もいかない幼年の子達であった。
まるで「浮いている」ように感じた。そして、いつも変化している…子供ならではなのだろう。
ただ高学年ともなると大人と同様の様を見せているのも興味深い。

両腕を持つか、首に両腕をかけ、その相手の重心の方向へ少し体重をかけると、おもしろいように「崩れていく」
今は、ただ、それだけのことである。
それをもって武道などとは言えないが、何かしらの兆しであることには違いないと感じている。

ともあれ、それが見て取れる時、相手よりも(というか相手にとって)早く動けることは事実である。
そのせいなのか、私と組手に相対すると「当たる気がしない」「当たらない」と言うことが生ずる。
相手が、本当に「見切れる」とは、そのことなのかもしれない。
それの精度を上げる為にも、私は「基本」をそして特に「平易な型」を積んでいると言える。

  # by katsumi-okuda | 2012-05-17 01:55 | 稽古日誌 | Trackback | Comments(0)

一つ試合を終えて

先週土曜日、埼玉県での試合を無事終えた。今年で第二回となる「彩の国極真空手交流大会」まだ若手の橋本先生のもと確かな手応えで今年も、各コートで熱戦が繰り広げられました。いつ観ても、そしてどこへ行っても子供達のレベルと意識の高さには、感心させられてしまいます。確かに、試合にはそれぞれの思いが絡み合い、まだまだいくつもの障壁を越えなければならないとも感じましたが、滞りなく大会を成功に導かれた橋本先生始め大会関係者の皆さん、本当にご苦労様でした。そして、何かとお気遣い有り難うございました。


そして、今回は、私たちの道場も大会会場が近いという事も手伝い、約二十名以上の選手が出場させてもらいました。結果としては、一般部で水戸道場のI前さん優勝、小4本部道場H條準優勝ということになりましたが、他の子供達も、それぞれに「大きな成果」が、あったように感じました。
また「先生のところの子供達は、みんな勢いがあっていいですね」と先生方からお褒めの言葉を頂きましたことをお知らせ致します。
それぞれには、まだまだ確かに課題も多い。
しかし、それも越えられないものでは決してないことを知ってもらいたい。

大切なのは、やはり「気持ち」です。
何をするにしても、「強い気持ち」のあること。明るく元気な勢いがあることです。
試合となれば誰しも、緊張もするし不安そして怖さもあるものです。
それを確かに自身で真っ直ぐに受け止め、立ち向かう真の勇気は何ものにも代え難いもの。
それらは、きっとこれからの子供達に大きな糧となる事と確信しています。

特に個人競技の場合、自身にかかる負担は想像に難くないものです。
その困難さを知った者とそうでない者とでは、大きな差が出来るものです。
例えば、子供達にとって、これほど「怖く緊張する」ことは、そう多くあるものではありません。
それを経験した者は、それからの色々な出来事に見事に対処出来る「強い気持ち」が整うものです。

折角、たくさんの稽古をしても勝てない不条理さを経験し、決して楽には勝てない事を実感します。
負けて痛く辛い思いもします。
でも、それらは後できっと違う形で自分の中で昇華していくことでしょう。
そして、戦った相手がいるからこそ今の自分を知る事が出来た事。ご父兄始めたくさんの友達や先生達が、声の限り応援してくれたことを忘れずに次は、また多くの友達を助けられる人になってもらいたいと願っています。私たちは、そのために辛く厳しい稽古をしているのだということを知りましょう。
試合に出るということは、誰もが、経験出来ることなのです。
しかし、出ようという自分の意志がなければ、決して訪れる事のない機会なのです。
そして、それらを経験した人たちは、他の人たちの何倍も違う貴い経験をしたことを実感して下さい。

試合は勝つにこしたことはない。
しかし、勝っても負けても、大事な事があります。
それは、試合に臨む前の態度であったり試合前後の姿勢であったりです。
つまり、それらにどう取り組んだかかが問われることを知りましょう。
浮ついたり、不安で動けないのは分かります。
しかし、だからといって「どうせ勝てないから…」などと投げていては次はないと思って下さい。
大切なのは、どんなことにでも「全力で前を向いて取り組む気持ち」なのです。
今回は、図らずも多くの選手たちが、それらを顕わしてくれたことは称賛に値しますし、それらを是非次の機会に活かしてもらいたいと願うばかりでした。

そして、応援に駆けつけてくれたご父兄の皆様、そして審判に助力して頂いた指導員各位ご苦労様でした。そして、水戸のTさん、わざわざお忙しい中婚約者の方と駆けつけて頂き、ご協力有り難うございました。(宜しくお伝え下さいね。来月の披露宴は楽しいものと致しましょう(^^)

  # by katsumi-okuda | 2012-05-14 01:02 | 稽古日誌 | Trackback | Comments(2)

やり続けること、そして、やり通せること

 連休明け、考えてみると今一体調が芳しくなく…
といっても、いつものことだが…一応、天候不順のせいにでもしておこう。
しかし、本当に急激な天候不順には、困ったものだ。
そして、この身体も…。

 どちらにせよ、少し暫くぶりの「鍛錬」となってしまった。
体重は、少し落ちたのに「身体が重い」と感じてならなかった。
身体のキレも、今一つ落ち着かない。
ここのところ、指導に明け暮れていたせいと時間的な制約の為、稽古量が心許なくなっていたため…。

 やっぱり、当然の事だが、この歳になると若い人たち以上に体力の落ち方は、激しい。
毎日、ほんの少しずつでも動かしていかないと…。
元に戻すのは、容易ではないと改めて実感してしまう。


新学年からひと月が立ち、それぞれに落ち着きを見せ始め、三々五々、若い道場生たちの顔ぶれが戻りつつある。皆、新しい環境に呻吟としているようだ。
新しい環境なり覚えなければならないことだらけで頭も、一杯一杯の様子。
でも、本当にここが、頑張りどころ。
辛く厳しいとは承知の上で皆には、頑張ってもらいたいと思う。

「はなから自分に合う仕事に巡り会う事の方が、稀だと思いなさい。まずは、何でも仕事に自分を嵌めていくくらいの気持ちで取り組んで下さい。そしてお金を貯めて自分に投資してみよう。そうしたらまた新しい何かが、見えてくるもの。」
私は、いつも新しい環境に身を置き始めた人たちに言います。
 
 自分達が、いつも型稽古でやっているように…
まず型に自分を嵌めていくこと。その不自由さの中から自在さをつかみ取ること
どんな仕事であれ、どんな鍛錬であれ、自身に無駄な事は一切ないのだから…。
少し出来る我慢なら、暫くは、ひょっとしてずっと我慢出来るもの
だと思いましょう。
それが、やり通せる一つのコツなのかもしれないと言っておきます。

…にしても、身体が動かなかった。
明日はさて、どうにかなるのだろうか…。
そういえば、今週末も大会があるが、小さな道場生たち、頑張ってもらいたい。
やり通すことの大切さをそこでも、感じてもらいたい。



  # by katsumi-okuda | 2012-05-11 01:14 | 稽古日誌 | Trackback | Comments(0)

ふだんの力とは

先日、思わず都内を散策した。
乃木坂辺りから通称「東京ミッドタウン」周辺。桧町公園周辺のよう。不慣れな町並みだが、何故か所々に昭和の残滓のある風情が、懐かしい。歩いていて思い出したが、私の父母が若い頃、この界隈で過ごしていたことを…。それもあるのか、意味もなく懐かしくもここに住みたい気分に曝される。
ちなみに父母は、あの二二六事件の軍靴を見ていたそうな…それこそ歴史の一幕にいた事に少し驚く。

 しかし、歩く事を想定したが想像以上に歩いた。
妻の歩数計によると16000歩近くだったらしい。履きなれない靴のせいもあり爪先が、少し疼く。加えて脚のあちこちに痛みが、出てしまった。どうやら歩き方が宜しくないようである。
良くも悪くも前重心のせいか、すぐにスネの筋肉を痛めてしまう。
そこで重心を少し後ろに移して歩いてみる。
すると、すぐに効果が現れるから不思議なものだと改めて思ったりした。

 日陰に入ると少し肌寒さを感じてしまう日和。
歩くには、丁度いい頃合いなようだ。
人々が、歩くこと走る事に興味をかき立てられるのも、こんな時は分かる気もする。
…しかし、でも私は、歩くのが苦手のようだ。
頸椎や腰・膝を痛め庇っているせいもあるが、歩くのに時として難儀をしてしまう。
なのに稽古は…と言われれば身も蓋もないが…。

ただ歩きながら、やはり「ふだんの力は、大事だし大切だ」と思った。
稽古は、道場だけに非ずとは良く聞く理である。
そして、ふだんの立ち居振る舞いの大切さは、わかっているつもりでもある。
しかし、こんなとき、そのことを思い知らされる。

ふだん過ごしている時間の方が、稽古している時間よりどれほど長い事か。
ならば、その折々、少し気を使い心がけるだけで心身は、大きく変わるものだ
と実感してしまう。
少し姿勢を正す。
一息、呼吸を整え深呼吸をする。
ちょっと大股で少し早歩きをしてみる。
そんなことでも、身体は大きく変わっていくものだ。
その日々の積み重ねは、馬鹿に出来ない。

私もいずれ、この筋肉を捨てるときが来ると理解している。
筋肉に頼らず、自身の骨格と体重の正しい姿勢・移動からなる「技」が修得出来たならば、私は潔く、この筋肉を捨てることとなるだろうが、さて、その時はいつのときやら…。
そして、好むと好まざるとに関わらず、遠からずそうなることも理解はしているが、今はまだ稽古・鍛錬に勤しまねばならない…そんなことを春の陽気に晒されながら、漫然と思った。

そして、都会の真ん中を行き交う人たちの何故か軽やかな事。
春のせいなのか、それとも一等地の余裕なのか、少し斜に構え僻んでみたくもなった。
足取りは、少しまた重くなったが、意外(!?)と疲れはない。
さて、次を思考しながら、こうしてたまには歩くのも良いかもしれない。
ただ私は、山道や獣道のほうが早足だったりするのは、気のせいだろうか…(^^)

  # by katsumi-okuda | 2012-05-08 00:37 | Trackback | Comments(0)

型を映像として残す

 取りあえず「連休二日目」
不安定な空模様だが、少しは過ごし易いか…
そんなことを思いながら、午前中から道場に向かう。
今日は、「型のビデオ撮り」の一日。

「型のビデオが欲しい」という要望が以前からあり、道場の統一制ということと道場生のための「教本」
という目的で造る事となった。
なかなか時間的な制約があり、今までのびのびとなっていた。
そして、どう作り上げて行くか呻吟としていたが、どうにか重い腰を上げた。

 と言っても、水戸のS場さん(ウチの道場の映像制作担当で、その出来はプロ級)そして、師範代に手伝ってもらう。私は、考えたすえ「ほとんど解説」に廻る事とした。

 午前11時から撮影スタートし、途中昼食と私の来客があったため午後4時までかかったが、それでも、手際よく「一発取り」で進んだ。
「観ていて大変分かり易いです。このままで良いです」とS場さん。
当初、二三台のカメラで撮ることも考えていたが、結局、ふだんの稽古風景ということで進める事としたのが幸いした。
ほとんどの演武を行ってくれた師範代とは、長年の阿吽の呼吸…解説も何の打ち合わせもなくとも正確に進む。どちらかというと私より競技寄りの型をやってくれているので観る側としては、わかりやすいのではないかと感じた。

 今回例えば「型の解釈・意味合い」は、ほとんど削除した。
まずは「正しく手順通り覚えるため」を念頭においた。
これらの型をやったからといって単純に組手で強くなるとか、組手に即応用が効くというものでは決してない。
それは多分、幾万以上型をやっていけば、少しは組手のためにはなるのだろうが、まずは自身の身体の為にやってもらうこと。つまり、型を通し、今の自身の身体の動かし方を観ることが大切。
鋳型にはめてこそ分かるものも、多いという事を知ってもらいたい。
そのためにまず「正しく覚えて」もらいたいということです。

 ラストの型として「五十四歩」は、私がやらせてもらった。
決して良い型ではないが、今の自身のあり方を残しておく事もアリかと考えたすえ…
そして、ついでといっては何だが…思案している「組手」を師範代とやってみた。
これは、中高年向け又は高段者向けの「当て止めの組手」である。
しかし、映像でとってみると、それは「演武」に限りなく近くなってしまう。
相手が師範代からなのか、その傾向は強くなってしまうようだ。
これをもって試合とする場合、どうやって優劣をつけるか、それを裁く側がいるかどうか。
まだまだ課題は多いが、少しずつ模索していきたいと感じた。
しかし、映像を見る限り師範代との「相対」は「組手」にしかみえなくもないが…。

 さて、ビデオは適正な価格でもって道場生のみなさんに頒布したいと思っております。
毎度、S場さんに手間ひまかけてもらってますので、かかった経費分等くらいは回収させてもらいたいと思いますので、ご理解下さい。
出来上がりましたら各道場へ連絡致します。
そして、道場生以外の皆さんも、もし入り用でしたらご連絡下さい。




 



  # by katsumi-okuda | 2012-05-04 23:00 | 稽古日誌 | Trackback | Comments(0)

東日本大会…それぞれの思い、そして思惑

 土日にかけて静岡にて「東日本大会」が行われました。
まずは、毎度のことながら大変なご苦労をされた大石最高師範始め静岡の道場の皆様に厚く御礼を申し上げたいと思います。それ以前から何かとご足労をおかけしてしまい心苦しい限りでした。
私たちの扱いに関し、いらぬご心配をかけてしまったことについて何やら申し訳ない気分でおりましたが、いつも以上に「らしい」試合そして大会運行を観るにつけ清々しくもあったのも事実です。
何にせよ、大会は選手達のものです。
その選手達が、一応に光の当たる舞台であれば良いとつくづく感じた大会でもありました。

 いろいろなことがあったにせよ、試合は例年以上に質の高まりと熱気を感じました。
確実にレベルの上がってきた各試合は、大きな大会に等しいものでした。
この試合を経験することの意味を私共選手一同、今後の糧にしたいと得るものの大きかった試合となりました。

 また、特に福島門馬道場の岩崎さんの「型個人二連覇・団体準優勝」「女子シニア組手の部準優勝」には、純粋に凄いことだと感じ入った大会でした。
体調万全ならいざ知らず、治りきらぬ怪我と不安定な体調をおして臨んだ姿勢は、あとに続く多くの小さな道場生たちに大きくかけがえのない、そして事に臨む時決して忘れてはならない「勇気」を身をもって伝えたのではないかと思いました。
 筆頭の指導員であり支部長という重責にも関わらず、敢えて挑んだ大会で結果を出す事の難しさは並大抵ではありません。
確かに型の試合に関しては、歴戦の経験がものを言い「上手く揃えた」感は、否めないと私は思いましたが、それにもましてそれに臨む「気魄」は、大したモノ。私たちも見習うべきものでした。
そして、不慣れなはずの「組手」に、これも敢えて果敢に臨んだその気概は、称賛の一言。
なまじ「型の名手」と呼ばれているために恥ずかしい組手は見せられぬそのプレッシャーは、いかばかりか…。それらをはね除けての入賞は何ものにも代え難いものでした。
あとは、しばらくゆっくりと静養して頂きたいと願うばかりですが、老婆心ながら、そこからあまり気が抜けすぎないようにしてもらいたいと思ってもおりますが…。

 さて「型が上手いから組手も強いんだ」という簡単な図式では当然ありません。
ただ「型を完璧に表演してみせる」行為と「ふだんの稽古通り組手をやり通す」行為は、やはり同一のもとということは、言えましょう。加えて試合場に挑む感覚を歴戦で身をもって感じておられることもプラスに働いたことと思います。どちらにせよ、一つの事に長ずれば他を益するということ。
それに尽きるのではないかと思っております。
さまざまな外的な要件も、そして「運」もありましょう。
ですが、それら全てを自身のモノにしてしまうことも「実力のうち」です。

 今一度、今回の大会を振り返ってみます。
型については、未だ数名の人たちの覇権が続いていますが、後に続く若い世代が多く見受けられたのも事実です。しかし、それを裁く審判の質の向上は、いかばかりか…。
何が良い悪いではなく、一定の基準値の元、評価を行う形を早急に整えていくことを願うばかりです。
審判をされる諸先生方自ら、選手以上に型の鍛錬を勤しまなければならないことは当然。
そして、それ以上に「観る目」を養わなければならないと実感もしております。
折角の「全日本」の冠のつく大会なのですから、私たち審判に当たる者こそが精進しなくてはならないものだと思い至った次第。
 但し、組手にせよ型にせよ「一言の文句の出様のない完全な勝ち」を選手は、どんな状況下であれ、目指さなければならないことも忘れてはならない。所詮、人様の大会に出て行く以上、その気概だけは忘れて欲しくはないと願っている。

 今回、私たちの選手は、初戦を飾る事が出来なかったものが多くいた。
その点に関しては、指導者の私自身猛省の至りではあるが、今後に繋がる点が多く見受けられた事は、大きな収穫であった。
この件に関しては、選手個人々にこれからの稽古で申し伝えていくが、何にせよ試合後にも「考え」なければならない。勝った負けたで一喜一憂するだけでは意味がない。
何故、勝てたのか、どうして負けたのかを自身で客観視出来なければならない。
そして、これからそれらをいかに補い強化していくかである。
試合において「学ぶ」とは、そういうことである。

技術・体力面そして精神面すべてにおいてこれから熟考し再度稽古に精進せねばならない。
「捲土重来」とは、それをよく成した者のみが使える言葉。
それを本当のものに出来るかどうかが、これからの一つの課題でもある。

一般部の試合ベスト8あたり、その試合の殆どが拮抗していた感がある。
どちらが勝ってもおかしくない試合が、多かった。
そこまで試合が拮抗していくと、勝敗は一つの「彩」でしかなくなってくる。
例えば、試合が、再延長までもつれ込んだ時、何気なく放つ打突で局面ががらりと変わることがよくある。そしてそれらは、出そうと考えて出してくる打突ではなく、それまで丹念に作り上げたその選手の一つの「形」そのもののことが多い。また、そんな大事な局面で反則を出してしまう選手、それもまた、ふだんの有り様が出てしまったということに他ならないと感じている。

何にせよ、ふだんの有り様がとわれるのが「試合」である。
試合とは、試すことに一理ある。
ふだん自身が鍛えた技と心を試す。
それの良し悪しが、単純に言えばその結果となるのである。
ならば、それに相応しい形をやはり、ふだんから作り上げていかなくては何にも辿り着くものではない。そして、そのことは頭では十分わかっているつもりでも、侭ならないのが又試合というものである。

  # by katsumi-okuda | 2012-05-02 01:18 | 稽古日誌 | Trackback | Comments(2)

先と後の稽古の違い

 一雨ごとに春は、初夏へと向かっていくのか…
にしても、ふいに肌寒いのは勘弁だ…ここ二三日の頭痛は、ひょっとして風邪!?

先週の金曜日、委員会の会合でそれぞれの指導法やこれからの取り組み方について歓談しました。
それぞれに真摯な姿勢の先生方の意見は、大変貴重なものです。
これからの自身の取り組み方の良い刺激となりました。

 私たちの競技の特性から考えた場合、武道の世界で言うところの「先・後」はどう稽古し、試合で使いこなしていけるでしょうか。

  「先の稽古」とは…
 私たちの競技の特性上、原則「前へ出る」組手を行う。
そのための体力・突進力、そして技術が必要となり、そのための稽古鍛錬を工夫する。
私たちが、よく行っているミット稽古は、その一例。
攻撃に特化し、前進してくる相手(ミット)を突きや蹴りで押し戻す様は、「先」に等しい。
相手の打突に合わせ「相打ち」または「合わせ」
を行う。
そのためには相打ちに相応しい体力と打たれ強さは、必須となる。
加えて、相手の打突の勢いに負けぬ「勇気」も、欠かせないものとなる。
また、どんなに激しい打突に際しても対処出来る「平生さ」も欠かすことは出来ない。
そして、その「意」は、どんな策にも必須となる。

 次に、その「先・先の先」の精度を高める為に相手と対峙して行う「相対稽古」でその意識と集中力を養うこととしているが、それに至るまでには、それ相応の稽古又は経験が必要だが…。
その意識に至る道場生は、未だ数名という厳しさ。

また、それらを常に高めていける為に「基本の稽古は欠かせない」と実感している。
基本の移動の間の取り方と早さ、型の中での立ち方の変遷と体軸の自在さ。
それらを怠りなく行うことで相手に悟られない出入りが、容易となる。
ただ何にしても、意識がなくては宝の持ち腐れ、やり損というものだと常に自戒せねばならないが…。

ここでいう「先又は、先の先」とは、対峙し相手と交互に織りなす打突の隙間を見いだすことが肝要。
打突の逢瀬に刹那空白が、現れるもの
である。
それは、やっている本人達よりも部外で観ている者の方が気づくことがある。
それは例えば、ふいに双方の打突が、一瞬止むことを指す。
そこを逃さず、打つことを「先」と考える。

又は相手が、動けない瞬間というものが、組手の最中には存在する。
そこに入り込むことを「先の先」という
が、これは難解かもしれない。
時に選手たちは、不思議と経験の多さに比例し自然身につけていくようでもあるが、まだ「身を切らせて」という感覚が、あり過ぎる嫌いは否めない。
もう少し洗練されれば、相手の打突も最小で済むのだが…。

  「後の先の稽古」とは…
これは、よく見受けられる「受け返し」に代表される稽古である。
カラテに先手無しの誤った解釈ではあるものの、相手の打突を正しく受け流すか捌き、相手の体勢を崩し、自身の攻撃を最大限に活かすこと。または、そのキッカケとすること。
但しこれは、初戦や若く勢いのある手数の多い選手には、難しい面も多々ある。
つまり、それををやっている暇がないという実感を選手達は、体感している。
そのため、どうしても格下の相手か後半、相手も疲れ痛めてきた局面での使用が多い。

元来、この手法は「火のような堅牢な構え」から相手を「気」で押し込めるくらいの姿勢が出来上がってなければ実戦では、役に立たないものである。
そして、それを使いこなすだけの選手は現在、そう多くないと実感している。
それを激しい打突の最中に使いこなす為には、それに相応しい「形」で稽古に臨むことである。

私の提唱している「実戦に限りなく近い受け返し」を道場生たちに要求するのは、将にそのせいである。正しい形を修める為にある程度の早さや強さで行うことも悪くはないし必要である。
しかし、それらが実戦で使えるようにならなければ意味がない。
ために、その強度・早さをより実戦に近づけ己の心身に刻み込ませる稽古そして鍛錬が肝要。

それらを自在に行えるところに私たちのカラテの醍醐味がある。
例えば、相手の下段に合わせて上段で迎え撃つ。
相手の突きに合わせ相手の弱い部位を打つ。

それらは「交差法」とも、呼ばれている。
そして、そのどれもが相手に負けぬ「意」を持って行わねば成り立たぬことを知っている。

そのどちらを行うにしても日々の稽古が大事。
ふだん稽古していないことなど試合で出るはずもない。
それを自身の体躯、性格、資質に照らし合わせ作り上げていくことも大事。
闇雲に稽古していては、成るものもならない道理
を知らなければならない。

折角、貴重な時間を費やし稽古に勤しんでいる皆さん
一つ先の高見を観る為に又無んかいな稽古に挑むことこそ稽古だと心して下さい。

そして、子供達や若い道場生たちに伝えたい。
「ここである程度のレベルに行けないのなら、何をやっても半解半端であると知りなさい。一流になれなくとも、自分也の一流を目指すこと。そうすることで次は必ず見えてくることを忘れては成らない」


  # by katsumi-okuda | 2012-04-24 00:41 | 稽古日誌 | Trackback | Comments(0)

組手で大事なこと

 組手で一番大事なこととは、何でしょうか!?
自問にも似たこの答えは、それぞれの人の中にあるかもしれません。

人は、その競技に見合うだけの体力と技術と言い
そして、それをその場で遺憾なく発露出来ることと考える。
至極、真っ当な意見です。

「相手より強く早く上手ければ勝てるんだョ!!」
とは、亡き創始者のお言葉…単純明快過ぎて思考停止してしまいそうです。
でも、一理あると思ってしまいますね。

特に相手のいる競技の場合、相手より勝らなければ勝てない道理があります。
しかし、相手もそうしてくるでしょう。
そして、結果、相手よりも効かせようとして「力」を揮うこととなるのです。

いつも言うように制限された私たちの競技の場合、そこには物理の法則が横たわります。
相手よりも重く相手より速ければ「力の勝負」に勝つ確率は上がります。
ですが、それが相手の方が有利な場合、当然相手に勝てる確立は極端に低くなってしまう。
そして、それをいかに覆すかが鍵となっていくのです。


いつも観ていて思うことは、やはり「意」だと感じています。
勝ち上がる選手の中で大して大きくない者が、勝ち上がっていく場合があります。
無論、大きな相手に負けない体力指数(スタミナ・打たれ強さ)を持っているには違いないのですが、それ以上に秀でていることが、観られるのです。

 それが「意」なのです。
相手に勝ろう負けぬようにという強い「意」よりも、淡々と今までやってきたことを信じ、正確にそして適時に技を施している「平生な意」を感ずることがあります。
どんなことでも、そうであるように「興奮・不安・焦燥」は何も生まないのです。

「平生と熱情」その両面を持つこと、持てることが大事だと思っています。
相手の打突に対して冷静に対処、感応出来る「意」があれば、試合は自分の範疇となります。
つまり、負けない試合が組み立てられるのです。

そして、その結果として勝てる確率が、中盤以降高くなっていくと言えるのです。

相手を中心に回り込むも良し、相手の打突を捌き同時にこちらの打突を当てていき、押し込んでいくのも良し、その方法論は選手個人のカラーです。
大事なのは、それを確実に実行出来る「意」を全面に押し立てていくことだと思っています。

冷静でありさえすれば、相手と違うリズム・間で戦うことも容易です。
何も相手と付き合って戦うばかりが、組手ではない。
相手のリズムを崩してこその組手「小善く大を制す」ということです。

あまりに勝とうという意識が強すぎる行為は、自身を見失う元となります。
それよりも大事なことは、今までやってきたことを絶対に信じている自分がいるということです。
それこそが、盤石な姿勢、構えを生み、適時有効な技を放つ元となるのです。


 私の組手は競技の組手の参考にはならないことをお断りしておきますが、ここに私の組手のあり方の一つを書き留めておきます。
ただし、これは道場生相手では、ありません。
…今まで自分の弟子に思いっきり打突をいれたことは、皆無なので…。


…相手と対峙して今まで気後れしたことは、一度もない。
どんなに大きな相手であっても、相手が何か持っていても…。
どうしたことか、いつも以上に冷静でいられる。
多分、それも自分の性格なのだと思っている。

 理想は…散歩に出かけるように相手に近づき刹那に突くか、蹴る。
それだけである。
つまり、相手に余計な隙を与えないことを第一としている。
相手の打突の基線を読み、相手の二三手先まで読む。
そして、打突の強度からいくらかの修正をしながら、間をそしてリズム(出入りの早さ)を変えて行く。

ゆるゆると長い腕を前後左右に動かし、滑るように動くこともある。
しかし、そればかりに気を取られることはない。
基本は、相手である。
相手の動きに合わせ、こちらの動きは変化させることにしている。

どんなに相手に連打をもらっていても、平生にしている。
例え、どんなに効いたとしても、次の一手を考える。
相手の連打の隙間を縫って、同時に技を入れる。
相手が寸分止まれば、流れはこちらに傾く道理。
それを切っ掛けに動きを変え、流れをこちらに引き寄せていく。
結果、組手で勝たないまでも、負けないようになる。
そして、その積み重ねが、勝てる組手へと形を整えていく。
そう私は、強く信じ、日々の稽古を修めるようにしている。
日々の稽古の積み重ねしか、所詮「試合」には、現すことは適わないことを知っている。

組手や試合には、運もあろう。
しかし、その打突に「ラッキーパンチ」なるものはない。
あるのは、ただ淡々とした日々の積み重ねの上になる「一つの打突」しかない。
故に「組手で大事」とは、将に「日々の稽古・鍛錬」そのものなのだと確信している。

人は人である。
人が享楽に遊ぶ時、私は悶々としているかもしれない。
しかし、人は人。自分は、やはり自分でしかない。
その時の自分を造るために私は、稽古に臨むだけ…。

  # by katsumi-okuda | 2012-04-20 02:43 | 稽古日誌 | Trackback | Comments(0)

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